ここは、セニアと兄の思い出が一番多い場所だった。
 そう言えば、きっと口さがないトリス辺りは笑うだろう。
「訓練場が一番思い出深いなんて、色気がないにもほどがあるんじゃない?」
 台詞どころか、どこか猫を思わせるその瞳の具合まで想像できる。
 だがなんと言われようとセニアにとって、兄との鍛錬のひと時は貴重だった。セイレンの稽古はそれなりの厳しさを伴ったものではあったが、彼を独占できる時間でもある。
 自分の一挙手一投足を見守る彼のまなざし。きちんと教えられた通りに動けた時の微笑。そういったものを目の端に認めるその度に、交わす言葉は少なくても、心はちゃんと通っているのだと感じられて、ふうっと体が軽くなるような幸福感を覚える。
 そんな場所で彼女が何をしているかと言えば、それは問うまでもないだろう。
 訓練向きに開けた広間に設けられた休憩用のベンチ。そこに腰掛けて、手には編み棒、傍らには毛糸、膝の上には九割方仕上がったマフラー。
 ひと編みごとに幸福そうなその挙措を見れば、誰の為の贈り物なのかも想像に難くない。
 剣術と手芸には通じるところがあると、セニアは思っている。
 例えば、気持ちばかりに囚われてはいけないところだ。
 勝ちたいという心にばかり逸った剣は、容易く読まれる大雑把なものに成り下がるだろう。
 だから、なんというか、その。好き、という気持ち――これを自認するだけで頬を赤らめるのは、ここではきっと彼女くらいだ――ばかりに偏って、基本を疎かにした編み物というのも、あまり美しくないものになってしまうに違いない。
 故に回想ばかりに、自分の気持ちばかりで一杯になってしまわないように。けれど心からの、偽りの少しもない想いで。彼女はそれをゆっくりと編み上げていく。
 そうして、どれくらいが過ぎたろう。
 くしゅん、と思わず出たくしゃみで、セニアは手元にのめり込んでいた意識を回復した。肩掛けにしてきたマントの前をきゅっと合わせ直す。このところ随分と冷え込みがきつい。

 ――あのひとは、これを喜んでくれるだろうか。

 ふっと思う。ただの防寒具としてだけではなく。編み込んだ気持ちも一緒に受け取ってくれるだろうか。
 きっと、無理だろう。
 即座に出てしまう答えに、セニアは心底からのため息をついた。
「……。にいさまの――」
 愚痴のように呟きかけたその言葉に、
「呼んだか?」
「っ!?」
 唐突な応答があって、セニアはベンチから転げ落ちそうになった。
 声のした方に目をやれば、そこには紛う事なき兄の姿。平素の鎧姿ではない、ラフな出で立ち。それでも帯剣しているのが彼らしいといえばらしかった。
「に、に、に」
「一体どうしたんだ? この寒い中、こんな時間に」
 セニアの狼狽の間にも、セイレンは着々と近づいてくる。
 確かにここは常日頃彼が鍛錬を重ねる一角であって、つまるところ彼の行動圏内であって、だから彼がやってきたとしてもなんの不思議もない。でも、よりにもよってこんな時に、こんなタイミングで。
 うろたえて言葉が出てこない。そもそも何をしているのかがここまであからさまでは、言い逃れだってできっこない。

 ――いつものあの場所で、あと少しを仕上げてみるのはどうだろう。

 閃いた瞬間、その考えは名案のようだったけれど。今にして思えば誰かに見つかった時の事をまるで考慮していない。思いつきだけで舞い上がってしまった数十分前の自分を、セニアはぎゅっとつねってやりたい気持ちになった。
 よりにもよって完成前の品を、贈りたい相手に見られるなんて。
「珍しいな」
 迷走するセニアの心などまるで悟らず、隣までやってきたセイレンは硬直した妹の手元を覗き込んだ。
 その珍しいがどこにかかるのか、判断に困るところだった。こんな時間に珍しい、なのか。珍しい事をしているな、なのか。後者ならば珍しくありません毎年の事ですと抗弁したかったが、それはそれで自縄自縛だ。毎年編み上げたマフラーが渡せないままに貯まり込んでるなんて、口が裂けても告白できない秘密だった。
「ちッ、ちがうんです。これは、その……」
 身を小さくしてマフラーを胸に抱え込み、セニアは必死に言葉を紡ぐ。
「失敗なので捨てようと。えっと……」
 自分で言って、そして失策したと気付いた。編み物に疎い兄でも、毛糸を解いて再利用できるくらいは知っているだろう。
「解くとですね、毛糸の元気みたいなのがなくなってしまうから、それでちゃんとしようと思って」
 誤魔化すつもりがますます支離滅裂だった。
 そもそもセイレンは、セニアの言葉を疑う事がない。騙されやすい人物というわけでは決してないのだが、しかし殆ど無条件にセニアを信用する向きがある。だからこそ、彼に嘘をつくのが彼女には余計心苦しい。その絶対の信頼を裏切っている事になるからだ。
「セニア」
 更に言い募ろうとしたところを遮られた。
「慕う相手がいるといるというのは、別段恥すべき事ではないと思う」
 ぽん、と兄の手が頭に乗った。そして、少し寂しそうに微笑んだ。
「隠したいというのなら無理に相手までは訊かないが……そうか、セニアにもとうとう、そういう相手が出来たんだな」
 急に水から引っ張り出された魚のように、セニアは口を開閉させた。なんだろう、この気遣いの見当違いっぷりは。ひょっとして彼は自分の気持ちも何も全部知っていて、承知の上でからかっているのじゃないかとすら思う。
「だからっ! 違います、誤解です、いませんそんな相手」
 本当はいるけど言えません。本人になんて。
「これはその、練習を兼ねて自分用を編んでいただけですから。でも納得がいかないから捨てるだけの事です。ええ、捨てるところだったんですっ」
「そう、なのか?」
 兄の、若干ながら安堵したような表情を、迂闊にもセニアは見逃した。
 彼女の中で、もっと火急の問題が発生していた。休憩所、というロケーションを失念していたのだ。ここにはベンチの他にも、簡単な飲食物の自動販売機が置かれている。となると当然、飲食に伴って発生するゴミに対応するゴミ箱も同時に敷設されているという事で。
 目の前が真っ暗になりかけた。今年こそは、と思ったのに。つまらない嘘の所為で、捨ててしまわなければならなくなるなんて。
 やっぱり毛糸が勿体無いから再利用する事にします、くらいを言ってしまえばいいのだが、セニアは嘘にも誤魔化しにも不慣れだった。動転した頭は、前言の撤回という単純な芸当も思いつかない。ただ自分の言葉に囚われて、彼女は只管におろおろとする。
「おや、おふたりさん。こんばんは」
 泣き出してしまいそうな暗澹の助け舟は、がらがらと台車の音を立ててやってきた。
 それはゴミを引いたリムーバだった。あちこちに設置されているダストボックスから回収してきたのであろうビニール袋を後ろに積んでいる。2階も3階も賄い自体は自分たちでこなしているが、そこで発生する生ゴミの処理は彼らに委託していた。
「ああ、お疲れ様です」
「あ、こ、こんばんは」
 少しばかり驚いたような間の後に挨拶が返り、リムーバは黙ってもう一度会釈する。
 実を言うと彼は、少し前からそこにいた。セニアとセイレンがそれに気付かなかったのは、一重にふたりが互いに気を取られすぎていたからに他ならない。だから大体の事情は把握していたし、だから本来なら、察知されないうちに立ち去るつもりだった。
 声をかけたのは、これはちょっとばかり後押しをせねばなるまいという縁談を持ち込む親戚のおばさんめいた心持ちになったからだ。
 実力的な見地から言えば、このふたりはリムーバにとって、雲の上の存在とすら言っていい。だが、どちらも如何せん若かった。
 その若さを、リムーバは愛おしむべきものであると感じていた。
 この研究所が、自分たちが彼らにした事を振り返れば、恨まれこそすれ、未来永劫親しまれる事などないだろう。けれど、それでも見守っていきたいと思っていた。彼らがどういう目で自分を見ようと、彼らは自分にとっては、息子娘のようなものだ。
 ただの余計なお節介に堕するかもしれないが、それでもセニアの幸福を応援しようとして何の悪い事があろうか。
「丁度聞こえてきたんですがね。それ、捨ててしまうんですか?」
 セニアの手にするマフラーのものを指して、さも惜しいと言わんばかりの雰囲気で問う。
「あ、う、えと……」
「そうらしい。勿体無いとは思うのだが」
 口ごもるセニアに対して、セイレンが淀みなく応じる。この騎士はきっと、これでフォローしたつもりなのだ。戦闘時の知覚能力を引き上げるべく、日常のそれを切り落としているのではないかと勘繰りたくなる。
「本当に勿体無い。よく出来てるじゃありませんか」
 うんうん、と自慢げに同意するセイレン。居場所をなくしたように、ますます縮こまるセニア。
 リムーバ的に言わせてもらいたいですがね。よくできてるのは気持ちが籠もっているからですよ? そのうち朴念仁と書いてセイレン=ウィンザーとルビを振りますよ?
「ところで。最近冷えますよねぇ、セイレンさん」
「ん?」
 リムーバの唐突な切り出しに、セイレンは話の筋を見失う。まあリムーバからしてみれば、誘導の為にわざと見失わせたのだけれど。
「いえね、私はこんな体だからいいですが、3階は結構大変じゃないかと思いましてね」
「そうだな。俺の精進が足りないのもあるのかもしれないが、やはり肌寒い」
「空調だけでカバーしきるには、ちょっと空間が広すぎますからねぇ。というわけで、ではセニアさん」
「あっ、はい?」
 この隙に編み物をしまおうかどうしようか逡巡していた彼女が、振られてはっと顔を上げる。
「それ、仕上げてお兄さんにプレゼントしたらいかがですか」
「えっ!?」
「捨ててしまうより、ずっといいと思いますけどね? 編み上げの練習にもなりますし、毛糸も無駄にならない」
「あ、え、でも、でも……兄さんがなんて、私のなんて欲しいかどうか……」
 後半は消え入りそうな声になって、上目遣いに彼女は兄の様子を窺う。対してセイレンはふっと微笑んだ。
「もしそうしてもらえるのなら、俺はとても嬉しいよ」
 セイレンの鈍さは木石並だが、同時にセニアも相当に疎い。リムーバはそう思う。例えばこの騎士が、他の誰に対して今のようにものやわらかに笑むというのか。
「でも、その、あんまり編み目も綺麗じゃありませんし、やっぱり納得のいかない出来ですし、それから、その、その……」 
「例えば愛用の剣。友人の形見に受け継いだ盾。先祖伝来の鎧。そうした、世間一般の価値観だけでは計れない、別の価値を備えたものが、世の中にはあると思っている。そしてそうして付帯する、個人にとって特別で格別の価値こそを、俺は真価と呼ぶのだと思う」
 きょとん、と兄を見返すセニア。
 リムーバは半歩身を引いた。後は任せておいてもいいだろうか、と考える。
「――つまり、その、だ」
 ロードナイトは明後日の方向に視線をやって、照れたように頬を掻いた。
「もしも貰えるのなら、俺はそれを、とても大事にするつもりだよ」
 剣士の頬がわっと赤くなる。
「それじゃあ……それじゃあっ、ちゃんと仕上げます。ちゃんと兄さんに渡せるように!」
「ああ。期待している」
 照れ隠しめいて、セイレンはセニアの頭に手をやった。子供にするように、くしゃくしゃと髪を撫でる。立ち去るに立ち去れないタイミングでそんな挙に及ばれて、仕方なくリムーバは帽子を目深にする。
 セニアはしばらくそのまま、ぽおっとされるがままでいたが、
「……もう。子供扱いしないでください」
 やがて小さく頬を膨らませて、そう小さく呟いた。拒絶とはとても思えない声に、けれどセイレンは律儀に応じた。
「あ……」
 言葉の上だけにせよ、自分から拒んでおきながら。
 すまない、と告げて離れる手を、セニアは名残惜しそうに見やる。
「ともあれ、だ。何をするにしろ、あまり根を詰めすぎるのもよくない。今夜はもう部屋に帰った方がいいと思うぞ?」
 そこでようやく己の行為に気恥ずかしさを覚えたのか。セイレンはひとつ咳払いをしてからそう言って、妹も大人しく首肯した。
「では、おやすみ。冷えるから、風邪を引かないようにな」
 そうして背を向けかける兄に、
「にいさま!」
 もう久しく口にしていなかった、幼い時分の呼びかけ。兄の驚いたような顔でそれが思わず口をついたと悟って、呼び止めた勢いはどこへやら、セニアは下を向く。耳まで上気して、今にも湯気が出そうだった。
 心臓の上に両てのひらを重ねる。早鐘のようだった。
 それでも。それでもいつも伝えられずにいる事、伝えたい事をきっと伝えようと、息を吸い込んだ。
「……その、すごく尊敬しています! いつもありがとうございます。今後ともご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いします!」
 その勢いにちょっと呆気にとられて、けれどセイレンはまた優しく笑った。
「ああ。こちらこそ、よろしく」
 セニアさん。リムーバ的にはとても言いたいです。こんなので何ガッツポーズ決めてるんですか。この程度で何やり遂げた顔してるんですか。
 こっそり嘆息。だがまあ、少しは前進したのだと思いたい。
「よかったですね」
 再度おやすみを言い交わしてセイレンが去って。そこで改めてリムーバはセニアに声をかけた。
「え?」
 いつまでも背を見送っていた少女は、疑問げに首を傾げる。
「ちゃんと、渡せそうで」
「はい!」
 途端、笑顔になった。文句のつけようもない、極上の笑顔だった。一流の剣士としての面影は欠片もない。いや――年頃の少女めいた、これこそが、本来の彼女なのかもしれない。リムーバはひどく微笑ましい気分になる。
「――あの」
「はい?」
 そこへ急にトーンを落として呼びかけられて、今度はリムーバが首を傾げる番だった。言葉を選ぶようにしばし沈黙し、不躾かもしれないんですけど、などと前置きしてからセニアは続ける。
「こんな体、なんて言わないで、自分の事もちゃんと労ってあげてください。私たちだって仲間というか、家族みたなものなんですから」
「――」
 咄嗟に、返す言葉が出なかった。不意打ちにもほどがあった。
「……はい」
 辛うじて頷く。短く、だが強く。
「はい、留意します」
 応じて返るやわらかな笑み。こういうところは、不思議とセイレンによく似ている。


 後日。
 生体工学研究所にて、誰かの手製らしいマフラーをしっかり巻いて作業に従事するリムーバが目撃されたとか、されなかったとか。
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