ひょこりと顔を覗かせたエレメスは、いつも通りのへらへらした笑顔だった。
「何? 何の用?」
 だからセシルは思いっきりの渋面を作る。
 実のところは彼女は、エレメス=ガイルという男が少しばかり苦手だった。いつもふざけて回った言動で、ひとを喰って煙に巻いて捉え所がなくて、単純明快を好む彼女とは感覚的に相容れないのだ。
 加えてのらりくらりとしたその態度。やれば出来るクセにやらない、というのもまた彼女の好まざるところである。
 だがだからといって、決して彼を嫌っているとか憎んでいるとかという事ではなかった。むしろ、常日頃からもっとしゃきりしていればいいのになどと思うのは、意識しないまでもトリスと同じ根っこであったりもする。
 基本としては腹立たしいはずなのに憎み切れない。理詰めでいけば苦手なはずなのに、雰囲気としては仲間の中でも特に気がおけない。セシルにとってエレメスとはそんな相手で、苦手というのはそういう意味合いになる。嫌っているわけではなく、相手への感情がぽんと割り切れないのだ。
 中でも一等駄目なのが、彼の真面目な顔だった。馬鹿をやっている分にはまだいい。だがエレメスは時折不意に、ひどく鋭利で冷たくて、そして寂しげな顔をする。そうなると、彼女としてはもう駄目になる。完全にどう対したらいいのか分からない。結果、ついついで手が出る。セシル本人は絶対に否定するし皆も驚くだろうが、いつもの暴力は、つまり甘えのようなものだった。 
「打ち合わせに来たでござるよ」
 だからその笑顔には、自然応対がぞんざいになる。早く出て行けと全身で訴えるセシルは、不機嫌な猫のようと表現するのが相応しい。こいつと一対一で向かい合うのは、インファイトよりも苦手だと思った。
「打ち合わせ?」
 鸚鵡返しの問いに、エレメスは懐からナイフを抜き出して見せた。それはベナムナイフと呼ばれる、投擲用の短剣だった。
「うむ。やはり拙者、入場に派手さを欠けば寂しかろうと愚考する次第。それ故、演出にセシル殿にも付き合っていただこうと思ったでござるよ」
 言うや否や、エレメスの手首が閃いた。銀色の刃が光を反射して走り、石壁の隙間に突き立つ。
 短剣の投擲は、投げるではなく打つという。エレメスが今見せたのは回転打法と呼称される打のひとつ。標的のとの距離によって回転速度を変えて刺中を狙う、熟練をようする技法だった。
「拙者がこれを四方に投じる故、セシル殿がそれを撃ち落とす。そういう趣向で如何でござろう」
 体重と足音が消された歩法ですいと控え室の奥まで歩み入り、壁のスローイングダガーを抜き取る。背中を見せたままの彼に、セシルは些かながらむっとしていた。
 こいつはわざわざ手の内を晒したのだ。飛び道具なら、あたしに対抗する手段になるのに。
 それ故ついて出たのは、いつもの憎まれ口だった。
「随分と余裕じゃない。次はあたしとやるのよ? 対策でも練っておいた方がいいんじゃないの?」
 エレメスなら当たっても大丈夫。大抵は笑って受け止めてくれる。やはり無意識ながら、セシルはそう信じていた。そんな安心感を覚えていた。
 だから、彼からはなんて事のない軽口が返ってくると。そう思っていた。
「余裕でござるからな」
「……え?」
 それ故彼の言葉の意味を悟るのに数秒を要した。ようやく頭に染みた理解は、彼女の激しく心を乱した。
「な、生意気言うじゃない、ござるのくせにっ」
 そんなセシルを尻目に、エレメスは悠々と短剣を収め、そして振り向く。
「助言をひとつ」
「……へぇ。敵に塩だなんて、気が利いてるのね?」
 彼女は最初の動揺から立ち直れずにいた。引き摺ったまま、それでも強気に口の端を吊り上げてみせる。
「セシル殿は感情の振幅が大きすぎるでござるよ」
 エレメスはそこで一度言葉を切った。すっと、眼差しが怜悧になる。
「それでは、俺には届かない」
 そして穏やかな調子で。子供に噛んで含めるように。
「な、なんですっ――」
 激昂したセシルが詰め寄ろうとするよりも早く。目の前に、エレメスが居た。セシルにしてみれば中途の移動過程が一切省かれた、まるで転移法術でも用いたとしか思えない動きだった。
「こういう次第にござる」
 人さし指一本を立て、暗殺者はゆっくりと左右に振って見せた。
「いつものセシル殿ならば、拙者の動きも見えたでござろうな。だが感情を昂ぶらせ、それに囚われているようでは到底無理にござる。その体たらくでは、距離の優位などないと思うべきにござるな」
 言うだけ言って、すいと身を離した。
 あまりの事にセシルが唇を噛み締めるのも、真っ白になりそうなほど拳を握り締めたのも知らぬげに。
「では、会場にて。演出協力はくれぐれも忘れずにお願いするでござるよ?」
 そうして、彼の姿は戸口に消える。
 その背が完全に見えなくなってから数秒して、セシルは椅子を思い切り蹴飛ばした。大きな音を立てて、木製のそれは床に転がる。じんわりと鈍く広がる爪先の痛みからだけではなく、涙が滲んだ。



 時間は限られていたというのに、居るだろうと見当をつけた場所には彼はいなくて。イレンドがようやく探し回っていた相手を見つけた時には、もう次の試合が始まろうとする刻限だった。
 ただ、すぐには声をかけるのが躊躇われる状況だった。件の騎士は大魔術師と一緒で、しかもそのカトリーヌが妙に機嫌のよさげな様子だったので。
 どうするべきかイレンドは逡巡する。試合後は治癒法術の施術関係でどうしても時間がとれないから、できれば試合前に話しておきたかった。しかしいい雰囲気の男女ふたりの間に割って入るなど、この育ちのよい少年の為せる業ではない。
 やきもきと見るうちに、彼にしてみれば好都合な事にも、二、三言葉をかわしてふたりが別れた。
 カトリーヌは審判なので会場の方へ向かったのだろう。しかしその腕に抱え込んでご満悦な大量の食料品を、試合開始までの短時間にどうするつもりなのか。それは敢えて考えない事にする。
「ウィンザーさん」
 エレメス=ガイルの勝負を、セイレンが見ないはずもない。自身も会場に向かおうとしていであろう足が、イレンドの呼びかけで止まった。
「イレンドか。どうしたんだ?」
 言外に珍しいな、と告げていた。
 セイレンもイレンドも、自分が為すべきと思い定めた事を黙々とこなすタイプだから、あまり頻繁に言葉を交わす機会はない。それがわざわざ呼び止めてまでの用件ともなれば、そんな感想も出てこようというものだった。
「今度、稽古をつけてもらえませんか」
 イレンドの頼みに、セイレンは少し意外そうにした。
「だが、俺に教えられるのは剣か槍だぞ? それでも構わないのか?」
「あ、いえ」
 少年は首を振る。
「武術そのものではなくて、ウィンザーさんの体の使い方を教えて欲しいんです」
 思いつきだけで、セイレンに師事しようと思ったわけではなかった。
 3階は一流の上に超がつく猛者揃いで、それは皆の試合を見ているだけで十二分に判った。その中でも特に自分の参考になりそうだと感じたのが、セイレンの技術だったのだ。
 確かにセシルの眼やエレメスの引き出しの多さ、ハワードの膂力には驚嘆させられた。しかしそれらは生まれ持った素質や戦術選択肢の豊富さに依るものであり、自分には備えるべくもない。
 けれどセイレンの体の使い方は別格だった。あるべきものを、あるべきままに動かす。それがどれほどの力を生むのかを、思い知らされる動きだった。誰にでも原理の納得できるごく簡単なような術理いながら、しかし他の全員と渡り合えると思わせるだけの磐石さを備えていた。
 当然、彼のレベルにまで至るには、並大抵ではない労苦と修練の時間とを要するだろう。それでも一歩を踏み出したいと、少年はそう思ったのだ。
「さっきの試合、一度だってあのアルトアイゼンさんにに力負けしませんでしたよね。そういう技術を、力の出し方を学びたいんです。お願い、できませんか」
 この少年は少し変わったのだなと、セイレンは思う。
 少し引っ込み思案な、悪い意味でも毛並みのいい印象を持っていた。ああだが、彼も男なのだ。男子三日会わざれば、とはよく言ったものだ。
「ああ、構わないよ。請け負おう。それにしても意外だったな」
「はい?」
「急にそんな頼みをしてきた事が、さ。君は、暴力沙汰は好まないように思っていた」
 セイレンの言葉に、イレンドははにかんで笑った。
「実は、あるひとに太鼓判を頂いたんです。ボクでも、ちゃんと強くなれるって」
 自分の拳に目を落とす。そして続けた。
「確かに暴力は好きではありません。でも、無力なままなのはもっと嫌いなんです。できるけどやらないのと、できないからやれないのとでは、雲泥だと思いますから」
 ちらりと自分を窺う少年を勇気付けるように、セイレンは強く頷いた。然り。全くその通りだ。
 そんな騎士の所作に、イレンドはわずかに肩の力を抜いた。
「ウィンザーさんだって、その剣で唐突にボクを斬ろうとは思わないですよね? 武術というのはそういうものだと思っています。きちんと制御された力であって、ただの暴力では決してないと」
「そうだな。俺も、そう在りたいと思っているよ」
 もう一度、セイレンは頷いた。瞳が優しく細められる。それは、伸び盛りの剣士を見る目だった。
 見交わしてから、ちらりとイレンドは舌を出した。その心根に宿す信念とは打って変わって、まるで少女のような仕草だった。
「それに、折角いい先生が身近にいるのだから、活用しないのは勿体無いと思ったんです」
 マーガレッタが言ったなら、腹黒いだの陰謀だのと言われそうな台詞だったが、この少年のそれは不思議とそうは聞こえなかった。人徳というものだろう。
「ならこちらも精一杯活用されようか。だが純粋な体術ならエレメスの方が参考になるだろうし、ハワードも人間の体の作りには詳しい。活用というなら俺だけじゃなく、あのふたりの話も聞いておくのも悪くないと思うぞ?」
「はい、そうしてみます」
 きちんと頷く少年を見ながら、セイレンは常の予定を思い浮かべる。
「そうだな……朝方に時間はとれるかな? 早朝にセニアの剣も見ているから、もし平気ならそれくらいに来るといい」
「あ、いえ、それは……」
 頼み込んだ身としては願ってもない事だったが、続く言葉を聞いてイレンドは流石に言いよどんだ。
「ん? 何か都合でも悪いのか?」
「……はい。朝は礼拝もあるので。すみませんが、できればそれとは別に時間を設けていただけると助かります。短時間でも全然結構ですから」
 礼拝自体は確かに行っている。だが早起きに苦のないイレンドにしてみれば、それは大した差し障りにならない。起床の時間を少しばかり早めるだけの事だ。
 けれど彼は嘘をついた。嘘を言って、笑顔を作った。ちくりと心が痛んだが、友人の幸福なひと時を守る為なのだから仕方ない。この程度の些細な虚偽は神様も看過くださるだろうと思う。
 そして同時に流石の彼も、セイレンの疎さには頭を抱えたくなった。この騎士を慕ってやまない友人に、イレンドは深く深く同情した。



「さてさて、このお祭りも既に半分を終えて、いよいよ後半戦に差し掛かってまいりました」
「残すところ後三試合だな」
「それでは早速ですがラウレルさん。エレメスさん対うちのねーちゃん。今度の試合はどう見られますか」
「……5分と5分、じゃあねぇか? スピードならエレメス、正確性ならセシルにそれぞれ分がある。自分の長所を生かしきった方に軍配が上がる、ってとこだろうな」
「んっふっふ」
「まあエレメスの方が機略には通じてそうだから……って、なんだよその笑いは」
「……ほい。今、何色がいくつだったでしょう?」
「あ?」
「僕が投げ上げたガラス玉には、別々に色がつけられてました。何色が、それぞれいくつだったでしょう?」
「判るわけねぇだろ。あんな一瞬で」
「これはね、元々弓手の遊びなんだ。動体視力のトレーニングだね。認識と把握、つまりは眼の鍛錬。集中しつつ全体を見る。そういう訓練。大人なら大体10粒くらいは片手に握れるから、それを両方一度に投げ上げたとすると両手で20粒」
「んだよ、もったいぶって。だからそれがなんだってんだよ。結論から言え、結論から」
「短気だなぁラウレルは。推理小説は最後から読むタイプでしょ?」
「余計はいいっつってんだろ」
「うちの姉さんはそれをふたり分、40粒ちょっとまでは見分けてのけるよ。とりあえず20粒程度なら軽いのは確実」
「マジかよ!?」
「うん、マジ。セイレンさんとの試合の前に、落ち着けてるかと思って試してきたし。だからエレメスさんが幾ら速くても、まあ見えてるんじゃないかな、なんて思ったり?」



 カヴァクの声を聞きながら、けれどセシルの心は波立ちささくれ立ったままだった。
 カトリーヌに何か耳打ちしてから開始線に戻り、よ、ほ、などと暢気に屈伸なんかしている。会話の折に例のスローイングダガーを見せていたので、きっとこれからパフォーマンスをやるからどうこうと告げていたのだろう。
 なんとも緊張感のない、リラックスした風情で。それが余計に苛立ちを掻き立てる。

 ――余裕でござるからな。

 さっきの言葉が耳にうるさく離れない。
 何さ、エレメスのくせに。エレメスのくせにっ。
 そんな心中を知ってか知らずか、彼が手を振って寄越した。いつものカタールは腰の鞘に納まり、代わりに両の手には二振りの短剣が握られている。さあ始めるぞ、とでもいった感じで、やはりふざけた仕草だった。
 嫌いだ。あんなヤツ嫌い。もう知るもんか。ほんとのほんとに大っ嫌い。
 眉間に皺を寄せたまま、セシルが矢を番える。それを合図に投擲が始まった。
 驚くほどの素早さで、エレメスは次から次へと短剣を打ち出していく。会場を照らす照明を反射して、銀色のナイフが踊る。
 くるくると回転しながら、しかしセシルへではなく四方へ投じられるそれを、矢継ぎ早の射が撃ち落としていく。鏃と刃の打ち当たる硬質の音が立て続けに響く。
 それはさながら夜光虫の群舞のようだった。
 悪くない。楽器を扱った事はないけれど、でもこれは音楽の協奏めいて心地良い。そんな感慨で無心に銀色だけを追っていたセシルの知覚が、不意に違和感を訴えた。
 ひと刹那で、彼女の目はその感覚をもたらしたものに気付いた。
 スローイングダガーの中に、闇に溶け込む黒色のものが混在し始めたのだ。鍔もなく刀身を黒焼きされたそれは、まさしく暗殺用の短剣だった。
 銀の目立つ短剣に慣らさせ、意識を集中させておいて、その裏に黒剣を潜ませる。セシルでなければまず間違いなく見落としていたはずだった。

 ――こいつ!

 折角芽生えかけたいい心持ちが吹き飛んだ。続けざまに二矢。出遅れた分と、次の投擲分を一呼吸に撃ち落とす。
 白と黒。速度をより速め、目を惑わして踊る二色の刃をセシルは違わず迎撃し続けた。
 視界の隅に、感心したようなエレメスの顔が見えた。それで短剣の手持ちは終わりのようで、ひょいと彼は空の手をこちらに向けて見せる。だがセシルの動きは止まらない。

 ――予想外を仕掛けるのは、自分ばっかりだとでも思ってるわけ?

 彼女は怒っていたのだ。やり返してやらなければ到底気が済まない。更に弓が鳴って、エレメスの胸目掛けて矢が飛んだ。だがエレメスの両腕には、既にカタールが握られていた。まるで想定していたかのように。
 刃が閃く。かっ、と乾いた音で、矢は半ばより断たれて失速。あえなく石畳に転る。
 そこでセシルは瞠目すべきだった。カタールとは本来刺す為の武具である。それを斬撃に用いて己の矢を切り払う、彼の腕の冴えに。
 けれど心中穏やかならぬ彼女は、それをただ腹立ちの一要素としてしか受け取らなかった。
「流石にござるな」
「……覚えてなさいよ」
「何の事やら、拙者見当がつかぬでござるよ?」
 相も変わらぬ悟ったような笑顔。ふん、とセシルは鼻を鳴らした。溜飲は下がりそうもない。


            *                *                *


 カトリーヌは一瞬迷った。会場に散乱した短剣と矢とを見やって、このままの状態で始めて良いのかを考える。
「カトリーヌ!」
 その思考も知らぬげに、急かす声がした。目をやらずとも、セシルが必要以上に血気に逸っているのが判る。頭を冷やした方がいいだろうとも思ったが、既に前哨戦としてのエレメスの策であるのやもしれない。
 エレメスに視線をやると、作った笑顔の暗殺者は小さく頷いた。
「始め」
 声よりも早く、セシルは弓を引き絞っていた。続けざまに放った矢数は三本。一本目をわざと緩く射て右への回避を誘発し、その逃れるであろう先に、立て続けの二矢を送り込んでいる。
 一矢毎に相手を追い込み追い立てるセシルの弓術。それが最大に発揮されたかと見える仕掛けだったが、違った。
 彼女は最初からエレメスに挑発されて、怒気を誘発されていた。その激昂が負けん気として勝負へ向けば、セイレンとの戦いの時のように集中力の源となったろう。しかしセシルの感情はエレメスにのみ、エレメスだけに矛先が向く鬱屈となるように、当のエレメス自身によって繊細にコントロールされていた。
 あくまで一流所の中で見れば、セシルはメンタリティが弱い。強い芯とでもいうべきものがなく、それ故周囲や状況に流されやすく、惑わされやすい一面がある。
 カトリーヌが感じたように。エレメスの毒は試合の開始前からセシルを捕捉していたのだ。
 本人は全力の矢を射込んだつもりだろう。だが怒りに惑わされて濁ったそれは、普段の澄み切った一矢には及ぶべくもない代物に成り果てていた。弓勢も甘く、狙いも荒い。
 だから。
 だからエレメスにしてみれば、それを見切るのは容易な業だった。彼もまた矢の如き速度で駆ける。走る姿勢をまるで崩さず、彼は腕だけを別の生き物のように踊らせる。
 乾いた切断音が立て続けてみっつ。放たれた矢を切り払いつつ稲妻の形に飛び違えて、あっと思った時にはもう、エレメスはセシルの眼前に居た。

 ――言ったでござろう?

 驚いたというよりも呆然の風情が強いセシルへ、エレメスは目だけで笑んだ。

 ――感情に振り回されていては、勝てぬ、と。
 
 片手で弓の弦を断ち、もう一方を首筋に添える。それだけだ。一秒とかからない。あとはもうそれだけで決着がつく。
 そう思った。だが、予断だった。
「――」
 懐に潜り込まれた。それも、あっさりと。渾身を誘われて、それにつけこまれた。
 けれどそうした窮地が、危機的状況が、逆に彼女の心を研ぎ澄ます。
 音が絶える。世界が減速した。セシルの知覚と思考が、ひと刹那を無限に近いほどに引き伸ばす。その中で彼女は見る。繰り出されるふた振りの刃を。
 例え感情に囚われ惑わされたとしても。その失点をリカバリーできるだけの集中力を備えるからこそ、彼女もまた超一流と呼称されるのだ。
 あらゆる物が緩やかな粘性に囚われた視界で、セシルは空気の流れを、エレメスの体の動きを先んじて読む。矢を番える速度は雷光の如くだった。狙いは瞬きのまぶたが閉じきらぬ時間で定められた。
「そこッ!」
 放たれた矢は、狙い違わず襲い来るカタールの切っ先を射抜いた。重い金属音。予想だにせぬ衝撃に、暗殺者の両腕は大きく弾かれる。神速を以て知られるエレメスの刺突を、セシルは超至近距離から射落したのだ。
 要領としては最前のナイフを撃ち落とす行為に近いものだが、凡百の弓手にこなせる芸当ではない。高速で動く刃先を、しかもふたつ同時に捉えてのける彼女の眼を、一体なんと評すべきか。
「なんと!?」
 思わぬ防ぎ手に、さしものエレメスも驚愕したようだった。だが二度はなかろうとばかりに腕を振るう。この距離ならば、弓よりもカタールが速い。それは自明の理と思えた。事実並のアーチャーならば、次の矢を番える前に弓ごとその身を断たれていたろう。
 だが。

 ――甘い。

 唇の端だけでセシルは笑う。
 ごく僅かなエレメスの予備動作のひとつすらも零さず見抜き、動きの出がかりに合わせて凶刃に狙いを定める。
「見えてるのよ、全部っ!」
 撃ち落とし撃ち落とし撃ち落とす。攻撃を片端から射抜き、カタールを明後日の方向に弾き飛ばす。決してエレメスのハンドスピードが遅いわけではない。セシルの反応速度が異常なのだ。
 しかし、この状態は膠着だった。さしものセシルも切っ先を弾くのが精一杯で、エレメスの体は狙えない。狙おうとして損ねれば、まず弓の弦を断たれる。そうなれば勝負は明白だ。張りなおすのを待ってくれるほど甘い相手ではない。
 エレメスもまた、ただ攻める以外の仕掛けを封じられた格好だった。動けば先んじて封じられるが、動かなければセシルの射撃の妙技を、今度はその身に直に味わう事になる。
 意地と、消耗を避ける明確な理性との間で天秤は揺れ。やがて双方が同時に、ぴたりとその動きを止めた。
 エレメスは腰溜めにカタールを構え、セシルは弓を引き絞って、互いに互いの次を探る。
「なるほどなるほど」
 彼女の苛立ちをまた掻きたてるように、エレメスは未だに惚けた色を消さなかった。野狐禅めいた笑みを浮かべる。
「拙者の予備動作を見抜いての対応、まずはお見事」
「……」
 セシルは応えない。問答すれば、それだけこの男の術中に嵌まっていく気がしていた。
「だがなれば、こういうのはどうでござるかな? 即ち、速度ゆえに追い切れぬのではなく、」
 如何なる動きにも万全に対応するつもりでいたセシルが、顔色を変えた。
「――そもそも、見えない」
 目は、一瞬たりとも離さなかった。それなのに、視界にエレメスの姿はなかった。いつとも悟れぬうちに、その姿は掻き消えていた。アサシンの隠行術。彼らは物理的な死角に潜むのではない。心の死角にこそ忍ぶのだ。
 ざっと総毛立って、セシルは、あの気の強いセシルが、後ろに飛んだ。
 居るはずなのに見えない。そんな不条理が通るはずはない。動けば、きっとどこかで何かが乱れるはずだ。連続する知覚の中に、必ず生じるはずの違和感を拾い上げようと目を凝らす。
 けれど、無駄だった。どこに居るのか、まるで検討もつかない。そしてエレメスの動きが見えないという事は、どうしようと反応が一手遅れるという事だ。先のような防御はもう望めない。
 じりじりと、石上の砂を噛みながらセシルの靴が後退する。せめて背後は許すまいと、壁を背にした。そして声を張り上げる。
「この陰険男! 根暗! 昼行灯! やり方があくどくて性質が悪いって言われたりしない!?」
「まさに今、斯様なる痛罵に直面しているでござるよ」
 からからと笑う声。見えないなら音で。そんな手に乗る相手とも思わなかったが、セシルは素早く向き直って、音源へ半ば勘任せに矢を放つ。しかしというべきか当然というべきか、手応えはない。
「どこを狙っているでござるか?」
 それで口を噤むかと思ったが、また思わぬ方角から声がした。
「こっちでござるよ、こっち」
 右前方。
「こちらでござる、セシル殿」
 左後方。
「で、出てきなさいよっ」
「拙者陰険にして根暗の昼行灯故。やり方があくどくて、性質も悪うござるよ」
 今度は、耳元で囁かれた。
 どのような手段によるものか、エレメスの声はどこから発せられているのか皆目見当もつかなかった。右と思えば左、前と思えば後ろ。声の位置は変幻自在に移ろって、時にはあらゆる方角から同時に聞こえてくるようなにすら思える。
 セシルは唇を噛んだ。対応策がない。
 インプルーヴコンセントレーション。他の弓使いが当然のように修めている戦技で、彼らならばこうした状況に置かれれば、それを用いて隠れ潜む者を暴き出したろう。だがなまじ天然自然に高い素質を備えていたが為に、彼女はその技を必要としなかった。習い覚える機会は失われて、そうしてそのままになっていた。

 ――そもそも苦手なのよ、そういうの。

 戦術、戦い方を含めたスタイルとは、極論するならば嗜好によって決定される。向き不向きはどうあれ、凡その者が自分が好むやり方で形として大成する。学ぶ者は好む者に如かず、好む者はまた楽しむ者についには及ばないのだ。
 そしてセシルのスタイルとは狙撃であり速射である。本来並び立たぬはずの二者に特化し、その両立を成し遂げている。だからこそ逆に、罠も鷹の扱いもこなしこそすれそれは一通りのものでしかない。
 なら、どうするか。手持ちの札だけでどうするか。
 目まぐるしく思考を巡らせ、そしてちかっと閃いたものがあった。
 一撃。なんとか一撃を凌ごう。そうすれば。仕掛けの間さえ得られれば。エレメスを、捉えられるかもしれない。正直、好ましいやり口ではない。けれどこのまま敗れるよりは数段マシだった。
 呼吸を整える。
 一方、完全優位に見えるエレメスも、実のところは攻めあぐねていた。
 セシルの異常なまでの反応速度は垣間見た通り。加えて弓だけはまず守るという姿勢に彼女は変じていて、武器を破損させる事も一撃で致命傷を与える事も難しい。
 かといって連続的な仕掛けを加えようにも、姿を見せれば先ほどのように刃を射られるのが、それこそ目に見えていた。
 ならば。
 エレメス=ガイルは読み手である。いわば心理洞察のスペシャリストだった。些細な所作、微細な仕草から相手の次の動きを、心の動きを察知する。更にはそれを利し、敵手の思考を制限してみせる事すらするのだ。
 彼はおよそ如何なる接戦においても、最低三手先を読み、五手先を思考していた。それは天性とも言える戦いの才であり、そんな彼であるから、状況とは全て利用すべきものだった。
 両者の思考は主観としては長かったが、客観としては僅かなものだった。セシルが心を定めるのとほぼ同時に、エレメスも攻め手を決める。
「走れ」
 大気に溶けたまま、エレメスは地に手を着いた。注がれる力に応えて、獰猛な石の牙がセシルへと疾駆する。
 殺技、グリムトゥース。これを撃ち落とすのは流石のセシルにも不可能だ。地を走る茨はただの媒体に過ぎない。対象物に触れた時点で、初めてそれは槍として具現化する。
 まさか自分に有利な状態から、遠距離戦を仕掛けてくるとは思わなかった。セシルは虚を突かれ、しかし一瞬遅れながらも大きく跳んで走牙を回避する。
 が、獲物の逃げる先を読んで追い込むセシルの十八番を奪うように、飛んだ先へは既に、次の牙が迫っていた。
 エレメスは未だ姿を見せない。これにばかり意識を向けるのは危険だったが、しかし片手間で捌ける代物でもなかった。再度彼女は横っ飛びして、
「えっ!?」
 そして、靴底が滑った。大きくバランスを崩す。何かを踏みつけた感触があった。
 蹴り飛ばす格好になった足下の異物を、思わず目が追う。それは短剣だった。あの余興で投げられた黒いスローイングダガー。光を吸うその黒い刀身が、床と区別をなくして隠れていたのだ。刀身は鋭く薄く、つまり踏めばほぼ確実に足は滑る。
 だん、と片手を突いた。肩にずきりと鈍い痛みが走ったけれど、気にする余裕などなかった。それで転倒を食い止めて、そしてセシルは見る。彼女が飛び込んだ一帯に、矢と短剣とが散乱しているのを。試合前の余興であちらこちらに跳ね飛んだそれらが、片付けられる事なく転がっていたのだ。
 ここに至ってセシルはようやく、カトリーヌの逡巡の意味を理解した。あれはこういった状況が起こり得ると考慮してのものだったのだ。
 あの試合前の余技は、初めからこうした活用を意図してのものではなかっただろう。エレメスは最初の攻防で決着をつけるつもりでいたはずだった。偶々出来上がったどうしようもなく足場の悪い死地を、彼が利しただけの事だ。
 彼女の反応と判断、更には歩幅や移動の癖までもを推し量り、そこへと彼女を狩り立てたのだ。

 ――これじゃ立場が逆じゃない。狩り立てるのも、罠を伏せるのも。本来はあたしのやり口なのに。

 僅かの間に、セシルはそんな事を考える。そして、敗北を思った。

 完全な転倒ではなかった。だが体は横倒しに近い状態で、利き腕は自重を支える役割を果たしてしまっている。手が三本でもない限り、この体勢で弓を扱えるような人間などいない。後はカタールが突きつけられて、それで終わりだろう。
 けれど、それも予断だった。
 決定的瞬間は、いつになっても訪れなかった。
 はっと気付けば、自分の周りを淡い光が取り囲んでいた。
「……セイフティウォール?」
 呟いて目をやれば、万物を照らし出す炎を従えたカトリーヌの姿。姿を現したエレメスが、隣で仕方ないとでも言いたげに肩を竦めていた。
「待て」
 ふたりの視線が集まってから、カトリーヌは彼女はジャッジとして制止の言葉を告げる。
「……な、なんでよ!」
 即座に抗議をしたのは、エレメスではなくセシルだった。
「どう見たって今のでエレメスの勝ちでしょ!?」
 絶対の窮地を免れたのは確かだが、これは納得がいかない。彼女らしい律儀さであり、真っ直ぐさだった。対してエレメスは、この采配をさほども気には留めないようだった。のんびりとしか思えない表情で成り行きを眺めている。
 そしてカトリーヌは、ゆっくりと首を振った。散乱するものたちを目で示す。
「あれは、試合の前に投げたものと射たもの。本来は、回収されて然るべきだったから」
「そ、それはそうだけどっ」
 開始を急かしたのは他ならぬ自分なのだ。責任の所在なら己に在るし、ならば咎を受けるのはやはり自分のはずだ。
「罠の事前設置は禁止事項にござるからな。事前に用いた小道具をそういう具合に利用するなら、同じ禁則に抵触するという事にござるろう?」
 横からのエレメスの言葉に、審判はこっくりと頷く。
「……だからこのまま続行するなら、エレメスの反則負け」
 口ではそう言いながら、その瞳はかすかに申し訳なさそうな色を滲ませる。セシルの催促に流された自分の判断を悔いているのだろう。汲んでエレメスは笑った。
「反則負けは敵わぬでござる。仕方ない、仕切り直しにといくでござるよ。セシル殿もそれで……」
「いい」
 事の推移を黙って、俯いたまま聞いていたセシルは、そこで硬い声を出した。
「……?」
「セシル殿?」
「このままでいい。なんて事ないわよっ!」
 感情を昂ぶらせては勝てない。そんなしたり顔の声が聞こえた気ように思ったがが、無視する。知った事か。
「あたしもエレメスもこれを利用してOK、全然問題なし! 当事者のあたしたちがいいって言うんだからいいわよね、カトリーヌ!」
「いや拙者、なんとも返答しておらんでござ……」
「い・い・わ・よ・ねっ?」
「異議なしにござる」
 ふたりのやり取りに、カトリーヌは小さく微笑んだ。
「両者の合意により、特例として続行を認めます」
 我が意を得たりと頷いて、セシルは呆れ顔のエレメスを弓の尻で小突いた。
「ほら、早く隠れなさいよ」
「なんともはや、滅茶苦茶でござるなぁ」
 ぼやきながら頭を掻いて、エレメスは大きめのスタンスで一歩動いた。重心のぶれのまるでない、どこか無音めいた暗殺者の歩法。カトリーヌの光焔の影響下より抜けるや否や、その姿がふっと消え失せる。 
 一度負けを覚悟した事で、激情はリセットされていた。戦いの流れを俯瞰すれば明らかだ。エレメスは挑発して自分の動きを粗くさせようとしていたに過ぎない。それは勝つ為の努力に他ならなくて、そう理解すればセシルから瞋恚は消え失せる。
 セイレンと自分の試合の後、エレメス本人が言った言葉がある。セイレンはセシルの覚悟を見誤った、と。それは全く立場を逆にして今の状況にも当て嵌まったろう。自分はエレメスを甘く、低く見たのだ。
 
 ――でもね、エレメス。

 もう、ない。その認識は今までのものであって、今の事ではない。目を閉じる。いつになく感覚が明敏だった。わずかな空気の揺らぎすら、このままで観えそうだった。
 まぶたの黒の中で、セシルハカトリーヌが離れるのを知覚する。そして、再開を告げる声を聞く。
「始め」
 見開いた。どうせ見えはしないのだけれど。
 そして判っていた。見えていなくてもただそれだけだと。見えなくてたって、そこに居るんだという事が。
 腹はくくった。為すべきは思い定めた。エレメス=ガイルへの評価だって修正した。
 だから。
 セシルは囁く。胸の裡で。

 ――悪いけど、あんたの負けよ。

 カトリーヌの宣言から一拍おいて、再び石畳に棘が生じた。最悪の足場で棒立ちのままのセシルへと走る。
 彼女は、これに対してなんの回避動作も行わなかった。避ける為に要する時間すら惜しんだのだ。
 牙の発動と到達までの僅かな時差で、セシルの手は練達の動きを見せた。セシル自身も念の為程度の意図で持っていた設置用トラップ。いわば眠ったままのそれらに、一挙動で命を吹き込む。
 罠の扱いが通り一遍であると言っても、それは布石として用いるのが不得手であるというだけの事。トラップを敷設する手際が悪いという意味合いでは決してない。
「……っ!」
 同時に、唇を噛んで苦鳴を堪えた。現出した石の槍が、ざっくりと足を、ふくらはぎを、腿を抉る。致命的な深手というわけではないが、それでもかなりの手傷だった。エレメスお得意の機能の殺害とでも呼称すべき仕業で、速度のある移動はもう望めない。だが、構うものか。相手はエレメス=ガイル。一流のアサシンクロスであり、それと対峙して無傷でいようなどという性根こそが甘い。それに、どうせこれが通らなければ打つ手はないのだ。
 弓を掲げた。見えないエレメスにではなく、上空へ。
 その様に、逆にエレメスは戸惑った。セシルの仕掛けた罠に見覚えはある。フリージングトラップ。作動範囲内に踏み込む者があれば極低温の霧を吹き出し、五体丸ごとをを氷結させる事すらある剣呑な罠だ。
 己の周囲にそれを撒いたセシルの姿は、絶対の城壁をしての篭城を思わせる。
 だが、そうではない。実質は異なっている。
 トラップそれ自体は当然ながら意志を持たない。従って容易に避ける事が可能なのだ。感知圏外から一歩でも外れていれば、それはただの玩具に過ぎない。セシルの矢を掻い潜りながらそれをするのは困難だろうが、隠身したこの状態であれば、彼女自身からの攻撃を気にかける必要はない。
 それにエレメスにはグリムトゥースがある。弓矢ほどの射程は持たなくとも、中間距離での攻め手としては有用であるのは最前からの戦闘が証明している。これを用いれば無論トラップの効果範囲の外から彼女を殺傷しうるし、セシル自身もそれは承知しているはずだった。
 それ故、絶対的な好機にエレメスは戸惑う。
 何か読み切れない裏があるのだと警戒した。その一瞬が明暗を分ける。
「――散れ!」
 セシルが頭上へ矢を撃ち放った。弓技、アローシャワー。それは技というよりも、魔術めいた側面を備える。
 上方へと舞い上がった一矢は、彼女の攻撃意志を受け、物理法則を無視して反転。更には1が2へ、2が4へと枝分かれして数を増やし、無数の矢雨となって地上へと降り注ぐ。
 だが見えていない以上、正確にエレメスに狙いを定めるとはいかない。
 偶発的に飛来した数条をエレメスは軽いステップで回避。同時にセシルの意図を見たと判断した。
 彼女はこの弓技を射かけ続けて、己を炙り出すつもりなのだ。しかしどうしたって矢を射上げる一瞬には隙が生じる。それをカバーする為の罠だったのであろう。
 全ての矢が落ち切り、地に跳ねて消える。その一瞬前、セシルの攻撃が己の攻撃の気配を消すタイミングでエレメスは走り、そして。
「むっ!?」
 そして、誤りを悟った。標的は彼ではなかった。
 斜め上からの衝撃を加えられた数個のフリージングトラップが、思い思いの方向に弾け飛ぶ。さしもの彼も、この予想外の奇襲には対応できない。まるで生き物のように跳ねたそのうちのひとつが、エレメスの体を感知して氷霧を噴出した。
 圧倒的な冷気。辛うじて身は捻って直撃だけは避けたものの、四肢の動きはがくりと鈍った。急激な温度低下による身体機能の低下だ。そうなっては、五体の精妙な制御を要する隠行を維持できるはずもない。
「――迂闊」
 思わず漏らし、同時にエレメスは後方へ飛んだ。ままならぬ体であるというのに、それは消え失せたと錯覚させるほどの移動速度だった。上方へのベクトルが殆ど存在しない、水平方向へのみに全身の力を転化する理想的な跳躍移動。
 しかし。
 エレメスは見る。その速度にすら反応し、しっかと己に狙いを定めるセシルの姿を。
「小細工を弄するのが――」
 セシルな唇が紡いだ。弓が鳴る。
 ひとつ。この程度が避けられるのはわかっている。
 ふたつ。避ける先を塞がれて、たたらを踏むのが判った。
 みっつ、よっつ。一呼吸にして二撃ち。ダブルストレイフィング。ほら。もうそこしか逃げ道はない。
 いつつ、むっつ。更に続けざまの二矢。かわせないなら防ぐしかない。左手でしかカバーできない場所にひとつ。右手でしか届かない位置にもうひとつ。それぞれを切り払ったら。
「――自分だけって思わない事ね」
 ななつ。最後の一矢。どうやったって避けようのない、これでおしまい。
 エレメスの体が、もんどりうって後ろに倒れた。だが、セシルの眼は見ていた。エレメスの腕が、自分の理解を超えた速度で閃くのを。耳は聞いていた。鋼と鋼の激突する音を。
 着弾点にカタールを割り込ませている。致命傷になっていない。
 嘘でしょ、と悲鳴のような思考で、しかしセシルは本能的に矢を番える。倒れたエレメスをポイントする。
 それを悟ったかのように、彼の体が跳ね起きる事はなかった。エレメスは頭だけをもたげて、例の野狐禅めいた笑みを浮かべる。
「……降参にござるよ」
「それまで。勝者、セシル=ディモン」
 カトリーヌの声を聞きながら、セシルはぐっと唇を噛む。勝利の喜悦も、感慨も薄かった。

 ――本当なら。あれで、終わってたのに。


             *               *                 *


「すげぇな、オマエの姉ちゃん」
「僕もちょっと驚いた」
「あれは、普通居抜かれて死んでるトコだよな」
「うん。今後からかうのは少し慎もうと思う」
「いやそこは全面的に停止しとけよ」
「それは無理」
「即答かよ!?」
「それはそうと、試合の方は如何でしたか。前言通り、姉さんはエレメスさんの動きが見えてたみたいだけど」
「ああ、全部反応してたな。最後なんか正直オレは見失ったけど、それでもきちんと狙って仕留めにかかってた」
「ホント、よく見えたもんだよね。でも」
「でも、止められなければ、エレメスが勝ってたな」
「罠の事前設置は不可なんだから、踏んで危なそうなものを使っちゃったのは、ちょっと、ねぇ?」
「だけどよ、土俵の把握も状況の利用も、戦闘能力のうちだと思うぜ?」
「ん、そう言われちゃえばそうかもね。今度のは姉さんが、お祭りなのに救われた事になるのかな」
「まあ派手なパフォーマンスやらかした後は、片付け必須ってトコだな」
「――あれ?」
「なんだよ、いきなり素っ頓狂な声出して」
「ラウレル、行こう」
「どこへ」
「姉さんのとこ」
「何しに」
「突撃インタビュー」



「やれやれ」
 ひょこりと上体を起こして、エレメスは石畳に胡坐をかいた。勝者を振り仰ぐ。
「あんな芸当があったとは。全く、驚きでござるよ」
 あんな罠の取り扱いは、彼の知識にはなかった。同時に、あれはいわば罠による狙撃で、セシルのスタイルには実によく似合ったものであるなどとも思う。
「……たのよ」
 応じてセシルが小さく呟いた。称賛に胸を張るかと思ったら、逆に神妙な顔をしている。
「やられたのよ。こないだ」
「んむ?」
「だからっ、侵入者に同じ事やられたの! それで覚えてただけ。行き当たりばったりの思いつきよ! 悪いっ!? あたしだってそんな芸使いたくなかったけど、けど、しょうがないじゃない!」
 ぷいっと他所を向いて、彼女は子供のように頬を膨らます。
「だって……だってあんた、強いんだもん」
 エレメスは一瞬言葉を失い、それから思わず笑みを漏らした。
「な、なによそのリアクション!?」
 恐るべき速度で彼女が向き直る。足は痛むだろうに、がーっと火を吐きそうな勢いでエレメスに詰め寄った。
「いやいや、セシル殿は実に可愛らしいと、そう思ったまででござるよ」
「……っ、なんかムカつくっ! そこに直りなさいっ、矢ガイルにしてあげるからっ!」
 すかさず矢を番えるセシル。エレメスも瞬時の反応で立ち上がり、バックステップで放たれる矢から逃げ延び――ようとしてその足をふと止めた。
「この場は逃げるに如かずとも思ったでござるが」
「な、何よ?」
 意外な挙動に毒気を抜かれて、セシルは思わず問い返す。エレメスは誰にも悪戯っぽく口の端を笑ませた。
「姫に懇切丁寧に介抱していただけると思えば、矢ガイルも悪くないでござるな」
「……」
 試合中に修正したばかりだったエレメス=ガイルへの評価を、セシルは即座に再修正。やっぱりこいつは、ただの駄目野郎だ。大した男だなんて、ちょっと感心だなんて思ったのは気の迷いだったんだ。
「セシル殿? 何やら洒落にならない目つきにござるよ?」
「うっさい。ものも言わずに三度死ねっ」
 恒例の騒ぎにぱちくりと目を瞬かせて、それからカトリーヌはくすりと笑った。友人達の仲のいい様子を眺めるのは、彼女の好むところだった。
 それから、エレメスを追おうとするセシルの手を掴んだ。
「駄目」
「あ、え、何よ、カトリーヌ」
「足、怪我してるから。……ちゃんと治してもらってからにして」
 自分を慮る瞳。ちらりともう一度だけエレメスの方へ視線を送って、セシルは大人しく腰を下ろす事にした。



「……あいつめ」
 決着を見届けて、セイレンは思わず漏らした。
 
 ――セイレンは引くべき一線の位置を間違えた。

 一回戦を終えた自分に、そんな叱咤をしてはこなかったか。でありながら、全くどういうつもりなのか。
 彼の速度を以てすれば。セシルが転倒した折、カトリーヌが制止に入るその前に、決定的な一撃を打ち込み得たはずだった。つまり制止以前にもう何かがエレメスを惑わせ、そして試合の中断を容れさせたという事になる。
 セイレンはその何かに心当たりがあった。
 口の端に笑みを刻んでから、やれやれと騎士は頭を振った。
「ひとの事を言えた義理か」
 呟いて、微笑んだ。セイレンは友の不器用さを誇らしく思う。
 彼は、自分の友は、甘いのだ。特に家族には、決定的に。
 エレメスが如何なる少年時代を送ってきたかは知らない。けれどそれは、決して守られ、支えられてきたものではないのであろうは推察がついた。それ故彼は、一度身内と感じた相手に強い庇護の情を抱き、そしてひどく甘くなる。
 昔、モロクで浮浪児たちの面倒を見ていた事をセイレンは知っているし、この研究所においてもちょくちょくと持ち場を離れて、2階の様子を覗きに行ったりする辺りからもそういった部分は推し量れよう。
 と言っても今の勝負、エレメスが手加減していたという事ではない。それはセシルとも刃を交えた自分が保証する。彼女は手控えて戦える相手などではない。だが、全力でもなかった。いや、本身ではなかった、と評するのが近いだろうか。
 アサシンとは、つまり殺し手である。
 そういう意味での本気が、殺気がエレメスにはなかった。
 かつて砂の町で、彼と対峙した記憶が蘇る。今も色褪せぬ恐懼と共に、その感触はセイレンの胸に残っていた。あの粘ついた、全身に絡みつき毒していくかのような濃密な殺意。並の人間なら気死させるほどの威圧感。
 それがあの場では希釈されていた。鳴りを潜めていた。
 本気のあれに当てられた事のない人間には分からない程度の差異だ。平素からよほど彼を見ているか、或いはエレメスの心理に通じているかしなければ、どれほどの手練れにも今の甘さを見て取る事は難しいだろう。
 しかしこのセイレン=ウィンザーは、お前の好敵を自負する人間だ。それを誤魔化せると思ってもらっては困る。この両の目は節穴ではないのだ。
 そう心中で嘯いたところに、視線を感じた。顔を上げれば、少し離れた観客席に座るセニアと目が合う。
 何やら焦ったような挙措で、彼女は慌てて顔を背けた。
 なるほど、とセイレンは分かった気になった。彼女の隣に座るのはヒュッケバイン=トリス。セニアの友人にして、エレメス=ガイルの妹分でもある。自分がエレメスを好敵と認識していると知るセニアにしてみれば、自分の側ではエレメスの応援はしにくいだろう。
 加えて次の次、第三回戦の第二試合。そこでエレメスとは雌雄を決する事になっている。
 友人の兄も応援したいが、それは自分の兄の次の敵でもあるという事態が、彼女にこうした距離を取らせたのだろう。実にセニアらしい配慮であり、律儀さだと思った。
 この騎士の目は、ある方面に関しては節穴同然である。



 うーむ、とエレメスはひとつ唸った。自堕落な風情で控え室の椅子にもたれる。
「なんともなんとも。困った性分にござるなぁ」
 セシルとの勝負で訪れた、決定的な瞬間。僥倖とも言うべき彼女の転倒の場面を頭で反芻する。
 あそこで刹那とはいえ逡巡したのは、紛う事なき己の甘さだった。勝敗に滅法拘る性癖とも併せて、よくよく自分はアサシン向きではないのかもしれない。
 昔から、自分にそういう部分があるのは知ってはいた。だがいざとなれば、そうした感情すら殺してのける自信があった。しかし、なんたる醜態。なんたる無様。
 完全に無防備になったセシルに、彼は状況も忘れて、思わず手を差し伸べそうになったのだ。
 年こそ自身とそう変わらねど、エレメスにとってセシルは、もうひとりの妹のようなものだった。どうも面倒を見てやらなければならない気がしてしまう。そういう感情をコントロールできずに、完全に敵意を抱く事ができなかった。
 感情。欲望。人間性。そうした類を、己を殺す事が習い性となってしまっているエレメスは、セシルやトリスの真っ直ぐで明るい心の発露を、その奔放を愛していたから。
 恐らく、セイレンはそういう自分を見抜いているだろう。朴念仁というよりも木石に近いほど他者の気持ちに疎い男だが、何故かこうした事柄には妙に聡いのだ。今頃笑っているに違いない。
 全く、なんたる体たらく。繰り返して思う。
 だが何よりも困った事に。彼はそんな自分が、少しばかり気に入っていた。
「全く、どこのお人好しに感化されたものやら」
 そして自嘲ではなく微笑んで、天を振り仰いだ。見えるのは石の天井、そればかりだけれど。
「負けておいて、何を笑っているのかしら?」
 鈴を転がすような声がした。丁度マーガレッタが、戸口に姿を見せたところだった。ふんわりとした挙措でエレメスに近付き、そして顔を覗き込む。
「私のセシルちゃんを必要以上に傷つけなかったのは、褒めてあげなくもないですけれど。でも、一体何を企んでいたのかしら? ひょっとしてあの子に手を出そうなんて考えてはいたのではありません事?」
 本来ならば、彼女がここを訪れる必要はない。マーガレッタの役割は傷の治療であり、今の試合、敗れたりとはいえエレメスはおよそ無傷なのだ。
 度合いでいうならグリムトゥースを受けたセシルこそが重傷であり、そしてその傷も出血の割りには大した事はなかったとは、イレンド共に先にそちらの治療に当たってきたマーガレッタの知るところである。
「これは思わぬ疑惑にござるな。企みなど、何事も。そもそも拙者、姫一筋にござるよ」
 ひょこんと姿勢を戻し、エレメスはいつもの笑顔を作ってみせる。
「嘘をおっしゃいな。ならどうして、勝っていたはずのあの場面で手を止めたのかしら? カトリーヌの裁定に、何の抗弁もせずあっさり譲ったのかしら? 本当は貴方、とてもとても負けず嫌いでしょう?」
 痛いところを突かれて、ぐ、とエレメスが詰まった。
「負けず嫌い故今は非常な傷心にござる。姫の胸で泣きたいでござるよ」
「……」
 誤魔化しを許さず見つめてくる視線に、エレメスは軽く嘆息した。
「セシルの隙に躊躇したのは、まさかあそこで転倒するとは思わなかったからだ。精々足元に注意を向けさせるだけのつもりだったから、僥倖が過ぎて罠かと疑った。そして譲ったのは、これが祭りだからさ」
 真面目な、真実のみを語るような調子で、すらすらと嘘を紡ぐ。けれど通用しなかった。
「それだけ?」
 エメレスが言葉を切るなり、すい、とマーガレッタが顔を寄せる。互いの息がかかるほどの距離。
「本当に、それだけ?」
「……。姫、少しばかり近くはござらんか」
「ちゃんと白状できたら、もう少しサービスしてあげてもよろしくてよ?」
「これはとんだ悪女にござるな!?」
「あら」
 思いもかけぬ事を言われた、とばかりにマーガレッタは微笑む。童女のようにあどけなく。
 そして、しばし沈黙が降りる。焦らすように。急かすように。
 エレメスの手が伸びて、頬に触れた。許すように彼女は目を閉じる。
「――拙者意志薄弱につき、篭絡されぬうちに遁走致すとするでござるよ」
 手が離れた。
 瞑目していたとはいえ、これほど近くにいたマーガレッタにすら、エレメスがいつ動いたのか分からなかった。見開けばエレメスは立ち上がり、彼女はそれを見上げる格好になっていた。
 体重を感じさせない動きで一歩下がると、エレメスは優雅に一礼。制止の間もあらばこそ。その姿はすいと掻き消える。
「……あらあら」
 上手い事逃げられてしまった。引っ張り出す術がなくもないが、そこまでして追いかけるのも気が引けるし興醒めだ。
 甲斐性なしですわね、などと、小さなため息でマーガレッタは髪を撫で付ける。気ばかりが回って気が利かない。押しが足りないというべきか。
 そして彼女は背筋を伸ばし、腰に手を当てる。エレメスの去ったであろう方向を軽く睨んだ。
 どうしてなのか、とっちめて白状させてやろうと思ったのだけれど。

 ――なんだかんだ言って、あの子に甘いのはお見通しですわよ?



「おめでとうございます!」
「わあっ!?」
 突如控え室に乱入したカヴァクとラウレルに、某かの物思いに耽っていたセシルは椅子からずり落ちそうに驚愕した。
「カヴァクにラウレルじゃない。なんなのよ、いきなり」
 その無様を押し隠そうと腕を組んで胸を逸らす姉に、二人組は顔を見合わせた。
「姉さん、まだ気がついてないの?」
「だから何によ!?」
「じゃ、これ見てみてくださいよ」
 ラウレルがごそごそとボードを取り出した。確か解説席に備えてあった物で、今までの試合の結果が記されている。
「ほら、勝ち点計算してみて?」
 カヴァクに言われるがままに、セシルはボードを眺め見る。確か勝ちが3点で、引き分けが1点だから。
「え……っと、今の試合が終わって、セイレンとハワードが1点、エレメスが3点、あたしが6点か」
「そういう事。優勝おめでとう」
「え?」
 きょとんとセシルは二人を見返す。
「おめでとうございます」
「え? え?」
 理解の鈍い姉に、ああもうとカヴァクはラウレルからボードを奪い取った。ばん、と手で叩く。
「いい? 現状6点で姉さんがトップ。残りは2試合なんだよ?」
「分かってるわよ、そんなの! だからエレメスがセイレンに勝って、もしも、万一であたしがハワードに負けたら、そこで6点ずつで並ぶじゃない」
「並ばないっすよ」
「姉さん、説明聞いてた?」
「う?」
 息のあった同時のツッコミを受けて、珍しい事にセシルがたじたじとなる。
「最初にこいつが言ったんですけどね。勝ち点が並んだ場合は並んだ者同士の試合結果で順位を決定、なんっすよ」
「だから今姉さんが言った最悪の試合結果になって、エレメスさんと姉さんの勝ち点が並んでも、今の勝負で姉さんが勝ってるから、もうこの時点で優勝は姉さんって事。そういう寸法。OK? 理解できた?」
「……あ」
 ようやく得心した風情のセシルを見て、それでは、とカヴァクが切り出した。なんだかんだ言って嬉しげなその様子に、一応慕ってんだな、とラウレルは妙な感慨を抱く。
「一足先に、勝利者インタビューを行いたいと思います。まず最初の質問ですが……ですが……ですが?」
「何よ?」
「どうしたんだよ?」
 ぎぎぎっと強張った仕草で首を回して、カヴァクは相棒を振り仰いだ。
「どうしようラウレル。何を質問するか決めてなかった」
「どこまで駄目人間だてめぇっ!?」
「だ、だってしょうがないじゃん!?」
「何がしょうがねぇんだよっ!」
 その後混迷を極めて続く仲裁する気にもならない言い合いを、セシルは関わるのも馬鹿らしいと意識の外に切り捨てる。
「優勝、ねぇ……?」
 実感はまるでなかった。だから喜ぶのは、全部の試合が終わってからでいい。気抜けしてハワードに圧倒でもされたら、それこそ笑い話だ。
 そして思う。
 確か最初に、賭けがどうこうと言っていた。優勝者と、その勝ち点を予想するのだとか。だから普通ならば、この後注目されるのは三回戦第一試合、つまりセシルとハワードの対決のみになって、残りは消化試合として扱われる事になる。
 だが。
 三回戦第二試合。セイレン対エレメス。
 このふたりが無二の親友であり、そして同時に互いを激しく意識しあう好敵手であるとは、おそらくこの所内の全員の周知するところだった。
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