つつみこむもの。眠りをそっと守るもの。とても、あたたかなもの。
 どんな悪夢も、怖い夜も。
 それにすっぽりと包まれば、安心して眠ってしまう事ができた。


       *               *                *


 がばりとセニアは上体を起こした。呼吸が荒い。全身が汗ばんでいた。心臓は早鐘のようだった。
 薄闇に包まれた空間に目を凝らせば、そこは見慣れた自室の寝台の上。服装もいつもの夜着で、思わず探った腕にも、あの忌まわしい腕輪の感触はない。
 少しずつ静まってくる鼓動を自覚しながら、あれは夢だったのだとようやく頭と心の両方が理解する。
 ひどい夢だった。
 尚酷いのは、それが現実のフラッシュバックじみたものである事だった。
 生体工学研究所。冠された名を考えれば、ここでどれだけの所業が為されてきたかは想像に難くない。
 白衣の男。無理矢理嚥下させられた薬の味。注射針の光。嵌められた腕輪の逃れ難く運命めいた感触。好奇の、ただ観察するだけの非人間的な眼差し。繰り返された実験、実験、実験。
 かつて己が身に降り注いだ記憶の断片が一時に蘇って、セニアは幼子のように膝を抱えて身を震わせた。
 夢だと、判っている。
 もう研究者達はここにはいない。ここは彼女達が、彼女の兄達が占拠して、あのような人間の立ち入れない場所になったのだ。
 言い聞かせる。もう大丈夫。もうあんな事は起こらない。決して、決して、決して。
「……」
 それでも恐怖は収まらなかった。暗闇が恐ろしかった。部屋の壁は、あの頃のような絶望的な檻に思えた。
 ぎゅっと毛布に包まってみる。
 無駄だった。回顧は連想を呼び、もう歯止めが効かなかった。あの研究者のいやらしい笑い声が耳にこだまする。

 ――どうしよう。

 眠れないのはもう判っていた。一番いいのは、誰かに一緒に居てもらう事だ。同じ経験を持つ仲間達なら、そんな彼女を笑う事などないだろう。トリスは明るく笑い飛ばしてくれるだろうし、アルマイアなら何か落ち着く飲み物でも用意してくれるに違いない。イレンドを頼ればあの優しげな瞳で自分が元気付くまで側に居てくれると思えるし、カヴァクはふざけていても話術が巧みだ。きっと上手い事気を逸らしてくれるだろう。それに、ラウレル。彼が他人を励ます様というのはちょっと想像できないが、それでもセニアは、ああ見えて彼は細かい気配りと心遣いのできる人間だと知っていた。
 けれど、2階のメンバーでは駄目だった。一応ながらも彼ら全員を束ねる、リーダーとしての矜持もある。
 だが、それ以上に。彼女が誰より助けて欲しいのは、ひとりだった。



 深夜の3階は、恐ろしいほどに静かだった。
 2階よりも薄暗い風景をおっかなびっくりしながら進んで、セニアは目的地の前で逡巡する。
 ここまで、来てしまった。兄の部屋の前まで。
 ようやく着いた、ではなく、そんな思いがある。肩掛けのように羽織ってきた毛布をぎゅっと掴む。
 ドアをノックしようとして、その手が止まる。力なく落ちる。
 みっともない、と思った。怖い夢に泣いて、兄に縋って。それではまるで子供ではないか。自分は剣士。あのセイレン=ウィンザーの妹だ。これでも武に生きるものの端くれなのだ。
 だから。
 すとん、とセニアはドアの前に腰を下ろした。
 扉一枚を隔てて彼が眠っているのだと思うと、我ながら不思議なほど心が穏やかになる。石畳の伝える温度は冷たいけれど、あと少しだけこうしていよう。そう思った。もうちょっとだけしたら、自分の部屋に帰ろう。
 毛布に包まりなおして、セニアはため息めいた息を吐き出す。
 兄への、セイレンへの想い。
 それが恋慕と呼ばれる種類のものであり、単なる親愛、敬愛ではないと気づかされたのは、多分あの時だ。
 以前から彼女は兄を慕ってはいた。けれどそれを尊敬だと思い込んでいた。否。思い込もうとしていた。血縁ではないとはいえ、兄を恋うなど道義に反する事だと思っていたから。
 けれど研究体と成り果ててしまって、そして研究所を訪れた彼と対峙したその時。
「――すまない」
 その時、セニアは彼の泣き顔を初めて見た。その折の彼の表情は、今でも鮮明に憶えている。
「すまない、すまない、すまない」
 幾度も繰り返して、そうして彼女をかき抱いた。遅かった。間に合わなかった。そんな悔恨の火に焼かれながら、彼はきつくきつくセニアを抱き締めた。
 彼が探しに来てくれた。それだけで、その事実だけで自分は嘘のように幸福だったのに。

 ――ああ、好きなんだ。私はどうしようもなく、このひとが好きなんだ。
 
 もう目の背けようもなく、そう悟ってしまって――。



 はっと我に返った。
 悪夢の後とは違う記憶を辿るうち、ついうとうとと眠り込んでいたものらしい。そして、セニアは狼狽する。
「に、に、兄、さん……?」
 いつの間にか、自分はベッドの上にいた。見渡せばそこはちょくちょくと訪れた事のあるセイレンの部屋で、つまりその寝台はセイレンのものという事になる。
 そしてセニアに居場所を奪われたのであろうその部屋の主は、これだけは自前の毛布を上掛けして、寝台に背をもたせかけるようにして眠っていた。見間違いようのないあのくせっ毛の後頭部がよく見える。
 よく、眠っているようだった。
 ドアの前で眠り込んでいた自分を発見して、兄がここに寝かせてくれたのは間違いがないようだった。
 かあっと頬が熱くなる。
 それにしても。どうして、どうやって気付いたのだろう。
 普段は鈍くて、どうしようもないくらいに疎くて、やきもきさせてばかりなのに。
 こんな時だけ聡いのだ。本当に必要な時には、必ず手を伸べてくれるのだ。
 少しだけ寝返りをして、セニアは兄の寝顔が見える位置に行く。起こすのはやめようと思った。起こせばきっと、自分は自室に戻らなければならくなってしまうから。

 ――ごめんなさい。

 口の中だけで呟く。

 ――でも、もう少しだけ甘えさせてください。

 とても幸福な気分で、セニアはまたまどろみに落ちていく。
 いっそこの所為で兄が風邪を引けばいい、なんて思った。そうしたら、付きっ切りで看護できるのに。








































・オチの予定だったがカットしてしかし結局どこに入れるあてもないのでおまけとしてつけておく事にしたワンシーン



「セニア」
 囁かれた。彼の口の紡ぐいつもの響きは、けれどいつもと違うようだった。
 セイレンの格好自体も、常日頃見慣れた鎧姿ではない。式典の正装めいた、フォーマルな装いだった。それでも帯剣しているのが彼らしいといったところか。滅多に見れないその姿に、セニアの胸はどきりとひとつ大きく鳴った。
 気付けば自分も、鎧は纏っていなかった。普通の、いやセイレン以上にきらびやかなドレス。というか、これは。セイレンの隣に立つのが当然といわんばかりの、純白のこの衣装は。一般にウェディングドレスと呼称されるものではないのだろうか。
「に、兄さん……?」
 戸惑う彼女に、彼の腕が伸びた。いつもは頭を撫でるだけのその手が、首筋を撫でるようにして髪を梳いた。
「セニア」
 優しい声がまた呼ぶ。見上げると、見つめる瞳がそっと笑んだ。深く愛情を込めて。
 陶然となる彼女の腰を、彼の腕が抱いた。
「あっ」
 抱き寄せられる。彼の胸に身体を預ける格好になる。
 息が止まりそうだった。鼓動は平時の比ではなく早くなる。少し静かにならないと、彼に聞こえてしまうと思った。
「……」
 もう一方の手も背中に回り、更に強く抱き締められた。
 きっと力加減はしてくれているのだろう。きつくはあるけれど、苦しくはない。たっぷりの愛情に包まれている感触を味わいながら、セニアは彼の胸に頬を寄せる。身体を押し当てる。
 伝わってくる、彼のぬくもり。
 うっとりと彼女は目を閉じた。他人の温度が、これほど心を安らげてくれるものだとは知らなかった。
「セニア」
 三度、呼ばれた。耳元で、今度は求めるように。
 酔ったように赤い頬で腕の中から見上げると、彼もまた照れたように笑った。
 頬に、密やかに手を添えられた。そこから人さし指だけが残って、そっとラインをなぞるように顎先へ。
 優しく、おとがいが持ち上げられた。
「にい、さま……」
 吐息めいてセニアが囁く。セイレンの顔が近付いた。
 これからどうなるのか判らないほど、セニアも子供ではない。
 求められるがままに目を閉じて――。


 がばりとセニアは上体を起こした。呼吸が荒い。全身が汗ばんでいた。心臓は早鐘のようだった。
 薄闇に包まれた空間に目を凝らせば、そこは見慣れた自室の寝台の上。服装もいつもの夜着のままで、間違っても花嫁衣裳という事はない。無論兄の姿だってあろうはずもない。
 少しずつ静まってくる鼓動を自覚しながら、あれは夢だったのだとようやく頭と心の両方が理解する。
「……なんて」
 思わず口元を押さえた。
「なんて、夢……っ」
 その内容を思い返すだけで顔から火が出そうになる。今日、平静に兄の顔を見れるだろうか。
 昨夜の夢が悪夢だったから、これはこれで帳尻があったという事になるのだろうか。だがありえない。幸福な夢だったのは確かだが、あれはありえない。ありえないのだけれど。
 でも、それでも。
 それでも、ちょっとだけ思ってしまった。
 目の醒めるのが、もう少し後だったならよかったのに、と。
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