カトリーヌは先ほどから気になっていた喉の渇きに耐えられなくなり、読んでいた本を閉じた。
研究所は静かだった。時間的に、皆はもう寝ている頃だろう。
行き先は食堂。マントを羽織り、扉を開ける。
―― ・・・?
カトリーヌの常人の数倍はあろうかという嗅覚が、ある匂いをとらえた。廊下にまで漂う、香ばしい香り。
瞳がらんらんと輝き、口元が小さく歪む。背中からは、青白い光が放たれていた。


「カッ、カトリ!?」
凄まじい音を立ててドアを開けるやいなや、カトリーヌは厨房に駆けこんだ。
そこではエプロンを着たハワードが、鍋の中身をかき混ぜていた。
「ま、待ってくれ!! FDJTはやめろ!!! ああああSGもSGも!!」
「・・・ハワード・・・」
ハワードに向けられた手の平は、すでに青く発光していた。
幾多の侵入者を葬ってきた、空間が歪むほどの魔力。
「まずはオレの話を聞いてくれ!! これは一晩寝かせておこうと――!!!」
「・・・寝かせる?」


鍋の中身は、カレーだった。



「カレーは一晩寝かせると味がまろやかになるってエレメスから聞いたんでな・・・」
心の底から安堵した様子のハワードは、鍋の火を弱めてからぽつりぽつりと話し始めた。
「ここの鍋じゃ一食分しか作れないんで、皆が寝た後に作ろうと思ったんだよ・・・」
カレーは他のおかずと合わせにくい。せいぜいサラダが関の山である。
この2品だけで満腹になりたければ、カレーを大量に食べるしかない。
いきおいご飯も大量に消費されることになる。この間は10升を炊いたらしい。
「・・・カトリ、聞いてるのか?」
鍋の方を向いたまま、カトリーヌはうなずいた。
さながら、お預けと言われた犬のようである。鍋から全く視線が動いていない。
「・・・おいしそう」
「明日になったらもっとうまくなってるはずだから、それまで待っててくれ・・・」
「・・・(ごくり)」
その反応が明日のカレーへの希望からきたのか、
それとも今すぐカレーを食べたいという欲望からきたのか、ハワードは判断できなかった。

「ところで、なんでまたこんな時間に?」
なんとかしてカトリーヌの注意を鍋からそらそうと、ハワードは切り出した。
さしあたり命の危険は去ったようだが、このままではまた襲われかねない。
「喉・・・渇いたから・・・」
「なんだ、そういうことか。水でいいか?」
「・・・うん」
ハワードは冷蔵庫から水差しを、食器棚からガラスのコップをふたつ、取り出した。
生水をそのまま飲むのはまずかろうということで、湯冷ましを使っているのである。
「・・・ありがとう」
「なに、オレも喉が渇いてたから、ちょうどよかった」
渡されたコップの水を、少しだけ、口に含む。



「ふいーっ、つかれたーっ」
セシルの声が、風呂にこだました。
「カトリ、マーガレッタは?」
「・・・もう・・・出てった・・・」
「よかった、今日は落ち着いて入れそうね」
セシルは桶に目一杯の湯を入れ、肩からかぶった。
「マーガレッタと一緒に入ると、疲れが抜けないのよね・・・」
生体工学研究所地下3階の性職者、もとい聖職者マーガレッタに、セシルはたびたび襲われている。
それは時と場所を選ばないが、中でも最も危険性が高いのが風呂である。
何より互いが裸であり、周囲に女性しかおらず、しかも密室となる風呂ほど、都合のいい場所はない。
「・・・はい」
「あ、ありがと」
隣に座ったセシルに、石けんを渡す。
タオルで擦り終えた体は泡まみれで、あとはシャワーを浴びるだけとなっていた。
「風呂ぐらい落ち着かせて欲しいわよ、ほんと」
半ば独り言のように、セシルが呟く。
「でも・・・マーガレッタと遊んでるセシル・・・楽しそう」
「カトリ、あなたも一度、やられた方がいいわ・・・」
マーガレッタは無論全力で楽しんでいるが、しかしセシルの方も、本気で嫌がっているようには見えない。
「ああもう、思い出しただけで寒気がしてきた」
「・・・じゃあ」
「?」
髪にやっていた手を止め、セシルは自分の方を向いた。
「マーガレッタじゃなくて、エレメス・・・だったら?」
「ひでぶっ」
セシルは口から妙な音を立てながら器用にも座った姿勢のまま後ろに倒れていき、
そのままタイルに後頭部を打ちつけた。鈍い音が風呂の壁に反響する。
「な、なななななななんでそこであのバカの名前が出てくるのよっ!!?」
「なんとなく・・・気になっただけ」
「エレメスなんかに触られるぐらいならマーガレッタの方がまだましよっ!」
大股を開いたあられもない姿で頭をさすりながら、セシルは体を起こした。
「・・・セシル、顔、赤い」
「これはのぼせただけっ! あのバカのことなんて別になんとも思ってないんだからっ!!」
そうは言うものの、一度肩から湯をかぶったぐらいで耳まで赤くなるようなことがあるものだろうか。
「だいたい、ここの男なんかに興味ないわよ。セイレンはロリペドでシスコンだし、
 ハワードはエレメスの尻ばっかり追いかけてるし・・・」
「・・・エレメスは?」
顔を真っ赤にしたまま、セシルが睨みつけてきた。
「マーガレッタに姫wwwなんて言ってる男よ!? 絶対ありえない!!」
その表情から怒りがはっきりと見て取れる。が、怒りだけではないことも、また読み取れた。
「ふーん・・・」
ぼんやりと眺めている自分をよそに、セシルは何事かをぶつぶつと呟いている。
「・・・そう」
「そうよっ!」
そう叫んだセシルの顔は、やはり真っ赤だった。



「・・・さて、火はこんなもんでいいか」
残っていた水を一気に飲み干してから、ハワードは弱火にしてあったコンロの火を消した。
「そろそろ俺は寝るけども、カトリはどうする?」
「・・・まだ飲み終わって、ない」
カトリーヌのコップの水は、まだ半分ほど残っていた。
「カレーなら・・・大丈夫。私が・・・見てるから・・・」
それが一番怖い、という言葉が喉まで出かかったが、
女性に対する発言としてはかなり不適当だと思われたので、ハワードはその代わりにため息をついた。
それでも十分失礼だが、カトリーヌが気分を害した様子はない。
「ま、いいか・・・。それじゃ、先に寝るとするかね。
 それを食べたら明日の昼飯がなくなると思ってくれよ。買い出しは明日の午後なんだから」
「わかってる・・・。明日の当番は、私だから・・・」
「ああ、そうか。そういえば俺とカトリだったっけな。ま、とりあえず頼んだぜ」
脱いだエプロンを壁にかけ、ハワードは部屋を出て行った。



エレメスは鼻歌を歌いながら、食事の準備をしていた。
料理の腕は研究所随一。しかも6人がローテーションで作っているにもかかわらず、
なお自分たちが見たことのない料理を出してきたりすることもある。
「エレメス・・・まだ・・・?」
「もう少しでござるwwwだからJTはやめてほしいでござるwww」
別に脅したつもりはないし、呪文を唱えるようなこともしていないのだが、日頃の行いのせいか、
自分の方を振り向いたエレメスの笑顔は引きつっていた。
「・・・わかった」
エレメスが鍋の蓋を開けた。食欲をそそる匂いが立ち上る。
この瞬間が好きだ。この匂いのために、食事ができるはるか前、調理を始めたあたりから、
ずっとここでエレメスの後ろ姿を眺めている。
本当は他の4人が料理を作っている時にもそうしたいのだが、
調理に集中できないとマーガレッタにまで頭を下げられてしまったので、
その時に何も言わなかったエレメスが当番の時だけに抑えている。
「エレメスは・・・」
「む?」
「マーガレッタのこと、・・・好き?」
エレメスは呵々と笑った。
「もちろんでござるwww姫のためならたとえ火の中水の中、拙者はどこへでも行くでござるよwww」
「・・・セシルは?」
「セシル殿はどちらかといえば妹のようでござるな。からかうのは命がけでござるがwww」
怒号を飛ばしながらDSを放つセシルとそれから逃げるエレメスはすでに3階の風景の一部と化していたが、
他の4人が流れ矢を恐れることなく静観していられるのは、
エレメスが全員の位置を把握しつつ逃走ルートを選んでいるからである。
もっとも頭に血が上ったセシルはそのことに気付いていないようだが。
「妹といえばトリスでござるが・・・最近悪戯が陰湿になってきていて迂闊には手が出せないのでござる。
 セシル殿の方が後腐れなくからかえて楽しいのでござるよwww」
「ふーん・・・」
しばしの沈黙の後に、エレメスは再び手を動かし始めた。
エレメスは片手間で女性と話すようなことはしない。作業を止めて、目を合わせない程度に顔を見て話す。
「トリスに・・・言おうかな・・・」
一言呟くと、エレメスは蒼白になった。今度は笑顔も消え失せている。
「そ、それは勘弁してほしいでござる! 拙者落ち着いて寝られなくなるでござる!!」
以前、トリスがガードマフラーを持ってエレメスを脅しているのを目にする機会があった。
その時点では脅しだったようだが、そのマフラーが然るべき人物に渡されれば――と、そこで思考を打ち切る。
「口は・・・災いのもと・・・」
「全くそのとおりでござるな・・・。・・・いやはや」
大きなため息をついてから、エレメスは肩をすくめた。



誰もいなくなった食堂 ―厨房もここから見える― で、
ハワードがそうしたように、コップの水を喉に流し込む。
本当は、一息に飲んでしまいたいほど喉が渇いていた。
そうしようと思わなかったのは、なんのことはない、ここに彼がいたから。
コップに水が入っている間は、違和感なく座っていられる。
コップに水が入っている間は、2人きりでいられる――そう思ったから。


冷血の魔道士。
いつの間にかそう呼ばれていただけのことであって、好き好んでそんな名前を名乗っていたわけではない。
ただ、そう呼ばれても仕方がないとも思っていた。
自分に近づいてくるもの ―人間に限らない― は、すべて遠ざけてきた。
ただ煩わしかった。人間の嫉妬と羨望、それだけならまだいい。
しかしよりによってウィザードギルドは"その場所"の真上にあった――別に偶然でもなんでもない。
"その場所"を押さえ込むためにまず塔が建てられ、その後に街が造られたのである。
ゲフェニアの悪魔――思い出すたびに、背筋が冷たくなる。
あの悪魔は鏡だ。私は鏡に映った自分の姿から目をそらした。
怖かった。ただ怖かった。私はあのような姿をしていたのだ。

最後の一口を、飲み干す。


「顔色が悪いな、大丈夫か?」
あの時、彼はそう言った。夢遊病にかかったようになっていた私に、彼はそう言った。
彼はゲフェンの鍛冶屋だった。自分のふたつ名を知らなかったはずはない。それでも彼はそう言った。
後で、ブラックスミスギルドの長だと知った。名前は、ハワード=アルトアイゼン。


セシルのように、たとえ素直ではなくとも、相手に想いが伝わればいいのに。
エレメスのように、たとえ叶わない想いだとしても、相手に伝えられればいいのに。



流しに置かれたコップに、目が留まった。洗った様子はない。
手にとって、光に透かしてみる。しっかりと、彼が触れた跡が残っていた。


なぜそんなことを考えたのか、わからない。

それでもいいではないか。何もかも、理解しようとする方が無茶なのだ。

心臓の鼓動が、不意に早くなった。誰が冷血などと称したのか、私は知らない。




小さく息を吸い込んで、彼女はコップの縁に、そっと唇をあてた。









「ハワード、今日は朝からカレーなのか?」
「いや、コイツは昼飯だな。さすがに朝から食わす気はねぇよ」
騎士団での生活が染みついているのか、食事当番の次にセイレンは目を覚ます。
その割に、聖堂では朝食前に祈りを捧げていたはずのマーガレッタが朝に弱いのは、
やはりマーガレッタがマーガレッタたる所以であろうか。とかく彼女は聖職者らしからぬ振る舞いをする。
「なんかカレーの匂いがしたんだけど、やっぱりそうだったのね」
入ってきたのはセシルである。
「おお、一晩寝かせたのでござるか。いやー、カトリーヌ殿に見つからなくてよかったでごぶはっ!?」
JTを受けたエレメスが反対側の壁にめり込んだ。セイレンが頭を抱えている。
「おはよーさん、朝から元気だな」
「・・・おはよう、ハワード・・・」
カトリーヌはいつものように、厨房を一瞥してから席についた。



――いつものように。何もなかったかのように。

セシルのように、言わなくても伝わるのではなく。
エレメスのように、言い続けて伝えるのでもなく。


顔にも出ない。声にも出さない。それでも、いいではないか。



伝わらないのなら、伝えたいときに、伝えられる。

それで、いいではないか。






彼女が少しだけ頬を緩めていたことに気づいたのは、果たして、彼女だけだった。
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