廊下を出たとき、本気でここが何処であるかを一瞬の間完全に忘却した。普段なら咄嗟に構えただろう弓を持つ右手はだらりと下を向き、矢を握った左手は目の前に写る光景にぽかんとした隙にからんと軽い音を立てて廊下へと転がる。
右手に巻きつけられた飾り布がはたはたと彼女の薄い胸の前で揺らめき、
「「「とりっく、おあ、とりーつ!」」」
「な、何なのよこれえええええええええええええええええええええええええ」
顔の上半分をかぼちゃに食われたかのような集団に、彼女は押し流された。
はろーうぃん/Hello,Win
「で……一体何がどーなってるのよ、これ」
「賑やかでござるなぁ」
押し流される人の渦から抜け出したセシル=ディモンは、同じく人波に押し流されたのか若干着衣が乱れているエレメス=ガイルへと視線を向けた。憮然とした顔のセシルに比べ、にこにこと笑顔を浮かべながら壁に寄りかかっている彼はさほど目の前の現状を気にしていないらしい。気にしてない、というより、彼がこのような情景をどのように受けているかがそもそも想像がつかない。
視線を廊下に戻す。
大きなかぼちゃに目や口の穴をくりぬいた、ジャックオランタンと呼ばれるかぼちゃお化けを模した被り物を被り、男女構わず黒いローブに身を包んでここを練り歩いてる。その数、およそ五十前後。これが町のカーニバルなどと言うのなら彼女も納得もするだろうが、場所が場所だ。
ここは生体研究所3Fで。
そして、かぼちゃお化けに扮している彼らは、普段自分たちと刃を向け合っている所謂冒険者と呼ばれる身分の人たちであって。
「あ、こないだあたしが腕吹っ飛ばした人だ」
「あー、あのときのウィザード殿でござるか。無事だったようでなによりでござるな」
「って、普通に手振ってるわね、こっちに向かって」
「プリースト殿は会釈して行ったでござるな」
などと暢気に指差させるような人もいる。いや、暢気にしていいかどうかは知らないが。
エレメスの声を聞き、横目でちらりと彼を見やる。
「そういう問題なの?」
「刃を向けられれば命を刈り取り、けれど、彼らとは何の禍根など残さず。いいことではござらんか」
「だからと言って……何でこんなとこにまでくるのかしらねぇ」
今、世間ではハローウィンと呼ばれるイベントの真っ最中だそうだ。子供たちがお化けの格好に扮し、大人たちに「トリックオアトリート」、つまり、お菓子をくれないと悪戯するぞ、と言ってじゃれ付く行事。それの起源や由来などに興味はないが、とりあえず今はそういう風潮でそういうイベントが行われているらしい。
そして、その行事は子供たちだけでなくて、いい年こいた大人たちにまで伝わって、
「全てのダンジョンなどを回っているらしいでござるよ。勿論非武装で」
「命がけっていうか、命知らずっていうか……あたしたちが攻撃したら全滅できそうね」
お菓子をたかる相手は大人たちには存在せず、それならば、ということでこうして各ダンジョンを回ってモンスターたち相手にたかっているらしい。言葉を解すモンスターならば呆気に取られて彼女たちのように流されてしまうが、動物型モンスターなどに鉢合わせたらどうするつもりなのだろう。悪魔型モンスター相手にはある意味同類と解釈されてそのまま狂乱になりそうだが。
「拙者たちがそれをしない、と思ってくれたのでござろう」
「ふーん……」
橙の色をしたかぼちゃの群れが、列を作って廊下の奥に曲がっていく。セシルは、ポケットの奥に入っていた飴の包み紙をくしゃっと握り締めた。
「お菓子をくれないと悪戯するぞ」。
セシルのポケットには、二つの飴が入っていた。けれど、彼女の前にいるのは五十人にもなるかぼちゃの群れ。当然、そんなお菓子ではいきわたるはずもなく、彼女はかぼちゃの群れに押し流されて廊下を移動することとなった。そして、エレメスがいたここまでもみくちゃにされながら到着した。
どうせこんなところまできたのなら、という意味を込めて、セシルはポケットに入っていた二つの飴を、最後尾にいた少年と少女の二人組みに渡そうと近寄った。けれど、飴を差し出したセシルに、彼らは少しだけびっくりした顔をしてお互いの顔を見合うと、笑ってこう言った。
「今日だけだよ! はろーうぃん!」
「またね、次は勝つよ!」
そうして、飴を受け取らず、変わりにもう一つずつ飴玉を握らせてくれると、もう一度「とりっくおあとりーと!」と叫んで列へと戻っていった。次は、セイレンたちの所へ行く予定だそうだ。
彼らは別に、お菓子をねだりにきたわけではないのだ。自惚れでないのなら―――刃を向け合う相手ではなく、自分を、セシル=ディモンという少女と触れ合いにきてくれた。自分だけではなく、エレメス=ガイルも、マーガレッタ=ソリンも、セイレン=ウィンザーも、ハワード=アルトアイゼンも、カトリーヌ=ケイロンも、そして、多分、二階部に住まう自分たちの弟たちとも。
たとえそれが今日一日限りの饗宴としても。一日限りの淡い夢としても。
「ほんと……バカよねぇ」
「拙者は嫌いではござらんが、セシル殿は?」
消えていった列の最後尾を見ながら零したセシルの独白に、エレメスはやはり笑いながらセシルを見つめる。
セシルはその視線に当てられ、少しだけ、苦笑した。
「ん、あたしも嫌いじゃないかな」
「おお、何だか今日は珍しく素直でござるな」
「なっ……それだと、あたしがいつもひねくれてるみたいじゃない!」
「……違うでござるか?」
「っ、不思議そうに首かしげるなーっ!」
矢を向ける相手は今はいなくて。
それでも、弓はいつもどおり景気のよい音を響かせて軋む。向かう先は、いつもふざけてじゃれあう大切な仲間へと。
「痛っ、痛いでござるよ!」
「うっさいっ!」
こうやって、心穏やかにすごせる日々がいつか続けばと願う。
こういうイベントなどなしでも、彼らと触れ合えることがあればいいと祈る。そしてその日が、そう遠くない日にきてくれることを、望もう。
「ああ、そうだ、セシル殿。さっきの飴はもうないでござるか?」
「一つ上げたでしょ、まだいるの?」
「とりっくおあとりーと、でござるよー」
「……まったくもう」
ごそごそとポケットから取り出す、少年少女にもらった一つずつ、合計二つの飴玉。
一つをエレメスに投げ渡し、もう一つの包み紙を解いて口の中に放り込んだ。
今の季節には少し肌寒く感じるハッカの味が、口の中を吹き抜けていく。その味に目を細め、セシルは消えていった列の最後尾をもう一度だけ見つめた。
あの二人の少年少女が、自分たちのような年齢になるときまでには。
「次こそ勝つぞ!」という響きにも似た、あの言葉をもう一度聞きたいな、と、少しだけ思った。