キイイィィィン!
金属と金属がぶつかり合う甲高い音を響かせ、トリスの短剣が弾け飛んだ。
その軌跡を眼で追い呆然と荒い息を吐く彼女を見て、拙者――エレメス=ガイルはカタールを下ろした。
「勝負あり、でござるな」
「くっそぉ…また負けたかぁ」
全身の緊張が抜けてゆき、トリスはがっくりと肩を落とす。
ここは、生体研究所の内部に設けられた闘技場。
訓練の一環として模擬戦を行う時は、研究所の面々はいつもこの施設を使用している。
今日の対戦成績は、相手が格下という事もあり、5戦5勝。
もちろんこの結果は、職業や年齢的な差異から当然であって、まったく自慢できるものではない。
だが、どうやらトリスは、そう思ってはいないらしい。
「アニキ、もう一回!」
「これこれ、もう体力の限界でござろう…休む事もまた修行でござるよ」
事実、彼女の額には玉の汗が光り、その足は疲労からがくがくと震えている。
これ以上続けても無意味…どころか、かえって毒になる。
「アタシはまだまだやれるから…もう一度だけ!」
しかしよほど悔しかったのだろうか、トリスが引き下がる気配はない。
力が抜けてしまいそうになる身体を必死で鼓舞し、短剣を構えている。
「仕方ないでござるな……」
やれやれとため息混じりに、カタールを持ち上げる。
その負けん気の強さに、今日も流されてしまった。
なるべく早く終わらせよう。
トリスの負担を軽くするために。
出来れば一撃で仕留めよう。
トリスの身体に、これ以上の痣を作らないために。
「行くでござるよ!」
掛け声と共に、走り出す。
ほんの少しだけ…本気を出そう。

「まーたー負ーけーたー……」
夕食の席、トリスの口から漏れ出すのは、疲労に満ち満ちた愚痴ばかりだった。
結局最後の一戦にも敗れてしまったのだから、当然といえば当然だろう。
地団駄を踏む姿は子供っぽくて可愛らしいとは思うのだが、その向上心は見習うべきかもしれない。
だが、今は食事時である。
楽しく食べてもらわなければ、腕を振るった甲斐がないというものだ。
「トリス、訓練の事はまた後で考えれば良いのではござらんか」
アサシンクロスの装束の上からエプロンを羽織ったまま、料理を持って食堂に入る。
今日の夕食は、グラタンと野菜スープ、そしてサラダ。
疲労の度合いも考えて、薄めであっさりした味付けを心がけた。
「せっかくの料理が冷めてしまうゆえ…今は食べる事に集中するでござるよ」
「うん…いただきます」
渋々といった感じで食べ始めるトリス。
だが、次第にその表情からは憂いが消え、代わりに美味しいものを食べる喜びが広がってゆく。
鍛錬を終えた後の、いつもの光景だった。
彼女を眺めていると、美味しい料理には魔法が掛けられているのではないかと思えてくる。
どんなに不機嫌な者でも、たちまち幸福の海に溺れさせてしまう魔法。
食べてくれる者を、そして作った者をすら笑顔に変えてしまう魔法。
まして、それが愛しい者であれば尚更に……
「…まあ、そこまで単純なのは、トリスとカトリーヌ殿くらいでござろうが」
「ん、なんか言った?」
どうやら無意識に漏れていたらしい呟きに、トリスが反応する。
「い、いや、何も言ってないでござるよ?」
あわてて誤魔化す拙者に、ふーん?と不思議そうな瞳を向けるトリス。
追求から逃れようと、必死で話を反らそうとする。
「そうだ、トリス、おかわりはどうでござ……」
しかしその言葉は、最後まで続かぬうちに、遠くから響いてきた大きな音に打ち消された。
剣と剣がぶつかり合う、甲高い音。
魔術が壁を破壊する、鈍い音。
そして剣の、魔術の使い手たちが上げる、戦意に満ちた声。
それは、拙者たちの敵。
拙者たちを狩る者、そして、拙者たちが狩る者。
「…侵入者!」
トリスの顔が、瞬時に引き締まる。
持っていたスプーンを放り出し、そのまま駆け出そうとする。
不味い。
今のトリスは、訓練による疲労でいっぱいの筈だ。
たとえ相手のレベルが低かったとしても、満足に戦える状態ではない。
「トリス、お主はここで休んで……」
「大丈夫!」
声を上げたが、時すでに遅し。
まさしく風のような俊敏さで、トリスは侵入者の元へと飛び出していってしまった。
不覚。
焦りを感じつつ、エプロンを脱ぎ捨てる。
愛用のカタールを取り、全速で走る。
トリスの足は速い。
その素早さは、3階の面々と比較してもなんら遜色ないほどだ。
「拙者でも追いつけるかどうか……」
ぎりり、と噛み締めた奥歯から、血の味が口の中に広がった。
だが、今更後悔しても仕方がない。
まずはトリスを助けねば。
はやる気持ちを抑えながら。
拙者はさらに、速度を上げた。

拙者が戦場に辿り着いた時、トリスはすでに戦いに身を投じていた。
「だあぁぁっ!」
雄叫びを上げながらロードナイトに切りかかるトリス。
だが、その身のこなしに、いつものキレはなかった。
膝はがくがくと震え。
上体の運びはふらつき。
振るわれる刃に、鋭さは微塵もない。
転生を経て更なる力を手にしているロードナイトと、疲労困憊のトリス。
勝負の行方など、火を見るより明らかだ。
「あっ……!」
どう加勢するか考えていると、不意にトリスの声が聞こえてきた。
あわててそちらに目をやると、体勢を崩して床に手をついたトリスがいた。
どうやら足がもつれて、転んでしまったらしい。
そしてもちろん、その隙を見逃すロードナイトではない。
にやりと口の端に浮かべられた笑みと共に、大きな槍がトリスに向けて振りかぶられる。
危ない!
思った時には、すでに身体は動いていた。
理路整然とした思考など、彼方に消し飛んでいた。
それは暗殺者らしからぬ、焦燥。
暗殺者としてあってはならない、動揺。
しかし、それらを補って余りある力を放ち、拙者は走る。
愛する者を、愛しい者を――トリスを守るために。


思い通りにならない身体を叱咤しながら、アタシ――ヒュッケバイン=トリスは戦っていた。
疲れているとはいっても、充分に戦えると思っていた。
この程度で休んでなどいられないと思った。
しかし。
訓練によって溜まった疲労は、アタシの予想を遥かに上回る量だったのだ。

上がった息、重い足、動かない腕。
全てがアタシを縛る枷となり、動きの邪魔をする。
そして目の前のロードナイトは、そんな状態で勝てるほど甘い相手ではなかった。
じりじりと追い詰められている。
その自覚は、もちろんあった。
このままではやられる。
そんな事は、もちろん分かっていた。
だが…何も出来ない。
何かを仕掛けられるような状態ではないのだ。
ただただ、焦りばかりが加速してゆく。
「あっ……!」
それは、極限まで蓄積した疲労ゆえだったか。
それとも、高まった焦りのせいなのか。
アタシは足をもつれさせ、手をついてしまったのだ。
ヤバい、と思った時にはもう遅い。
こんなにも明らかな隙を、見逃してくれる相手ではないのだ。
アタシが体勢を立て直すよりも、早く。
アタシの回避行動よりも、速く。
アタシの目にも捉えられないほど、疾く。
槍騎士の得意技、ピアースが放たれた。
迫り来る衝撃に備え、身を縮こまらせる。
現実から逃げるように、まぶたを固く閉じる。
そして……
ぎん、と鈍い音がした。
それが、アニキが間に入ってピアースを受け止めた音だと気付くのに、時間が掛かった。
ふと顔を上げれば、そこには黒い壁が立っている。
それが、見慣れたアニキの背中だと気付くのに、時間が掛かった。
そこにあったのは、見間違ごう筈もない、アニキの姿。
いつも通りの…しかし、どこかいつもと違う、アニキの姿。
「貴様…俺の妹に手を上げるとはいい度胸だ」
アニキの口から、怒りを孕んだ声が紡がれる。
それを聞いて、違和感の正体にようやく思い当たった。
闘気、目付き、口調…全てが鋭利な刃物のように鋭い。
いつも笑ってて、いつもふざけてて、いつも優しいアニキの。
本気モード…いわゆる、オーラというやつだった。
「覚悟は出来ているな」
ぞっとするほど冷たい…妹であるアタシでさえ凍りついてしまいそうな声と共に、アニキの姿が掻き消える。
刹那、ロードナイトの腕が裂け、鮮血が溢れ出した。
「楽には殺さない」
どこからともなく、アニキの声が響く。
「苦しんで苦しんで…苦しみぬいて死ぬがいい」
再びロードナイトの身体から、血が噴き出す。
あわててサイトを使うロードナイトだが、アニキの姿を捉える事は出来ない。
当たり前だ。
なぜならアニキは、クローキングなど使ってはいないのだから。
そう、アニキは隠れてなどいない。
ただ…動きが速すぎて、眼で捉える事が出来ないだけなのだ。
あのロードナイトにも…そして、このアタシにも。
悔しい。
唐突に湧き上がった思いが、アタシを支配する。
アタシは強い、と思っていた。
もう少しで、アニキに勝てるのではないかというほどに。
しかし、それは思い違いだった。
目の前のアニキは、訓練の時とはまるで別人だった。
目にも留まらぬ、という表現ですら温く感じられる、その速さ。
人体の構造を正確に把握する、その知力。
そして、急所を的確に捉える、その技術。
本気のアニキを見て、ようやく悟る。
彼は、アタシの訓練に付き合ってくれていたのだと。
アタシが強くなれるように、出来る限りの事をしてくれていたのだと。
彼の不器用な優しさに、胸が熱くなる。
心の奥のもやもやが、今、形になる。
それは、ずっと前から抱いていた感情。
出逢った時から持っていた想い。
正体が分からないまま抱えていたしこり。
だが、今になってようやく分かった。
アニキの優しさが、気付かせてくれた。
ああ、そうか。
アタシは、ヒュッケバイン=トリスは、アニキの事が……
「トリス!」
アニキの声に、はっと我に返る。
見ると、全身をすっかり赤く染めたロードナイトが、こちらに向かって走って来ていた。
アタシを盾にして、アニキの攻撃を防ごうとでもいうのだろうか。
だが。
愛用のフォーチュンソードを構え、ロードナイトを睨みつける。
アタシを誰だと思っているのだろうか。
アタシは、ヒュッケバイン=トリス。
あの最強のアサシン、エレメス=ガイルの妹なのだ。
むざむざとやられはしない…いや、返り討ちにしてくれる!
「ふっ!」
気合一声、ロードナイトに肉薄する。
地を蹴る足は、いつもより力強く感じた。
振られる刃は、いつもより速く感じた。
そして。
「はぁっ!」
懐に飛び込んだアタシは、ロードナイトの首に剣を突き刺す。
重い手応えと、鈍い音。
すぐさま剣を抜いて飛び退ったアタシの眼前で、ロードナイトはゆっくりと地に伏した。
荒い息を整えていると、不意に頭に手が置かれる。
驚いて振り返ると、そこにはいつの間にかアニキが現れ、優しく微笑んでくれていた。
「よくやった、でござるよ」
そう言ってぽんぽんと頭を叩いてくるアニキ。
いつも通りのアニキの仕草が、妙に恥ずかしい。
顔が上気してゆくのを感じる。
先程自覚した想いのせいだろうか。
ともあれ、このままされるがままでいるのも癪に障る。
振り返ってやめさせようとして…膝から力が抜けた。
「あれ?」
「どうしたでござるか?」
倒れ込んだアタシをあわてて抱き止めてくれたアニキが、怪訝そうな顔をする。
「なんだか力が入らな…あれ?」
今度は目が霞んできた。
すぐそばにいるアニキの顔が、どんどん見えなくなっていく。
「アニキ…なんか眠たくなってきたよ……」
「トリス…トリス!?」
アニキの腕の中で、アニキの声を聞きながら、アニキの温もりを感じながら。
アタシは、意識を失った。


心地よい暖かさに包まれて、アタシはまどろんでいた。
アタシを優しく抱いてくれているのは、アニキの腕。
アニキのあぐらの上にすっぽりと収まったアタシは、こくり、こくりと舟を漕いでいる。
ああ、これは幼い頃のアタシだ。
まだ普通の人間でいられた頃。
遠い過去の夢を、自分は見ているのだろう。
今ではこんなに、素直に甘えられない。
今ではこんなに、無邪気にはなれない。
それが、少しだけ悔しい。
でも。
夢の中なら、あの頃のように素直になれるかもしれない。
夢の中でなら、この想いを伝えられるかもしれない。
アタシは瞳を開く。
アニキが気付いて、こちらを向いた。
アタシは彼を見つめ、
あの頃の素直さで、
あの頃の呼び方で、
今も変わらぬ気持ちを、告げた。
「お兄ちゃん…大好きだよ」


瞳を開けると、そこが彼の部屋である事が分かった。
ぼんやりとしながらも周囲を眺めると、見慣れた調度品の数々が目に飛び込んでくる。
今アタシが寝ているベッドの他には、物らしい物はほとんどなく。
それでも彼の第二の仕事場とも言うべきキッチンだけは、プロ顔負けの設備が整えられている。
何度見ても、不思議な部屋。
思わずくすりと笑みを漏らすと、不意にベッドの脇で誰かが身じろぎする気配がした。
おそらく、アタシが目を覚ました事に気付いたのだろう。
ずっと看病していてくれたのだろうか。
ずっと付いていてくれたのだろうか。
アタシは気配の方へ寝返りを打ちつつ、未だおぼろげな意識の中で、そこにいるであろう人物を呼んだ。
「お兄…ちゃん?」
が。
「あらあら…魅力的な呼びかけですけど、私は貴女のお兄ちゃんではありませんわよ?」
「…へ?」
一気に目が覚めた。
あわてて起き上がり、その人物をまじまじと凝視する。
だが、そんな事をしなくとも、そこにいるのが誰かなんて分かり切っていた。
「マ…ママ……マーガレッタさん!?」
「おはよう、トリスちゃん…身体はもうすっかり大丈夫のようね」
そう、そこには、彼女の夢を無残にも打ち砕くようにして、マーガレッタ=ソリンが優雅な微笑を見せていた。
「な、なんでマーガレッタさんがここに!?」
「聖職者が怪我の治療をするのは当然ではなくて?」
「それほど大げさなものじゃ…」
「戦闘終了と同時に倒れておいて、何が大げさなんですの?」
「でも、アニキにだって手当ての心得は……!」
「治療というのは、やりすぎだと思うくらいでちょうど良いものですわ」
反論できずに歯噛みするアタシに、マーガレッタさんは、それに、と付け加える。
「いくら兄妹でも、こんなに可愛らしい女の子が無防備に眠っている部屋に、男を放っておくなんて出来ませんわ」
アニキよりもずっと危険な人物と二人きりになっているような気もしたが、もちろん口には出さない。
憮然として黙り込んだアタシを見て、ふうっと息を吐くマーガレッタさん。
「そんなにもお兄ちゃんが恋しいのでしたら、すぐに呼んで差し上げますわよ」
「な…っ!」
顔が朱に染まってゆくのが、はっきりと分かった。
不味い。
この事が誰かに知れたら、いい笑い者になってしまう。
なんとしても、今この場で口止めしておかなければならない。
「マ、マーガレッタさん、その…さっきの事は……」
「ええ、もちろん誰にも言いませんわ」
「そ、そうですか……」
こくりと頷いて彼女は、扉の方に顔を向けた。
おそらく部屋の外で待っているアニキを、中に呼ぶためだろう。
思ったよりも簡単に応じてくれて、ほっとする。
彼女の部屋に一晩お泊りくらいは覚悟していたのだが、と拍子抜けしたほどだ。
…が、甘かった。
彼女がそんなに素直ならば、誰も苦労はしないのだ。
「お兄ちゃ〜ん、可愛い妹が目を覚ましましたわよ〜!」
途端に扉の外から、がん、という頭を壁にぶつけたような音が聞こえてきた。
唖然とするアタシの視線を真っ向から受け止めて、悪戯っぽい笑みを浮かべながら彼女は言った。
「本人になら、別に構いませんわよね?」
本人が一番不味いんですよ、と胸中で悲鳴を上げる。
ただでさえ赤くなっていた顔が、さらに濃く染まってゆく。
決めた。
この人を敵に回す事だけは、絶対にやめよう。
そう、たとえ、世界中の冒険者を敵に回す事になっても。
絶望の淵に佇むアタシの目の前で、扉が遠慮がちに開かれ、アニキが部屋に入ってきた。
どうやら先程の音は「ような」ではなくまさにその通りだったようで、後頭部を痛そうに手で押さえている。
「さて、私はお茶でも淹れてきますから…あとは若いお二人で」
「それはつまり、姫は年寄りだという事でござるか……」
アニキが精一杯の反撃を試みる、が。
「レックスエーテル…」
「なんでもないでござる、冗談でござる、姫は若くて美しいでござるよ!」
一瞬で屈した。
どうやら兄妹揃って、彼女に逆らう事が出来ないらしい。
それではごゆっくり、と立ち去るマーガレッタさんを見送り、やれやれとため息を吐く。
「まったく、姫の悪戯も困ったものでござるなぁ」
苦笑いを浮かべるアニキ。
しかし、その顔は満更でもないように見えた。
…そりゃそうか。
アニキは、マーガレッタさんの事が好きなのだから。
好きな人にからかわれても、本気で嫌がるわけがない。
少し気持ちが沈んだ。
目じりに涙が浮かんだ。
アタシではダメなのか。
アタシがアニキの瞳に映る日は来ないのか。
いや、そんな事はない。
アニキがこちらを向かないのなら、力ずくで向かせてやろうではないか。
意を決し、顔を上げる。
アニキを見据え、口を開く。
彼を振り向かせるために。
願いを叶えるために。
想いを、伝えるために。
「アニキ、あの…さ……」
「ん?」
大丈夫、簡単な事だ。
一言、言葉を紡ぐだけ。
頑張れ、アタシ!
「アタシ…さ、ずっとアニキの事が……!」
「姫、遅いでござるな」
…は?
中途で話を遮られ、ぽかんとしてしまう。
しかしアニキは、答えられないアタシを尻目に、言葉を繋ぐ。
「ポットもお茶の葉も、目立つ場所にあったと思うのでござるが……」
アニキは首を傾げて立ち上がった。
その顔は、キッチンの方を向いている。
アタシを見ようとは、決してしない。
「少々様子を見てくるゆえ…お主は大人しく寝ているでござるよ」
呆然とするアタシをそのままに、アニキはキッチンに向かって歩き去ってしまった。
しばしの間。
ようやく我に返ったアタシは、苦笑いと共にうつむく。
いかにも不自然な会話の切り方。
アタシを見もせずに立ち去る、その背中。
全てがアタシに、一つの真実を教えてくれていた。
「なんだ…アタシの気持ち、気付いてるんじゃない」
そうとも。
人の心の動きに敏感なあの暗殺者の事だ。
きっと、アタシの気持ちなど見抜いているのだろう。
最後まで言わせなかったのは、想いに応えられないアニキの、せめてもの優しさだろうか。
「敵は強大だなぁ」
でも、お生憎様。
アタシは、あきらめてやるつもりなんて毛頭ない。
たとえ相手が、マーガレッタさんであろうとも。
絶対に敵に回したくない彼女でも、これだけは譲れない。
「覚悟しておきなさい、お兄ちゃん?」
力強く笑んだその頬に、
雫が一粒、伝い落ちた。


キッチンに入ると、満面の笑みを浮かべた姫が、表情とは裏腹に凄まじい怒気を放ちながら仁王立ちしていた。
「どういうつもりですの?」
主語のないその問いに、拙者は何とかとぼけてみせようとする。
「何の事やら、さっぱり分から……」
「ど・う・い・う・つ・も・り・で・す・の!?」
…が、やはり無駄だった。
降参とばかりに両手を軽く掲げ、嘆息する。
「盗み聞きとは趣味が悪いでござるよ、姫」
「貴方に言われたくはありませんわね」
まったくその通り。
反論の余地もない。
ぐうの音も出ないとは、この事だろう。
「で?」
有無を言わさぬ気迫に押され、再びの嘆息。
そして、渋々ながら語り出す。
「トリスは拙者の強さに憧れているだけで、恋愛感情を抱いているわけではござらんよ」
「へぇ」
「それに、トリスは妹でござるゆえ、拙者にはあの子をそういう目で見る事は出来ないでござる」
「それで?」
「第一、トリスはまだ子供でござる…色恋沙汰はまだ早いのではござらんか」
「言いたい事はそれだけかしら?」
やれやれ、まったく取り合ってくれる気配がない。
だが、これならば納得してくれるだろう。
口にするのはいささか恥ずかしいが、仕方ない。
他の言葉では、彼女をなだめるのは難しいだろう。
一つ大きく息を吐き、観念したように拙者は、切り札を口にした。
「拙者は姫一筋ゆえ…トリスの想いには応えられないのでござる」
だが。
「嘘、ですわね」
その切り札を、彼女はいとも簡単に否定して見せた。
「私を好きなんて、嘘……貴方、本当はトリスちゃんの事が好きなのでしょう?」
暗殺者にあるまじき、驚愕と動揺。
瞳を見開いて硬直した拙者に、彼女は優しく微笑んだ。
そして再び、最初の問い。
「どういうつもりですの?」
もう、逃げ場はない。
今度こそ本当に、降参だった。
「全てお見通しでござるか…さすがというかなんというか」
「エレメス」
少しでもふざけようとするも、途端に釘を刺された。
わずかばかりの逃避さえも、許してはもらえないらしい。
仕方ない、こちらも真面目に話をしよう。
こういうのは、あまり得意ではないのだが……
「俺は…トリスに、普通の幸せを掴んでほしいんだ」
変化した口調に気付いた姫が、はっと息を呑む。
笑みを消して神妙な顔で耳を傾ける彼女に、俺は話を続けた。
「俺は闇の住人だ、俺と一緒では一生を闇の中で過ごす事になる」
「…だから、気のない振りをしていたと?」
「そう…簡単な3段論法だろう?」
自嘲気味に呟き、暗い天井に視線を向ける。
そこには光など…希望などはいささかも感じられない。
だが、俺は信じる。
いつか、ここから出られる日が来る事を。
いつか、太陽の下で笑って暮らせる日が来る事を。
だから。
「あの子の未来に俺の存在は不要…いや、むしろいてはならないんだ」
視線を戻すと、彼女は俺を睨みつけていた。
だがそこに敵意は感じられず、ただただ心配げな想いのみが伝わってくる。
「あなたはそれでいいの?」
「あの子が幸せなら、それでいい…で、ござるよ」
口調を戻し、いつもの軽薄な笑みを顔に張り付かす。
彼女はそれを見て、何かを諦めたように下を向いた。
「…そう」
微かに漏れたつぶやきに、はっとする。
暗殺者はみな、人の心の動きに敏感である。
相手の心を読み、相手の心の隙を突いて、殺す…そういう商売だからだ。
そんな暗殺者の一員である拙者が捉えた、彼女の心の動き…それは。
悲しみ、だった。
「人の気も…知らないで……」
「な…っ!」
まさか。
もしかして。
信じがたい事だが。
姫は、拙者の事が……?
そんな馬鹿な。
普段の彼女の言動からは、そんな感情はまったく読み取れなかった。
第一、いつも彼女はあんなにも拙者をぞんざいに扱っているではないか。
混乱した頭で、まとまらない思考と格闘する。
ふと、親友であり好敵手でもある、一人の男の顔が浮かんだ。
ああ、奴が羨ましい。
拙者もあれほどの朴念仁であれば、どれだけ幸せだっただろうか。
苦笑いを浮かべていると、不意に姫が顔を上げた。
その顔には、すでにいつもの笑みが覗いている。
「そろそろ行きましょう…トリスちゃんが待ってますわ」
カップの乗ったお盆を拙者に押し付けた姫は、さっさと一人で行ってしまう。
「…そうでござるな」
未だに引きずっている混乱を必死で押し隠し、姫の後に続く。
と、彼女が首だけで振り向いた。
「そうそう、エレメス」
「何でござるか?」
思い出したように言う姫に、若干身構えて応える。
だが、彼女の言葉の攻撃力は、拙者の防御など容易く打ち破って見せた。
「女の子というのは諦めが悪い生き物だから…せいぜい用心なさいな」
「なんと!?」
それは、トリスの事を言っているのか。
それともまさか…自分は諦めないという意思表示か。
けれども彼女は、それ以上の言葉を発する事はなく、トリスの待つベッドへと去っていってしまった。
深々と、心からのため息。
ますますあの朴念仁が羨ましくなってきた。
それでも拙者は、負けるわけにはいかない。
トリスを、そして姫をも幸せにするまで、立ち止まるわけにはいかないのだ。
「アニキ、何やってんのー!?」
「女の子を待たせるなんて、最低ですわよ?」
ベッドの方から、声が聞こえる。
愛する者の声が、愛しい者の声が。
やれやれと天を仰いで、再びの苦笑い。
どうやら今日のお茶は、史上稀にみる渋さになりそうだ。
だがそれは、決して嫌なものではない。
暖かく、心地よく、拙者が愛してやまないものだ。
だが、あまり感慨に浸っているわけにもいかない。
早くしないと、また姫のホーリーライトを喰らう羽目になってしまう。
「今、行くでござるよ!」
待ってくれている二人の下へ。
守るべき二人の下へ。
拙者はゆっくりと、歩き出した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき

ここまで読んでくださってありがとうございます。
ちなみに作者の個人的な心情としては、トリスを応援したい気分だったりします。
いくら日の当たる場所でも、エレメスがいないなんて真の幸せじゃないというか、そんな感じ。
自分で書いておいてこんな事を言うのもアレですけどね…じゃあそういう話にしろよ、と自己ツッコミ。

2006/11/18 この物語をエレメス=ガイルに捧ぐ
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