「ったく、あんちくしょうめっ」
 両手一杯に荷物を抱えて、ラウレルは小さく毒づいた。
 試合と試合の合間の休憩時間。そのちょっとした間に、どちらが屋台の食品を買い出しにいくかの熾烈なジャンケン勝負が行われ、結果として今の彼の姿がある。
 ブドウジュース、リンゴジュースといった飲み物類と忘れちゃならないクールダウン用のプリンを手始めに、半ば意地のようになってやきそばたこ焼きの定番品や、チョコレートムースケーキに蒸し蟹といった真っ当な料理の類までもを買い込んで、その総量は魔術師である――つまるところ少々腕力の足りない――ラウレルにはなかなか大荷物になっていた。
 それにしてもこの食材、どこから運び込まれたのだろう。食品鮮度は大丈夫なのだろうか。どうにも気になったので、怪しげなものはカヴァクに毒見させてから手を出そうと心に決める。
 ちなみにカエルの卵の墨汁スープだの猿の尻尾の炒め物だの、カヴァクが見たなら間違いなくネタ買いしでかすようなアイテムも存在したが、当然ながらラウレルはスルーした。
 ってかよ、なんで解説やってるオレらに差し入れのひとつもねぇんだよ。
 ぶちぶち言いながら角を曲がって、
「うお!?」
 想定しなかった光景にちょっと叫んだ。
 なんとした事か複数のリムーバたちが、マーガレッタを半円状に取り囲んで座り込んでいた。彼らは手にプラカードを掲げ、口々にシューシュー言っている。丁度ラウレルはリムーバたちの背後から出てくる形だったから、カードに記されているはずの主張の内容は、残念ながら読み取れない。
 だが某か面倒な意見であるのは確かなようで、それはハイプリーストの笑顔がどんどん完璧なものになっていく事からも窺い知れた。その微笑が美しいければ美しいほど剣呑だとは、この研究所のおよそ誰もが知るところである。笑顔の素敵具合は、覆い隠すべき内心の鬱憤に比例するからだ。
 下手すりゃサンクチュアリ辺りでリムーバ蹴散らしかねないな、などと人事の視点でラウレルは思う。しかし一体、どんな主張がこうもあのマーガレッタ=ソリンを手こずらせるというのか。荷物の重量よりも、頭をもたげた好奇心が勝った。
「……一体なんなんだよ、この群れ」
「ラヴ☆セニアさん同盟だって」
「うおっ!?」
 プラカードを覗き見るべく移動しながら、誰にともなく呟いた言葉に思いもよらぬ返答があって、ラウレルはさっきよりも大きな声でのけぞった。声のした方へと目をやれば、イレンドが随分大荷物だね、と微笑んでいる。
「あっと……何同盟だって?」
「ラヴ☆セニアさん同盟」
 もの凄く気恥ずかしそうに発言を繰り返すイレンド。細面に朱が差す様は女性もかくやという艶やかさで。いやいかんこいつは男だオレは巨乳派なんだとラウレルは危うく踏み止まった。止まって、それはどんな活動をする団体なんだと問おうとしたところに、
「我々はー、ラウンドガールセニアさんの復活をー、強く、強く希望するものであるー」
 折り良く宣言したリムーバがいたので、彼にもこのロビイストどもの主張を把握できた。そしてそれが驢馬の背をへし折る最後の葦であったらしい。朗らかで美しい極上の笑顔のまま、マーガレッタのホーリーライトがそのリムーバを吹き飛ばした。
 暴力反対、聖職の横暴許すまじ、等々の声を上げつつ逃げ散るリムーバたち。あんまり見たくない光景を目にしてしまったような気がする。
「あー……なんつーかあの同盟、セイレンさんに存在発覚しねぇといいな」
 そんな地下勢力は、無言のままのマグナムブレイクで火葬されそうだ。
「うん、ボクもそう思う」
 流石に同感と見えて、イレンドもこくんと頷いた。
「――しかし、分かってねぇ」
 てんで解ってねぇよオマエら。
 蜘蛛の子を散らすように逃げ去るリムーバたちを目で追いながら、ラウレルは胸中で呟く。あーいうのはこっそりひっそり愛でるのがいいんだろうが。まったく、シロートはこれだから困る。
「何か言った、ラウレル?」
「いや、なんでもねーよ」
 慌てて首を横に振った。この手の話題はカヴァクとこっそり交わすに限る。というかイレンドにこんな話題を振るのは良心が咎める。
 ちょっぴり自省していると、そこに手が差し出された。
「あ?」
「荷物、少し持つよ。実況席に帰るんだよね? 手伝うよ」
 うわ、こいつイイヤツだな、とラウレルは再確認。
 彼がどうしてここに居たのかといえば、きっとマーガレッタとリムーバの双方を案じたからに違いないだろう。万一が起きたら姉のやりすぎを止め、リムーバたちに遺恨が残らないように采配するつもりだったのだ。ラウレルはそんな当たりをつける。
 なんの根拠もないただの推測だが、イレンドの性格からして十中八九で外れはないはずだった。
 きっとこいつは頭に血が昇るとか、誰かを憎むとかした経験はないに違いない。何を食ったらこんな生き物に育つのだろう。
 そういえばリムーバにお疲れ様と言いながら回復法術を施術して慄かせ、しかし見事にその体を治癒してのけたという逸話持ちの極め付けの聖人君子様だ。
 もしもマーガレッタとイレンドが同じ腹から生まれていたなら、先に出た姉が悪いもの全部を持っていったのだと、ラウレルは断言して憚らなかったろう。
「おう、悪ぃが頼む」
「うん、いいよ。気にしないで」
 口には出さない。決して出さないが、ラウレルはそういうイレンドを、わりと尊敬できるヤツだと思っている。



 エレメス=ガイルは笑っていた。
 ムードメイカー的役割を受け持つ事の多い彼が、ふざけた言動で大騒ぎするのは日常茶飯事と言ってもいい。けれど笑うのは、いつだって口の端に笑みをためる程度だった。
 決して呵呵大笑するという事はない。我を忘れて一時の感情に流される事がない。
 騒ぎ立てながら、騒ぎの中心にいながら、自身は常に冷静に周囲を見ている。彼は、そんな男だった。
 そのエレメスが今、声を立てて笑っていた。どうにもおかしくて仕方ない、というふうに。
 彼の視線の先では、丁度セイレンが会場入りするところだった。
 重装のわりには軽快な、けれど決して急いては見えない速度で、堂々と。悠然と。威風が辺りを払わんばかりの鎧姿が歩を進めていく。
 先のエレメスとハワードの一戦においては入場の派手さを競う場面もあったというのに、その類のパフォーマンスにはまるで頓着がないと見えて、なんとも面白みのない男だった。
 しかし。
 ただ、歩く。それだけの行為が、見る者が見れば立派な示威行為だった。重い板金鎧を着込みながら、どうしてああも軽々と動けるのか。
 鎧とは極論すれば金属の塊だ。
 だから慣れない者が着ければ、どうしても違和感が出る。どこか飾り物めいてしまって、鎧に着られているとでも言うべき格好になる。
 それは重量に馴染まぬが故のきごちなさや、五体の稼動域が狭まった事による挙動の不自然さから生まれる印象であり、着用時間――平たく言うなら慣れ以外の何物でも拭い去る事はできない。
 その点、セイレンの立ち姿は見事なものだった。まさしく、着こなしている。
 長く戦場、死線の場に身を置いて、冷たい金属を第二の肌とした者だけが備える凄みがあった。それは即ち凶器を圧する器である。
 やがて舞台中央に至ったセイレンが、片手持ちしていた剣を上段へ構えた。愛用のそれは、今度は初手から抜き身だった。
 振り下ろす。軽く、と見えた動きが、意外なほどに大きく空を裂く音を響かせた。反対側、振るわれた方向にいる観客たちが、一瞬怯んだのが判る。届くはずがないと判っていても、万一それが身に触れたらと思って竦んだのだ。
 同時に、嘆息があちこちから零れた。
 研鑽の果てにのみ至れる術理がそこには確かに在って、それは往々にしては美しさに通じる。
 エレメスの笑みは、彼の手に握られた、その剣にこそ起因する。
 より正確に述するならば、セイレンが剣しか携えていない事によるものだった。
 遠目ながら、エレメスの目はセイレンの武装をしっかりと認識している。いや、エレメスでなくとも、セイレンがその身に帯びるのが第一試合と同じく、やはりただ一剣のみであるとは容易に知れるところだった。
 誰よりも彼の思考に通じるエレメスには、それで充分だった。セイレンがどういう思考の下に、どういう結論に辿り着いたのか、それだけで判ってしまった。それ故の笑いだった。
 ハワードを相手取る場合、自分ならば危険を避ける。
 先の勝負でしたように、少しずつ彼の動きを削って、弱らせて仕留める。あの屈強な肉体に毒素は通用しないだろう。だが、毒だけが暗殺の技というわけではない。
 例えば隠形から。例えば遠間から。正面衝突を避けて、確実に勝てる状況を作る。あの暴風のような圧倒的破壊力に、真正面から付き合う必要などない。
 自分ならば、そういうふうに考える。
 騎士にも交差法、即ち相手の打撃に合わせて逆に一撃を報いる技法がある。斧にリーチで勝る槍を用いたならば、距離をとっての投擲術と標的を大きく弾く武技とを駆使して間合いを制していく事ができる。
 つまりセイレンの技量ならば、武具を選びさえすれば、もっと有利な立ち回りがこなせるのだ。
 けれど、あの男はそれをよしとしなかった。
 セシルとの勝負の後、自分は確かに警告した。その答えがこれなのだ。
 ありとあらゆる手段を尽くして勝ちに行け、と。自分はそう言ったつもりだった。だがセイレンは、勝つならば己の信条を貫いた上でなければ意味がないと、そう返答してきた。その意地と誇りとを貫くと宣言してのけたのだ。
 そしてエレメスは、そんな意味も価値もない小さく安いプライドが、時にひどく強い力を生みうるのだと諒解していた。

 ――俺の、道だ。

 かつての声が、再び耳に響いたように思った。
 危うく忘れるところだった。お前はそういう男だったな、セイレン=ウィンザー。
 信念の伴わぬ勝利に、何の意味もないというわけだ。あくまで己の信ずる道を貫くというわけだ。まったくお前は、お前という奴は、お前と来たら――。
 エレメスの笑いは、そんな不器用を嘲笑ってでは決してなかった。むしろ讃えるかのようだった。己には薄い価値観ではあるが、それは美しいのだと思う。
「しかしなるほど、確かにそれこそがお前だ。それでこそお前だ」
 呟いて、目を閉じた。笑みを消す。
 ならば俺は詐術の限りを尽くさせてもらおう。俺は俺で、狡知術策の悉くを尽くさせてもらおう。
 勝つべくして勝つ。それが、エレメス=ガイルだからだ。



『さて、各人一回戦を終えまして、ここで勝ち点の計測です』
「勝ったのはセシルとエレメス。共に勝ち点3。敗者がセイレン、ハワードで、これが勝ち点0だな」
『優勝候補筆頭のセイレンさんがいきなり敗れたわけですが、これに関してどう思いますかラウレルさん』
「それだけ実力伯仲って事だろうな。スペック的には皆互角なんじゃねぇの? ただ実力のベクトルが違うだけでよ」
『なるほどなるほど。ともあれ次の試合、期せずして負けふたりの対決となりました』
「双方後がない。これに負けたら最下位ほぼまっしぐら。そんな感じだな」
『で、この勝負はどう見ますかラウレルさん』
「純粋な力ならハワード、技術も含めた競り合いならセイレン、ってトコじゃねぇ? でも正直分からねぇ」
『と、仰ると?』
「エレメスがやったみたいに、ハワードと真っ正面からぶつかるのを避けて少しずつ圧倒する。そういう試合運びも、セイレンの技量ならできそうな気がする。でもよ、オレにはあのひとがそんな小器用な真似してる光景が思い浮かばねぇ」
『確かに。策を弄して逃げ回るセイレンさんっていうのは、ちょっと想像できませんね』
「だろ? だから真っ正面からの殴り合いになったら、正直分かんねぇよ。ところでな」
『ん? 何?』
「喰うのやめてちったぁ喋れ。解説が筆談すんな」



 じゃり、と石畳が鳴った。目を閉じたまま、セイレンは意識をそこへ向ける。視覚以外の五感が、そこにどっしりとした大岩を観想する。それはハワードの、相も変わらず大きな体だった。
 彼の巨躯への感慨は、セイレンにはなかった。
 技術も、本能も、体躯も、性格も、筋力も、速力も、武具も、防具も、知性も、虚偽も、信仰も、信念も。
 如何なるものも戦闘においてはただ一要素に過ぎない。単独では、勝敗を決する要素とはなりえない。
 もしもそれらを超越し勝敗を決めるものがあるとするならば、それは。
 故に彼は、ただ一剣を携える。
 眼裏に浮かぶのは、ひどく透明な風の朝焼け。
 いつ見た光景なのかも、どこで見た風景なのかも記憶にはない。けれど、それがセイレンの原風景だった。戦いの望む折、不意に祈りのように現れる、悲しいまでに静謐なイメージだった。
 心は、澄み切って静かだった。
「使わねェのか、槍」
「ああ」
 不思議と困ったふうに聞こえる声に即答し、セイレンはようやく目を開いた。
「俺は器用な性質じゃあない。なら、自分の流儀で行けるところまで行くさ」
 考えた末の結論だった。槍を使えば、確かに有利に立ち回れるだろう。剣にのみ囚われるのは、無駄な拘りであり、不要な信念であるのかもしれない。しかしそれを欠けば、手放すべきではない何かを手放してしまうように思った。

 ――武器を選んでるようじゃア二流。だが、拘らねェなら三流以下だ。

 かつて言われた言葉だった。然り、と思う。
 故に、ただ一剣。己の本分を全うし、己の力を極限まで出す。それだけだ。
 その先が勝利であるならば喜びもしよう。敗北であるならば諦めもしよう。
 最前の試合のような無様と、相手への無礼だけは為さぬように。それだけを決めていた。
「そうか。そういうモンか」
 ほとほと弱り果てて、ハワードはがりがりと頭を掻く。
 槍を使ってミドルレンジで立ち回られたら手に負えないと思っていた。インファイトに応じてくれるというのであれば、正直ありがたいくらいの話だ。だが。
 だが、とハワードは考えざるを得ない。
 セイレンといいエレメスといい、被るデメリット以上の何かを、そうした無駄としか思えない行為から得ている気がする。
 商品に金銭としての値をつける。それだけの価値を認めた客が買う。
 取り引きとはそうして行われるべきものであって、つまりは等価交換だ。自分が代償とした以上の見返りを受け取るというのは不条理極まりない。
 お前さんがたそいつはちょいとズルいんじゃねェかと、そんな文句だって言いたくもなる。
「まあなんにせよ似合ってるとは思うぜ。なんともらしいこった」
 もう一度深く嘆息してから、ハワードは笑った。正直者が馬鹿を見るのはいつの世もだ。精々オレは自分の枠で、自分にできるだけの芸当をかましてやりゃあいい。そう腹を据えた。
 セイレンはその言葉を受けて微笑んだ。詳しい推察はつかないが、それでもハワードが何かをきちりと決断したのが判った。この男のそういう太さを部分を、セイレンは実に頼れる部分であると思っている。
 それにしても。

 ――らしい、か。

 あいつも、笑っているのだろうな。
 ふと、そんな事を考える。だがそこには決して嘲りや失望は含まれぬであろうとも、また確信していた。


             *               *                 *


 開始の合図するや、カトリーヌは素早く数歩を退いた。先の戦いの記憶があって、ハワードがまた開始早々の突撃を行うのではないかと予測したのだ。
 しかし彼女の思案に反して、立ち上がりは実に静かだった。

 ――でかいな。

 相対してみての感想がそれだった。何をどう得たのかは知らないが、それでも槍を使わないならまず僥倖だと考えていた。けれどそんな甘い考えは瞬時に投げ捨てた。捨てざるをえなかった。
 気を飲まれかけたハワードは、軽く唇を湿した。口中が一瞬でからからに乾いたようだった。
 彼より頭ひとつ身長は低いが、セイレンには小さいという印象がない。いつも背筋を伸ばした彼の姿勢が、そんな錯覚を引き起こしているのかもしれない。そして、今。対峙してみてのセイレンは、その常のイメージよりも更に大きかった。彼が構えを取るなり、威圧感が倍近くに膨れ上がったようにすら感じられた。
 ハワードも戦闘はこなす。だが本業は物作りだ。しかしセイレンやエレメスは違う。本業からして戦いに根ざす者なのだ。特にセイレンには、正当の流派を修めた者だけが持つ一種独特の空気があった。
 さすが職業戦士。それはそう納得させるだけのものだった。
 これまでセイレンに屠られてきた侵入者たちに、ハワードは畏敬の念すら抱く。よくもまあこんな代物に、挑もうと思えたものだ。その勇気――或いは蛮勇無謀の類やもしれないが――には素直に敬意を表する。
 決して臆病者ではないハワードに打ち込みを躊躇わせるだけの、それは圧倒的なプレッシャーだった。
 しかしながら彼は当然、そのまま射竦められている器ではない。
 セイレンの中段に対しての仕掛けは、意外な事に突きだった。柄の尻近くに持ち手を変えて、誘うように惑わすように小さく小刻みな打撃を細かく打ち込んでいく。
 それは一撃必殺を旨とするハワードらしからぬやり口だったが、それだけに効果的だった。
 斧は両刃であり、左右へのかわしがやり難い。迂闊なサイドステップをすれば、それを追って大振りの横薙ぎが来る事は明白だ。
 更に加えてハワードの膂力がある。
 受けたセイレンが眉を顰めた。ちょっとした触れ合いだけだとは信じられないくらいに剣が翻弄された。手首にとんでもない衝撃が伝わる。軽く、としか見えない一撃一撃が、実はとんでもなく重いのだ。
 これを受け続ければ握力のみならず腕全体に悪影響が出かねない。
 どうにもとんでもない男だ。これは鍛錬による合理的な力の出し方を体に教え込んでのものではないのだ。天然自然の資質だけで、これだけの事をしでかしている。舌を巻くというか、呆れ果てる他ない。
 そう考えてから、いや、と気を引き締めた。
 天賦のものだけだと軽視すべきではない。その圧倒的パワーはセイレンの武技と同じく、ここまでの時間をかけてハワードが築き上げてきたものである。ただの素質だけで、ここまでの体を作り上げられるはずもなかった。それは鍛え上げ鍛え抜かれた、恐るべき一個の武器であるのだ。
 そして同時に、農民と騎士が殴り合いをしたら前者が勝つだろうという話を思い出していた。日々土と格闘する者の基礎体力は凄まじいのだという。ならば鉄を、鋼を、飴の如く自在にして鍛え上げる者の筋力はどうであるのか。
 ぎん、と鋼と鋼を打ち鳴らす響き。
 驚懼の思いではあったが、だが今更何ほどの事もなかった。相手の積み上げてきた時間には、己の時間を以て当たるのみ。そう心を定めたばかりだ。
 ハワードの突きに合わせて、セイレンが踏み込んだ。出鼻の籠手を狙った斬撃。嫌ってハワードが距離を取る。こうした牽制、技術戦においてはセイレンに一日の長があった。
「ちくちくやってたんじゃア敵わねェか」
 ぐっと腰を落とした。出来た間にセイレンが踏み込むよりも速く、斧が風を巻いた。
 上段真っ向から振り下ろされる大質量を、セイレンは好機と見る。それは渾身であるだけに、受けて弾けば体が乱れるは必定。これを捌いて――、
 ぞくり。
 肌が粟立った。セイレンは自身の動きを急制動。そして、逃げた。体を横に開く形でその一撃を回避する。猛烈な破砕の音で、足下の石畳が砕けた。細かな破片が跳ねて、鎧の表面で音を立てる。
 受け止めなくて正解だった。受けは出来ても、止められはしなかった。あの怪力に巻き込まれてそのまま崩される事になっていただろう。そうなれば二撃目をより悪い体勢で受ける事になる。それでもまだ凌げはするかもしれない。だがそれで体は更に崩れる。そこに、三撃目が来たなら?
 重量を上手く扱えば素人でも一撃必殺。ハワードはそう言った。ならば玄人たる彼が使えばどうなるか。その結果は自明の理だ。今の破壊が証明している。
 人間とは身体能力の異なる数多の魔物たちと戦い抜いてきた経験を持つだけに、セイレンは思い知っていた。
 単純な力というものが、技術を圧倒しうるのだと。
「受けてくれると思ったんだがな」
 軽い調子でハワードは言って、みしりと軋みが上がりそうなほど強く、斧の柄を握り込んだ。常人ならば、石を砕いた反動で手が痺れて使い物にならなくなっている。だというのにこの男は、何の痛痒も感じていないふうだった。
 腰の辺りまですいと浮き上がった斧が、今度は横薙ぎに唸った。飛び退る。あれは止められるものではないと身に染みた。
 フォロースルーに合わせて懐に潜り込もうとするも、叶わない。長大にして圧倒的な重量はぴたりと動きの中途で停止。斧の自重、速度で加わる猛烈な慣性を、ハワードが単純膂力で引き止めたのだ。武器に振り回される、などとという事態は、事この男に関してはあり得ないと言ってよかった。
「せっ!」
 気合と共に斧は再動。振り子のように同じ軌道を逆進して舞い戻る。エレメスとの戦いで見せた、暴風の如き攻め手。その連撃のどこにも、隙らしい隙など生じはしない。迂闊に手を出せば巻き込まれ、薙ぎ倒される。
 だが。ないのならば。
「作るまでの事だ――!」
 更に下がって刃を避けるや、セイレンは剣を振るった。眼前を行き過ぎた斧を追って銀光が走り、激しい音を響かせて柄を撃った。当然、運動は後押しされて加速する。自身の最速にセイレンの力を上乗せされた形になって、さしものハワードもたたらを踏んだ。
 ハワードの最前の攻撃をなぞるように、セイレンの剣もまた舞い戻る。自身の胴に吸い込まれようとするそれを意識しつつ、ハワードは笑う。
 ようし。
 実のところ、今の斧ですら彼ならばまだ止められる範囲だった。それをわざと流されたように見せたのは、反撃に逸るふうだったセイレンを誘い込む為だ。 
 自分を一撃で打ち倒せる人間などまずいない。それが『あの』セイレン=ウィンザーであろうとも、だ。そういう自負があった。
 エレメスのように、受けた部位を不随意にする。そういう攻撃でない限り耐えられる。自身のタフネスに、そういう信仰があった。
 斧をぐいと引き戻す。狙うはカウンターだった。いや、カウンターなどという生易しいものではない。手先ではなく戦い方においてはいささか不器用なハワードの事。後の先など取れはしないし、だからそれは肉を切らせて骨を断つ類の凄惨なものになる。
 無防備にあの剣を受けるのだ。自分も骨の一二本は持っていかれるだろう。
 だがなセイレン、最低でも代わりに、お前さんの肩から先をもらうぜ?
 マーガレッタの治癒術を信頼すればこそだが、それは無法この上ない決断でもあった。
 ほら、そいつに合わせてこいつを一振り――
 出来なかった。
 金属同士のぶつかり合う音。重い衝撃が両手に伝わる。反射的に、斧で受けていた。愕然とした。自分の体が思わずガードしてしまうほどに、それほどに危険な一撃だったというのか。
「――」
 まだ手には、打ち込みの余韻が残っていた。微かに、体が震えるのを感じた。
 だが怯まず、ハワードは唇を舐める。

 ――面白ェ。 

 そこからは、猛烈な打ち合いになった。
 ハワードの有利は恐ろしいほどの間合いの広さ。だがセイレンは背丈に比して手足が長い。扱う武器もあって、同じリーチで比較するならばエレメスよりも上だった。
 だが逆にその長さが、懐での小回りを殺す。エレメスのように、内懐に潜り込んでその豪腕を封じる手は取れない。
 しかしながらセイレンにも有利はある。それは回転速度だ。
 ハワードと同じく、セイレンも自身の斬撃を加速させている。そういう戦技を用いている。双方が似た自己強化を用いるならば、斧と両手剣に生じるのは武器本来の差。斧と比すならば両手剣の方が軽いのだ。それ故手数ではセイレンが勝る事になる。
 とはいえハワードの仕掛けも少ないものではない。
 結果として、お互いの武器が火花を飛ばしてぶつかり合う形になる。
 アマツの玩具に独楽という代物がある。高速で回転するこれに鉄輪を嵌めて、ぶつけあう遊戯があるのだが、ふたりの激突は丁度それに似ていた。
 互いがただ無心。打ち合う武具に籠もる力はほぼ互角で、その拮抗が一瞬でもどちらかに傾けばそこで勝負は決する。そんなふうに思われた。
 徐々に単純になっていく互いの攻撃に、セイレンは一瞬カウンターを意識する。だが、直ぐにそんな思念は打ち消した。
 純化した勝負において雑念に類する思考と思えたし、これは力と力のぶつかり合い、剛対剛の頂を決する対決のひとつだ。ならばただの一点においても退く事はなるまい。
 それに。
 気持ちで負けた方が押し負ける。そういう状況を呈してきている。
 ハワードは歯を食い縛る。
 度重なる衝撃で、手が痺れ始めていた。徐々に握力が弱まっていくのを感じる。しかし。
 両手剣と両手斧。武器のタイプが似通ったものである以上、反映されるのは使い手の力だ。到底ここで退けるものではなかった。
 それに、ハワードは勝機を見ている。もう少し、もう少しだけ粘ればそれは転がり込んでくるはずだった。

 ――しかし、畜生。

 自分がこれだけ奥歯を噛み締めているのに、セイレンは涼しい顔だ。
 この化け物め。胸中で毒づいて、ハワードは両の手に力を込める。
 打ち合う以外にない。それ以外に手はないのだ。引けば気持ちが折れる。折れれば負ける。単純な喧嘩の理屈だった。
 疾風の如く。怒涛の如く。
 両者はますます激しさを増して拮抗する。
 だがじりじりと、そして次第に、ハワードが押し込まれて始めた。
 差はやはり武器の重量から生じた。斧は重く、最速に達するまで時間がかかる。両手剣は斧よりも軽く、比例して加速に要する時間も短い。故にセイレンは最高の威力に達する前に斧を打ち払う事が可能であり、ハワードは加速しきった剣を迎えざるをえない。
 ついに鍛冶師の手から、握りがすっぽ抜けかけた。逃さず、瞬時にセイレンが滑り込む。
 しかしその一刀が振るわれる前に、ハワードが柄を掴み直していた。
「……ッ!」
 辛うじて割り込んだ斧を、セイレンは踏み込んで受けた。遠心力が最大となる刃の部分ではなく、柄を受け止める形になるが、それでも彼の体は踏みしめた足を無視して大きく押し戻された。
 ようやく距離が生まれて、視線が交錯する。睨み合う。
 ハワードは肩で息をしていた。今までの立ち合いは殆ど無酸素運動だ。だというのに、セイレンは常と変わらないように見える。確かに呼吸は多少荒いが、それだけだ。
 ああ、まったく化け物め。
 同じ文句で再度毒づいた。そして頭を振る。
 いや、それでも疲弊がないはずがないのだ。ポーカーフェイスで誤魔化しているだけに過ぎない。現に最後の攻防、セイレンの太刀行きは少しばかり遅かった。でなければ間に合わなかった。あいつの手だって限界に近いはずだ。
 しかし。
 気弱ではなく、正直な感想としてハワードは思う。強い。技術では圧倒的に上を行かれている。

 ――気付いてるか、セイレン。

 それでも、ホワイトスミスは心中でにっと笑った。
 斬り合いは独壇場かも知れねェ。だが鉄と鋼はお前さんの専門外だろう。その剣、そろそろ限界だぜ。
 セイレンの剣はもうじき折れる。それがハワードの見立てだった。打ち合って手に伝わる感触から、そう触診している。
 どんな剣も、物を斬る事を前提に作られている。打ち合いによる消耗は考慮していないし、まして斧などという大質量と正面から切り結ぶなど想定の外だ。普通はやらないし、出来ない。
 セイレンの剣はハワードが丹精して鍛えた業物だったが、それでも劣化は避け得なかった。
 オレのも相当にキてるが、お前さんのの限界の方が大分早い。こいつばっかりは鍛冶屋でないと判らない呼吸ってヤツさ。
 後十数合も交わせば、間違いなくあれは折れる。
 そこで生じるであろう隙こそが、ハワードの勝機だった。
 互いの呼吸が、次第に整っていく。再び間合いが詰まり始めたその瞬間。
「!?」
 かっと爆発が起きた。熱と光が渦を巻く。大気が熱せられて膨張し、熱風が肌をちりちりと焦がした。マグナムブレイク。未だ有効範囲の外であるというのに、何を思ったかセイレンが唐突に技を振るったのだ。
 景気付けか? それとも目晦ましでもかけたつもりか?
 いずれにせよ、甘い。
 槌打つ音とふいごの風こそ子守唄。炎が棲まう鍛冶場の熱気こそ第二の故郷。この距離ならば、いかなセイレンの戦技といえどもそよ風に等しい。
 炎と共に猛然と踏み込んでくるセイレンを、ハワードは万全の体制で迎え撃つ。
 またも激突するふたつの嵐。鉄と鋼が噛み合って火花を散らす。魔物の咆哮にも似て不吉めいたその音が、幾重にも重なって反響する。
 切り込み、受け止め、振るい、払う。右。左。踏み込んで中段。足を薙ぐように下段。
 更に数合を交えて、ハワードは動揺した。斧が、想定以上の疲弊を起こしている。彼の読みよりも数段疲弊が早い。
 何故だと理由を探って、そして気付いた。熱だ。
 マグナムブレイクはわずかながらも武具に火性の力を残す。それがハワードの予想を裏切らせたのだ。さしもの彼も、鋼を知るほどに剣士の技は知らなかった。二つの武器は時を同じくして限界に達しようとしていた。
「……剣といえば我が身も同じ、ってトコか」
 気付いていたのだ。こいつは。気付いて、ご丁寧に打開策まで用意したのだ。ハワードは悔いる。くそ、剣士というものを侮った。
「武器を選ぶようでは二流だが、拘らないなら三流以下。そう言われたよ、俺は」
「……優等生過ぎて嫌味なくらいだな、お前さん」
 荒い息の下、それでも互いに余裕を見せようと応酬する。
 そしてハワードは顔を顰める。それはかつて、彼がセイレンに告げた言葉だった。妙な遠慮をして粗製濫造の剣ばかりを使っているから、そう叱ったのだ。ここに一流の鍛冶屋がいるだろ、なんで頼らねェ、と。
 斬撃が止んだ。機を計ったかのように、同時に。
 両者の震える手に力が籠もる。もってくれよ、と囁く。体と、武器とに。
 一瞬でも早く、武器を破損させた方の勝ちだ。
 一瞬でも長く、武器に耐えさせた方の勝ちだ。
 つまりはどちらが正確で、速くて、重いかだ。
 何の事はない。要は今までの競り合いと大差はない。
 動き出しも、やはり殆ど同時だった。振りかぶる。互いにけれんの一切混じらぬ真っ向切っての正面衝突。
 そして、それは同時だった。
 鈍い音がして、戦斧の頭が外れた。剣が半ばから跳ね飛んだ。
 互いを讃えるような視線交錯。
 通常ならば予想外と言っていいアクシデントだが、これはふたりともにとって予想の範囲だった。武器の余りを即座に放り捨てて、両者は格闘戦に移行する。
 いや、移行しようとした。
「……そこまで」
 そこに声が割って入った。冷たい氷の壁が、拳を交えようとしするふたりを隔てる。
「カトリーヌ!?」
「ちょっと待てよ、勝負はまだ……」
 セイレンとハワードは愕然と振り向いた。双方の抗議に、しかし審判はゆっくりと首を振る。
「だがカトリーヌ。我々のどちらも、今だ決め手になるほどの傷は受けていないし、そういう状況にも陥っていない」
「その通り。こっからが本番みたいなもんだ」
 セイレンが詰め寄り、ハワードが掌に拳を打ちつける。
「……めっ」
 すっと背を逸らして、腰に手を当てる。まるで駄々っ子でも相手をするかのような仕草。時に冷たいとすら思えるほどに澄んだ瞳がふたりを見る。
「これは、お祭り。ふたりとも武器の使い手で、素手の専門家じゃない」
 ふたりに意味が染み渡るのを待つように、カトリーヌはゆっくりと瞬く。
「……その、専門の武器は一緒に砕けた。なら、引き分けが妥当。素手同士だとしっかりした決着がつけにくいから、後に残る怪我の可能性が増える。片方だけなら止めないけど、両方だから引き分け。……わかった?」
 噛んで含めるような説明に、男二人は頷いた。頷かざるを得なかった。
 確かに言う通りなのだ。武器を失くしては決定的な一撃というものは決めにくくなる。試合は長引くであろうし、鈍器に近い拳での打撃というものは、外からはなかなか判らない損傷を引き起こしやすい。カトリーヌの判断が適切なのに間違いはなかった。
 それでも、と思ってしまうのは、つまるところ完全決着をつけねば気が済まないという自分達の幼いエゴに過ぎない。
 そもそも彼女を審判として認めているのだから、その裁定には全面的に従うべきdった。
「道理だ」
「……だな」
 同意しつつもハワードはどっかりと胡坐をかいて座り込んだ。セイレンも仏頂面で押し黙る。
 そんな彼らを、というよりもセイレンを見て、カトリーヌは少しだけ申し訳ないように思う。


             *               *                 *


「……酸欠になるかと思った」
「心臓に悪ぃよ。なんだよあのノーガードの打ち合い」
「きっと、試合形式だからこそ、逆にお互いが意地を張り合ったんじゃないかな」
「あ?」
「この後を考えなくてよくて、常に全力を出せる戦いだからこそ、ああいうぶつかりあいになったような気がする」
「お、オマエもたまには言い事言うじゃん」
「もっと褒めていいよ。そして尊敬してもいい。跪いて足をお舐め」
「頭に乗んな」
「あいたっ、暴力反対」
「まあともかく、ふたりの力量がほぼ等しかったから、ああいうふうになったんだろうけどな」
「でもホント、よくもあんな代物を一試合で駄目にしたよね」
「そういや武器の替えって準備あんのか?」
「ハワードさんが用意してるから大丈夫。アルマイアと一緒で、あのひともそういうとこに抜かりはないよ」



 困ったな。
 それがセイレンの正直な感想だった。次の試合でエレメスとセシル、どちらが勝つにしても。自分とハワードは優勝争いから脱落する形になる。勝ち抜いたところで得られるのは名誉のみ。だが、その名誉を志していた。
 これも、子供染みた虚栄か。
 半ば自嘲めいてセイレンは思う。引き分けとは想定外だったが、素手の殴り合いで勝てたとは断言できないし、試合を終えて時間を経て頭が冷えれば、ますます彼女の判断が的確であったと思える。
 カトリーヌには無礼を働いてしまった。激昂の償いはするべきだろう。
 そしてしばし思案を巡らす。彼女に対して謝罪の気持ちとなるものとはなんだろうか。どうにも彼には、女性の喜びそうなものの見当がつかない。
 そういえばあまり表情を変えずに、しかし雰囲気だけはひどく嬉しげに食事をしている光景をよくよく見る気がする。その様はとても微笑ましく思えたから記憶にも残っていたし、料理上手のエレメスについてあれこれ調理――というか試食――をしている光景を見かけた事もある。ならば食べるのが好きなのは疑うまでもないだろう。
 丁度あちこちで食べ物屋も展開されているようだし、ひと声かけて次の試合までの付き合おうか。そう思って立ち上がって、そして騎士にあるまじき事に少し怯んだ。
 探しに出ようとした当の本人が、ちょこりを顔を覗かせていた。
「……カトリーヌ、いつからそこに?」
 セイレンの問いには答えず、すいと彼女は控え室に入って来る。どこか体重の、存在の感じられない独特の歩み。
「余計、だった?」
 それから逆にそう尋ねた。
 引き分けとしたのは彼女の裁量。だが当事者も観客も、あのままやらせて決着がつくのを望んでいたのかもしれない。ひとの希望、思惑に対する読み取りが薄いとの自覚は、カトリーヌ自身にもある。
 だから、そう訊かずにいられなかった。
 腰掛けるセイレンを見下ろす位置にありながら、それでもどこか上目遣いのようなその瞳。まるで仔犬のようだな、などと愚にもつかない感想を抱く。
 それから少しかけて、何が余計と問われたのかの意味を把握した。彼女の言葉は最小過ぎて、時折流れを見失う。
「いや。余計などという事はないよ。マーガレッタも、君にそういう冷静さを期待したはずだ」
 立ち上がって、ゆったりした笑みを浮かべる。
「俺も、君の判断は的確だったと思う。先ほどはすまなかった」
「ん」
 気にしていないとでもいうふうに、彼女はゆっくりと瞬いた。
「……なら、よかった」
 小さく。しかしカトリーヌは確かに微笑む。安堵したように。
 安堵しつつも解らない。何故セイレンの思惑を気にかけたのか。気にかけて彼を追うような真似をしたのか。そして彼の謝罪を受けて、どうして心が落ち着くのか。どうして彼の笑顔を直視できないのか。
 疑問は究明せずにおけない性向のはずなのに、これはそのままが心地良いようにも思う。
 セイレンから逸らした視線が、ふと彼のマントで止まった。
 思い出す。少し前、それに、誰がどういう格好で包まっていたのか。やはり理由はよく判らないけれど、なんだかあまり好ましくない事のような気がした。
「セイレン」
「ん?」
「洗濯、得意?」
「なんだ、唐突に?」
「得意?」
「……得手不得手で言うなら、あまり得意じゃない」
 セイレンは諦めたようにそう返答する。押し問答では敵わない。ならば何でなら敵うのかと重ねられれば、それは返事に窮するところではあるのだけれど。
 とまれ彼の言葉を聞いて、カトリーヌは満足したようだった。目だけでそっと微笑する。
「……後で、これ」
 マントの端をつまんで、セイレンを見上げた。
「洗ってあげる」
 さっぱり、訳が判らない。



 イグニゼム=セニアは大層不機嫌だった。
 どかどかと大股で歩く。といっても、赴くべき目的地があって急いでいるわけではない。心が不満で一杯で、体を動かさずにはいられなかいうだけの事だった。
 不満と言っても何ほどの事もない。ただ、兄とカトリーヌがやりとりしているのを見た。それだけだ。それだけなのだけれど。
 カトリーヌ=ケイロン。
 膨大な知識と、それを活用する知力とを併せ持つ大魔術師。
 その金色の髪は絹糸のように細くて。綺麗で。
 その肌は本当に抜けるように白くて。艶やかで。
 手足はほっそりと長くて、スタイルも羨ましいくらいに良くて、ぞっとするように美しいひとだ。
 きっとセニアも、単純に憧れていただろう。兄の事さえなければ。
 セニアの目には、兄と居る時の彼女が、少し違うように見えるのだ。
 決して口数の多くない無表情が、普段よりも少しやわらかいように。時に冷たくすらあるその瞳が、いつもよりもやさしく微笑むように。そんなふうに見えるのだ。
 冷静で冷徹な知性を誇るハイウィザードではなく、ただのひとりの女性のように。
 それは剣士の勘などという上等なものではなく、もっと直感的なところに根ざすもの。つまるところ女の勘だった。
 セニアの歩調が、少しずつ落ちていく。とぼとぼとと言っていいような速度にまで。
 セイレンはカトリーヌと楽しげに話す。
(当たり前だ)
(兄の大切な仲間なのだから)
 向ける笑顔は、自分にいつも見せるのと変わらないものだ。
(当然の事だ)
(自分は彼の特別ではないのだから)
 でも。それでも。
「セーニアー。セニアってばー」
「……え? あ、トリス?」
 そこで彼女は我に返った。大分前から呼びかけられていたらしい。
「あんまりおっかない顔してると、いい運も逃げちゃうよ?」
「そ……そんなにひどい顔してた?」
「してたしてた。お兄ちゃんに見られなくてよかったねぇ」
「な、なんでそこで兄さんの名前が出てくるのっ!」
「え? アタシはエレメスの兄貴のつもりで言ったんだけど? ほらうちの馬鹿兄貴、噂を広げる悪癖があるから」
 言葉を失うセニア。くすくすと笑うトリス。
 絶対だ。絶対、わざとだ。火照る頬を押さえてセニアは思う。悪癖というならば、事につけてひとをからかう彼女こそだ。
 しょうのない子だね、セニアは。
 結んだ髪の尻尾を、手慰みにくるくると指に巻きつけては解いてトリスは嘆息する。
 兄妹姉弟と言い交わしてはいるが、それは便宜上のようなものだ。ファミリーネームからして異なる事で判るように、ここのメンバーに血縁はいない。だから彼女の思慕だって、道を外れたものというわけではないのだ。そんなにひた隠しにしなくても、と思う。
 でも、ま、あの朴念仁の相手は大変かもね。
「食べる?」
 セニアが落ち着いたところで、トリスはたこ焼きを差し出した。
「あ、えーと?」
「兄貴に奢ってやろうと思ったら、なんかぴりぴりしててさ。小心者で困るよねー」
 やれやれと大仰に肩を竦めて見せる。
「で、ひとりで食べようかと思ったんだけど、食べ切れないっぽいからおすそ分け」
 ちょっと冷めてるかもね、なんて肩を竦める彼女に、どうしようもなかった心持ちが少し救われた気がした。
「……ありがとう」
 二重の意味で礼を言いつつ、ご馳走になろうとしてセニアは戸惑った。食器の類がトリスの手持ちに見当たらない。それはどう取るのが正しいものなのか。
「ああ、そのまま指でつまみなよ。こういうの、お上品に食べたってしょうがないって」
 困惑を察して、トリスがまた笑った。自分の言葉の通りにひょいとつまんで、一個を丸ごと口に放り込む。てらいのない彼女らしい食べっぷりで、セニアもつられるように微笑んだ。
 けれど、そこで不意に思い出してしまった。かの女性は大層な健啖家だと聞いている。
 ひょっとして自分が目を離した隙に、兄が彼女に奢っていたりしないだろうか。せがまれれば兄は必ず付き合うだろうし、きっと女性に支払いをさせたりはしないだろう。
 楽しげな二人連れの図が脳裏を過って、セニアは柳眉を寄せる。

 ――にいさまの。

 ふと、幼い呼称がついて出た。
 冷めかけのたこ焼きを、親の仇か何かのように口に放り込む。

 ――にいさまのばかっ。
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