――そりゃまあ応援してやろうとは思うけど、さ。

 兄の控え室手前で、トリスはうろうろと逡巡する。
 さっきのやりとりが、まだ心の中に尾を引いていた。気軽に入れない。
 やっぱなんかぴりぴりしてたし。なら集中邪魔するのは何だろうし。でもアタシが気を遣うのってちょっと違わない? ていうか年長者なんだからそのヘン余裕見せなさいよって感じじゃない?
 そんな具合に強気に思ったりもするのだが、やはり去来するのは不安だった。
 兄の実力は信じている。実戦で見せるその力量は、ふざけた日頃の挙措とはそぐわぬほどに圧倒的なものだ。
 でも。それでもでもと思ってしまうのは、セイレンとセシルの勝負を今しがた見たばかりだから。
 トリスも身ごなしにはそれなりの自負があった。だがあのふたりはその長所においても自分を大きく上回っていた。本当に兄は、あんな超一流どころとやりあえるのか。
 預言者郷里に容れられずとはよく言ったもので、トリスも兄の実力は値引きして考えがちだった。特にエレメスは常日頃の剽けた行いが、著しくその株を下げている。
 万一。万万が一、不慮の事故なんかがあったら。
 だからトリスの中で、そんな杞憂の暗雲は薄れなかった。
「トリス、なにしとるん?」
 所在なげに行ったり来たりを繰り返すその行動に終止符を打ったのは、そのひと声だった。
「お、アルマじゃん」
 ことこととカートを引いてやってくる友人に、片手を上げて努めて作った笑顔で応じる。
「こんなトコで何しとるん?」
「何してるって、まあ、その」
 煮え切らない返答に、しかしアルマイアはなるほどと手を打った。
「うちもこれからあにさんの激励に行くトコや」
「『も』って何さ、『も』って」
「トリスもお兄さんの応援やろ?」
 違うん? とにっこり微笑まれ、しぶしぶとならがら頷くトリス。
「ならなんで中入らんの? さっきから閉じ込められたビックフットみたいやったで?」
 見られていたのかと、照れ臭くなってトリスは前髪をいじるようにして顔を隠す。
「それが、さ。兄貴妙にぴりぴりしちゃってて。なんか、入り辛くてさー」
 極力なんとも思っていないふうに、事の次第をそう説明。するとアルマイアはまたぽんと手を打った。
「なら、いいものがある」
 彼女はさっと手早くカートの中から一本の瓶を取り出した。まるでサクラに対する商人の反応めいた素早さだ。そしてトリスはそこでやっと気付いた。珍しい事に、アルマイアのカートの上部には布が被せてある。お陰でその下に何があるのかが窺えない。
「うちのお手製の栄養剤や。差し入れゆう名分あれば大丈夫やない? 友達の誼で、一本ならタダでええよ」」
 好意を手を伸ばして受け取ろうとしたトリスの手が、思い出して中途で止まった。
「あ、ごめん。そういえば兄貴、試合が終わるまではあんまりものを口にしないみたいな事言ってたや」
「……ちっ」
「今、ちっ、って言った! ちっ、って!」
「気のせいや」
 そそくさと瓶を仕舞い込むアルマイア。
「まさかとは思うけど、なんか変なもの入ってたんじゃないでしょうね!?」
「入ってへん。そんな小細工なんてせぇへんでも、勝つんはうちのあにさんやもん」
「は?」
 その時、確かに空気の温度が下がったのだと。丁度通りがかったリムーバは後に同僚へそう語った。
「いくらアルマイアの台詞でも聞き捨てならないなぁ。もー、笑えもしない冗談ばっかり。勝つのはうちの兄貴に決まってるじゃん」
 ばちばちばち。ふたりの視線が火花を散らす。
 過小評価もこき下ろすのも、自分がするのは構わない。だが他人の口でそれが為されるのは我慢がならなかった。我がまま勝手極まりない言い分だが、それはトリスの偽らざる心情である。
 一方なんだかんだと言いつつも、やはりアルマイアもハワードには懐いている。そこで譲るはずもなかった。
「あにさんや」
「兄貴だよ」
 ばちばち。
「あにさん」
「兄貴」
 ばちばちばちばち。
 実際に試合を行う両者とは関りのないところで、熾烈な戦いがひっそりこっそり幕を上げていた。



 振り上げ、振り下ろす。
 それは今までに何百万回となく繰り返してきた動作。基礎にして基本たるこの鍛錬はセイレンの日課だった。騎士としての叙任を受ける前から、ただの一日とて欠かした事はない。
 小気味良い刃風が、ぴたりと臍の高さで静止した。再び振り上げ、振り下ろす。自身の状態を把握するには、この素振りが最も優れていると、そうセイレンは信じている。
 調子が良ければ、剣は思い描いた理想の線を違わずに、鋭く大気を裂いて走る。悪ければ振るう度ごとに異なる、乱れた軌跡を中空に描く。丁度己を映す鏡のように。
 逸話がある。
 まだセイレンが年若く、剣士になったばかりの頃の話だ。イズルードにおいて、丁度今回のような祭りが催された。その年剣士になった者を集めて、新人の技量を見ようという試みだった。
 下馬評も当然あった。優勝はこの型を使いこなすこの剣士に違いない。いや、格別に価値のある武器を操るあの剣士だろう。セイレンの名を上げる者はひとりとしていなかった。
 高度な型、高価な武器。そういったものばかりを求める周囲を他所に、セイレンは走り込みとこの素振りばかりを繰り返していた。只管、愚直なまでに。あれしか知らぬのだと陰口を叩かれるほどに。
 その年その大会の優勝者については、わざわざ語るまでもないだろう。ただ真っ正直に切り下げるセイレンの一撃をいなせた者は、ただのひとりもいなかった。
 それほどに積み上げ積み重ねてきた行為によって、セイレンは次の勝負へと気持ちを切り替えてようとしている。
 胸に悔いが残らぬではない。しかし最悪とは、敗北を無用に引き摺り、更に負けを重ねる事だと熟知していた。負けの理由は省みる。だが敗北そのものに拘泥する必要はない。セイレンの目はもう次を、先を見ていた。
 少し前からアナウンスが、そろそろハワードとエレメスの試合を開始すると告げていた。
 そろそろ、頃合だろう。
 身に染み付いた動作で刀身を拭って鞘に収め、観戦に赴こうと歩き出した騎士の目にとまったのは。
「む?」
 とぼとぼと同じ方角へ向かう妹の背中だった。あの破廉恥な衣装ではなく、いつもの剣士の装束に戻っている。
「セニア、どうしたんだ?」
「あ……兄さん」
 振り向いた一瞬、セニアは嬉しげな表情を浮かべ、そしてまたしゅんと肩を落とした。
「その……例の仕事ではなかったのか?」
 何故だかは知れないがひどく消沈した風情で、どう口火を切ってよいか分からず、セイレンは咳払いしてからそんな問いをする。言ってから、これではまるで自分があの姿を見たがっているようではないかと気まずくなった。いくつか言葉を練ってはみるが、口を出る事はなかった。どう取り繕ったところで言い訳めいている。
「……」
「……」
 セニアが俯く。ふたりの間に沈黙が落ちる。どうしたものかと不器用者が困惑し果てたた時、彼女が顔を上げた。
「お役御免を言い渡されました」
 泣き出しそうに潤んだ瞳が、上目遣いにセイレンを見る。
「マーガレッタさんが『もう充分に堪能したし、これ以上はセイレンに叱られそうなんですもの』、と」
 ああ、そういう事か。セイレンは瞬時に諒解する。マーガレッタの言いはまず間違いなく、詭弁めいた機転だろう。
 セニアに特等での観戦を許しはしたものの、しかし戦いが影響を及ぼす範囲が、マーガレッタの想定よりも広かったのだ。先のセシルとの一戦においても、危ういと感じる場面がセイレンにもあった。
 確かにセシルはセニアの安否を気にかけていてくれたし、エレメスやハワードも同様だろう。だがそれで攻撃の手が緩んだり、躊躇したりするようであれば、このお祭り騒ぎの本義に悖る。
 それにもっと余裕がなく切羽詰まった、それこそ互いしか目に入らなくなるような勝負になったならば、どうか。それは保証の限りではなかった。
 更にはそうした余波を被る危険性に加えて、この少女自身が、セイレン危うしと見れば戦闘に割って入りかねない無鉄砲な気質も有している。
 だからマーガレッタは、気分屋と思わがちな自分のイメージを利して口実を作り、セニアを観戦席にまで遠ざけたのだろう。鑑みて即座に改める。それは英断と言えた。さすが戦況把握を必要とされるプリースト、実によく状況を見ていて、その上で判断も早い。
 だが生真面目なセニアにしてみれば、突然の不条理な馘首だ。望んだ役柄ではないながらも、何か自分に至らぬ部分があったのではないかと、期待された仕事をこなせなかったからの仕儀ではないかと疑念しているのだ。
 責任感の強いこの少女にとって、与えられた任を全うできない事ほどの不本意はない。それであれほどにしょげていたのだ。何事にも気を張りすぎなのだとセイレンは思う。
 そしてその為の不名誉ならば、マーガレッタではなく俺が引き受けるべきだ、とも。
「俺が叱ったんだ」
「え?」
「俺がもう叱ったんだ。叱られそうではなく。嫁入り前の娘にあんな格好をさせるとは言語道断だと、マーガレッタに持ち込んだ」
「兄さん、が……?」
「よく考えれば差し出た真似だった。マーガレッタが言を濁してくれたのも、その辺りが理由と思う。すまなかった」
 頭を下げる兄に、逆にセニアは大いに狼狽する。
「すみません、我がままを言ったのは私ですし、私こそ、その、勝手に、あんな……」
 中途でセイレンに、自分のあられもない姿をしっかり見られていると思い当たったのだろう。台詞は尻すぼみになり、それこそ湯気が出そうにわっと顔が上気した。
 ちらりと兄の顔を見やり、微笑みを返されてまた下を向く。
「も、もしも、もしもですけれど、あれの所為でお嫁にいけなくなったら。そうなったら。いざという時は。いえ、そうならなかったとしても。兄さんが、私を、その」
 唐突なセニアの言は要領を得ない。耳までも真っ赤にしてぽつぽつと聞き取れないくらいの声音で、そんな言葉の断片を繰り返している。当然のように朴念仁は察さずに、そんな妹の頭にぽんと手を置いた。
「とまれ、仕事がなくなったのなら丁度いい」
 え、ともたげた顔が、セイレンの次の言葉でぱっとほころんだ。
「一緒に、観に行くか」
「――はいっ」



「さあさ皆さんお立ち合い」
 一堂が呆気にとられた事に、入場してきたのはハワードではなくアルマイアだった。
 燕尾服を着込んだ彼女はシルクハットまでもをちょこんと頭に乗せて、後ろに引いたカートから取り出したマイクですらすらと口上を始める。
「西はこのリヒタルゼン、東の果てはアマツまで。広く知られた怪力男、ハワード=アルトアイゼンの登場です! さあ皆さん、盛大な拍手を!」
 泥縄式でカートに備え付けたと見える銅鑼を、じゃーん、と力一杯打ち鳴らす。
 同時にぼん、ぼんと立て続けの音を立てて、何もない空間に炎の壁が生まれた。控え室から試合場までの通路を殊更強調するかのように、ファイアーウォールが花道を彩ったのだ。続けてアルマイアがカトリーヌに頷くと、今度は炎に照らし出されるその道の中央に今度は霜を輝かせながら氷の壁が聳え立った。
 そして一呼吸おいて、その氷壁が粉微塵に砕け散る。控え室から勢いをつけて走り込んできた人物、即ちハワード=アルトアイゼンが、手にした斧の一撃を以て陶器の如くに打ち砕いたのだ。炎と照明を反射して、氷片がきらきらと輝く。
 手にした大得物を一振りして、巨漢はアルマイアの隣に並んだ。じゃーん、と再び銅鑼がなる。両手を上げて拍手に応えるふたりの様は、手妻師とその助手といった風情だった。
「皆様におかれましてはご機嫌麗しゅう。博識なるここにお集まりの方々です、このハワード=アルトアイゼンの強力無双ぶりもお聞き及びの事でしょう」
 隣に兄を並べて立たせて、アルマイアの口は淀みない。
「ですが、人の噂はあくまで噂。その真偽をお疑いの諸姉諸兄もいらっしゃいますでしょう! それで!」
 じゃーん。
「今回は特別に、ちょっとしたパフォーマンスをご用意いたしましたー」
 わーっと返る、興味本位のリムーバたちの拍手。応えてから、アルマイアはカートから一本の鉄の棒を取り出した。太さは彼女の手で丁度一掴みくらい。反りも曲がりもない、一本の完全な円柱の形をしている。
「カトリーヌさん、ちょっとお願いします」
 もくもくと無心にクレープ頬張っていた審判は、もう一度カトリーヌさん、と呼びかけられてやっと目を上げた。手持ちの分を片付けてから、きょとんと小首を傾げる。先ほどの魔術行使の代償にあのクレープをもらったのだと、観戦の全員が得心した。
 もうクリームついてますよ、と面倒見を発揮してカトリーヌの口元を拭ってやってから、アルマイアはその鉄棒を手渡した。
「?」
「折り曲げてみてください」
 こくんと頷いて、んーっ、とおそらく精一杯の力を込めるカトリーヌ。だが当然、そんな頑丈なものが容易く曲がるわけもない。女の細腕どころかその辺の力自慢が挑んだとしても結果は同じだろう。
「……魔法、使ってもいい?」
「駄目です」
 意外と負けず嫌いなカトリーヌをさらりといなしてアルマイアは棒を回収。今度はハワードに手渡した。
「これから何をするかは皆さんご想像の通り。ですが一本では芸がない」
 言うなり彼女はカートから、更に二本の同様の品を取り出した。おいおいと言いたげな兄を無視して押し付けて、さあ、と合図する。
「これより挑むは力を合わせた三本の鉄棒。見事折れ曲がりましたらご喝采!」
 じゃーん、じゃーん。
 立て続けに銅鑼がなる。嘆息してからハワードは斧をカートに立てかけ、そして鉄棒をまとめて鷲掴みにした。手のサイズからしてアルマイアとは違うのだ。
 胸の前に構え、目を閉じて気息を整え、じわじわと力を込め始める。ぐうと筋肉が大きく隆起した。流石のハワードも相当に力んでいるのだろう。顔に赤みが差し、観客の手にも力が入る。
 やがて加わる力が棒が耐久の臨界を越えた。そこからは呆気なかった。大した時間は要さずに、飴の様に二つ折りに折り曲げられる。ハワードはそれを誇示してから、床に投げ捨てた。じゃーん。同時に銅鑼が鳴る。
 おーっ、とため息のような観客席からの声。アルマイアが足元に投げ捨てられた一本を拾い、再度カトリーヌに手渡す。受け取った彼女が元に戻そうと力を入れるが、やはり結果はさっきと同じだった。
 もう一度漏れる感嘆の声。
「如何でしたでしょうか? それではこの試合是非とも兄に、ハワード=アルトアイゼンにご声援をお願いいたします」
 小道具をさっさと片付け、アルマイアはそうアナウンスして退場。場内には若干ながら憮然とした雰囲気のハワードだけが残された。如何にも妹の思いつきに付き合わされたといった風情だった。
 同じ観客席に戻ってきたアルマイアに誇らしげな笑顔を向けられて、でヒュッケバイン=トリスは己の失策を噛み締めていた。
 アルマイアがこうした演出の達者である事を失念していた。敵は準備万端だったのだ。自分も何か画策しておくべきだった。
 全部がハワードの味方についたような会場の反応に、トリスはやきもきとする。そうまでしないまでも、せめて頑張れとひと声くらいはかけておいてやればよかった。
 そんな彼女の切歯扼腕を知ってか知らずか。自身も入場しようとしていたエレメスは苦笑気味に頭を振った。
 これでは自分も、ただ入場するというわけには行くまい。
 直情傾向のあるセシルや、まず礼儀礼節を考えてしまうセイレンとは異なり、このハワードとエレメスのふたりは基本的にお祭り好きだった。芸人気質と言ってもいい。相手にだけおいしいところを任せておくつもりは毛頭なかった。
「そうでござるな……」
 数瞬思案し、そしてエレメスは走り出す。現れた俊敏な影に気付いて、客席からまた歓声が上がる。彼は割れんばかりのその声を気にもとめなかった。
 助走代わりに階段を駆け下りるや、そのまま側転。途中で体を捻って前転、ハンドスプリングへ移行する。そこからまた角度を変じて側転。更に転じてバック転へ。言葉にすれば長いが、それは恐ろしい速度で行われる、つむじ風めいた動きだった。縦と横の回転を高速で自在に組み合わせながら、それでもバランスを僅かにも崩さない。身体能力と平衡感覚の何れを欠いても成り立たない芸当だった。
 みるみる試合場で待つホワイトスミスへと距離をつめながら、その旋風は小さく呼びかける。
「ハワード殿」
「よしきた」
 意志はそれだけで疎通した。
 ハワードを前にして、一段と高く跳ねるエレメス。回転して揃えた両足は、石畳ではなく腰を落として低く構えたハワードの掌上に着地する。
「おらよっ」
 掛け声と共に再度、そしてさらに宙高くに跳ね上がるエレメスの体。ハワードの怪力と自身の瞬発力を生かした高く高い跳躍。上昇のベクトルが頂点に達するや、エレメスは膝を抱えてくるくると回転。今度こそ地上に、わずかな体のブレもなくぴたりと着地する。
 両手を広げた後、恭しく腕を前に一礼して見せた。再度のパフォーマンスに、わっと負けず劣らずの歓声が上がる。
 トリスが自分の手柄のような顔をしてアルマイアを見やると、彼女は「あにさんはお人好しやから」と難しい顔をしていた。



「すげぇな、ふたり揃って」
「大道芸でも食べていけるね。ラウレル2人前半くらいの高さまで飛ばなかった?」
「高かったのは確かだが、その妙にムカつく例えはやめろ」
「えー」
「なんだその不満そうな口ぶりは」
「あ、それより僕、あれやりたいな、あれ」
「どれだよ」
「アルマイアがやってた入場口上。『伝説の貧乳、今ここに降臨!』みたいな」
「オレはごめん被る。巻き添えはごめんだ」
「えー」
「口を尖らす前に解説しやがれ」
「はいはい。じゃあラウレルさん、どっちが強そうですかー?」
「何だテメェ、オレを無理矢理引っ張って来といてそのやる気の無さはよっ!」
「なるほど、おっしゃるように間違いなくパワーとスピードの対決になりますね。ふたりのそれぞれのポテンシャルは、たった今垣間見せた通り。当たれば一撃必殺のハワードと、手数で確実に仕留めるエレメス。さて一体どっちが上か」
「ちょっと待て、オレは何も言ってねぇ!?」
「予想は5:5と来ましたか。ただし完全は互角ではなく、エレメスさんの方に戦闘経験上一日の長があるのではないか、と。小数点以下のその誤差が試合を大きく左右するだろうというわけですね。なんとも参考になるご意見でした」
「だから何も言ってねぇっての!!」
「おっと、どうやら試合が始まる模様です」
「……」



 なんともまあ。
 開始線に立った相手を見上げて、エレメスは嘆息する。

 ――大きいという事は、それだけで得にござるなぁ。
 
 体格というのは立派なアドバンテージだ。技術技量が同じなら、体の大きい方が勝つ。それは当然の理屈だった。
 上背でいうなら、エレメスはこの生体工学研究所で二番目だった。しかし3番目、セイレンとの差は非常に小さい。並べて立ってそこでようやく若干ながらエレメスの方が背が高いと判る程度だ。だが身長トップのハワードは、エレメスよりもゆうに頭一つ分は大きかった。
 勿論戦歴の豊富なエレメスだ。大男と対峙した経験ならば幾度となくある。しかしこれほどの力量を備えた巨漢は記憶になかった。技量が違えば、またその発するプレッシャーも自ずと異なってくるものだ。並の戦士ならばこの威圧だけで竦むだろう。圧倒的な質量、大岩の如き存在感がある。肩を並べて戦う折の頼もしさとはまるで別種の重圧だった。
 それに加えて、得物がまた奮っている。あの大斧。当たれば先日の彼の言の通り、その一発で勝負が決まるだろう。苦痛には人並み以上の耐性を持つエレメスといえど、あれで手足を吹き飛ばされて尚戦闘力を失わないかと問われれば、頷きえそうもなかった。



 さァて。
 両の手を叩き合わせてから手首を回し、次に首を回し、更に大きく肩を回してハワードは考える。
 まず本命のセイレンが敗れた。こいつは幸先のいい出だしと言っていい。加えてこの試合も割合にお得なはずだ。
 どうせエレメスはセイレンとやりあう事しか頭にあるまい。いくら彼が驚異的な俊敏さを誇るとはいえ、それならば集中力は充分な域にまで高まってはいないはずだった。ならば一撃、それくらいは当てる機会があるだろう。
 そして一撃で充分だった。それさえ叩き込めば、それまでの経緯の一切合財に関わりなく勝ってのける。ハワードはそう自負していた。
 全ては一撃。ただ一撃を叩き込む為に。
 ぐっと彼は体を沈める。それは短距離の駆け出しの構えめいていて、開始の合図があるなり突進をかけるのが目に見えてしまう格好ではあったが、これに関しては問題はないとハワードは判断。
 どうせ相手は百戦錬磨だ。こなした場数で自分は遠く及ぶまい。どうフェイクを混ぜ込もうと、大抵の意図は読み抜かれると思っていい。ならば相手の目など気にしたところで仕方あるまい。
 大雑把というなら大雑把、合理的というならば合理的な、彼らしい太い帰結だった。


           *                 *              *


「始め」
 カトリーヌがそう告げて、同時に一歩飛び下がる。その鼻先を、押しのけるようにハワードが駆け抜ける。大岩が転がってくるような迫力ではあったが、しかしそれを予期しているエレメスに動揺はない。
 すっと腰を屈めて地を撫でるような仕草。その手の下で石畳が変質する。
「――走れ」
 生み出されたのは無数の鋭い棘。言霊に応じて冷たく飢えた石の牙が、ハワードへを迎え撃って疾駆した。グリムトゥース。元来土への隠形を前提とするこの武技を、エレメスは何の手順も要さずに、ごく無造作に行使する。
「賢しいぜ、エレメス」
 牙は確かにハワードを捕捉した。だが、この男がその程度で止まる道理もなかった。己を貫こうとする棘を、半ば防具に任せ、もう半ばはブーツの厚い靴底で蹴り折る。突進速度こそ鈍りはしたが、逆に言えばそれだけの事だ。
 しかしその僅かな停滞こそがエレメスの狙いだった。遅延は一瞬で充分だった。ハワードがグリムトゥースに気を取られたその瞬きの間に、暗殺者は内懐へ踏み込んでいる。
「うおっ!?」
 風というよりは、雷光めいていた。
 ホワイトスミスの鎧が鈍い音と共に幾つもの火花を散らす。
 大抵の相手の打撃ならば、ハワードは斧での受け止め、打ち払う事ができる。事実侵入者たちとはそうした攻防を交わし、そして打ち破ってきた。だがその防ぎの手が追いつかない。先日エレメスが口にした通りだと、ハワードは思い知らされた。この距離、この速度での撃ち合いにおいて、カタールと斧では差がありすぎる。

 ――しっかし、野郎。

 すれ違い様だけで、一体何発放り込んできやがった?
 相手の武器がスピードだと承知してはいた。いたが、それでも桁外れのエレメスの速度に、ハワードはじわりと冷たい汗を掻く。速い速いとは思っていたが、共に戦うのと対峙するのとでは大違いだ。
 それでもハワードが一息に倒される事がないは、偏にその鎧の硬度のお陰だった。
 エレメスやセイレンほどに、ハワードは身ごなしに長けてはいない。ならばかわすのではなく、受け止めてしまえばいい。そういう思考の元に、自身が手に塩をかけて鍛造した、それは彼専用といってもいい鎧だった。並みの筋力の人間が着れば、その重量だけで動けなくなる。故にその分、信頼も厚い。
 だから己の防ぎがエレメスには及ばないと悟るなり、ハワードは諦めてしまっていた。
 勿論勝負をではない。回避する事を、だ。
 セイレンがセシルの矢に対してしたように、わずかな体の動きによって防具で受ける。致命傷だけを避ける。そうして意識の大部分を攻撃に向ける。
 短く持ち替えた斧が空を裂き、そこでエレメスが、わずかながら初めて後退した。
 生じた空間にハワードが踏み込んだ。レンジは変わらない。だが今度は己から作った距離だった。唸りを上げて斧が振るわれ、エレメスがまた下がる。
 再度できた距離を嫌って、今度はエレメスが踏み込んだ。同時に姿勢がぐっと低くなる。まるで地を這う獣のような運身。
 剣士ならば戸惑う動きだった。剣は自分の腰よりも低い位置にあるものを斬るのに適さない。当然その為の技も鍛錬もなく、その位置への攻撃は精彩を欠く事になる。
 けれどハワードには慣れた位置だった。彼は剣士戦士である前に鍛冶師であり、それは丁度金槌と金床の位置関係だった。颶風の肩口に、思い切り得物を打ち下ろす。
 捉えた、と思った。だが、手応えはなかった。さしものハワードも斧の動きを中途で止めかねた。大質量が石畳を激しく叩く。直進すると見せた彼は、転瞬サイドステップして攻撃の軌道から身を外している。その動きは当初からこうと決めていなければ適わぬ滑らかさで、つまり最前の動きは誘いだったのだ。
 大振りしてしまったホワイトスミスを、毒蛇の牙めいた刺突が襲う。左肩から大きく血が飛沫いた。
 ハワードはぎりりと歯を食いしばる。うかうかと手に乗って隙を見せてしまったのだ、いいのをもらうのは承知の上だった。そして覚悟が出来ているならば、痛みなど何ほどの事もない。この程度ではハワード=アルトアイゼンは止まらない。止められない。止まるわけがない。
「なんと!」
 さしものエレメスが感嘆を漏らした。一撃を加えた直後で伸びきっていた体へ、相打ち狙いとしかいいようのない回し蹴りが飛んできていた。まるで傷の痛みも衝撃もないかのようになハワードの動きだった。
 彼の耐久力の高さは知っているつもりでいた。だから明らかな好機にも肩を狙った。なのに避けきれなかった。逆にもっと致命的な部位を狙って深く踏み込んでいたならば、そこへの一撃で勝負はついていただろう。僥倖だった、とエレメスは思う。
 肩だったからこそ、蹴りで済んだ。辛うじて身を捻る動きが間に合った。カタールが蹴り足を受ける。それはエレメスの動きと比すならばスローモーと言って差し支えないものだったが、しかし内包するパワーが桁違いだった。
 防いだと思ったエレメスの足が宙に浮く。衝撃を流し殺し切れない。そのまま吹き飛ばされて鞠のように地を転がった。蹴り剥がす、という形容が最も似合う一撃だった。
 それでも受け身を取って二転三転。回転の勢いを利して立ち上がったエレメスは、そこへ襲い来る刃風を向かえて舌打ちをした。
 この試合、出鼻から彼がハワードの間合いを殺していた。優位に勝負を運んでいたのはその為だ。押し込められて焦れるハワードに対して隙を作って誘い、その身を削っていく。それがエレメスのプロット。
 しかし今、彼は初めてハワードの斧の間合いに身を許した。それはつまり、一撃必殺の間合い捉えられた事を意味する。
「行くぜ?」
 辛うじて追撃を回避したエレメスの表情に、ハワードはにっと口の端を吊り上げた。
 一般に言うところの速度、つまりは身ごなしの速さでは遅れをとる。これは間違いがない事だった。だがこと攻撃速度においては、ハワードは引けを取るつもりがない。
 鍛冶師たちは肉体に精通する。人体の構造、筋肉の組成等の知識は深い。それは武器を作り防具を鍛える過程で知らねばならない副産物的なものではあったが、その知には別の用途も見出されていた。
 どくん。心臓の力が強まる。血流が全身を駆け巡る。筋肉が更にパンプアップした。斧を握る手に更なる力が籠もり、柄に巻いた皮がぎちりと悲鳴を上げた。
 同時に無意識の枷を少しだけ外した。人間は普段、意識せずに筋力を抑制している。自分の体が耐えられない力を発揮しないよう、きっちりと押さえ込んでいる。それを、意識的に緩めたのだ。これによって彼は、常に最大限の膂力を発揮しうるようになる。いわゆる火事場の馬鹿力を自在にする格好だ。
 或いは興奮物質を生成し、或いは意図的に肉体のリミッターを外す。戦闘用と呼ばれるブラックスミスのスキル。それらを総動員してハワードは加速。極限のパワーが大斧を閃せ、エレメスが逃れる先へまたその先へと、繰り返して襲いかかる。大質量を武器として用いながら、まるで枯れ枝を扱うかの如き軽快な連撃だった。
 その様は海を思わせた。無論凪いだ、好日のそれではない。逆巻き荒れ狂う嵐の海だ。その波濤だ。両刃を生かして切り返し、一瞬たりとも休む事なくエレメスを逃げ場のない壁際へと追い詰めていく。
 例えば試合開始直後のような隙を一瞬でも見せれば、エレメスは内懐に入り込みうる。それだけの速度を彼は有している。そのエレメスをして踏み込ませないのは、紛れもないハワードの技量だった。
 防御は確かに他に比して甘い。だがそれを補って余りある攻撃能力だった。まさに攻撃は最大の防御、といったところだ。
 斧の巻き起こす旋風に紅が混じった。先ほどは掠りもしなかった刃が、エレメスの手の甲を切り裂いたのだった。
 押し切れる。
 そう思った。そして勝ちを意識した。
 ハワードにしてみれば、今の一撃は手首から先を斬り飛ばす意図で放ったもので、直撃というには軽すぎる当たりだったのだけれど。それでもエレメスの傷は決して浅手ではない。血がカタールの握りを伝い、石畳へと滴っていた。かなりの出血が生じている。少なくともそちらの腕を使った攻撃の威力は低下するだろう。ならばもう片手にだけ注意すればいい。
 それに出足を挫いたグリムトゥースも、この状態では使えないはずだった。僅かとはいえ予備動作を行わねばならないあの技をこの間合いで使うのは命取りだ。どう足掻いてもハワードの斧と相打ちになる。その相打ちがどういう結果に終わるかが、理解できないエレメスではない。
 ぐんと更に踏み込んだハワードめがけて、カタールが一閃した。腕を伸ばして届く距離ではない。逸ったかエレメス。そう考えた瞬間、
「くっ!?」
 視界が塞がれた。ハワードはたたらを踏む。
 確かにカタールは届かなかった。届いたのは別のものだ。その切っ先まで伝わっていた、エレメスの血だ。
 シーフギルドの教える技に、砂かけというものがある。砂を用いて相手の視界を奪う芸当だが、目潰しとして機能するのであれば何も砂に拘る必要はない。エレメスは自身の血液を以て砂の代用としたのだ。
 咄嗟の判断だったのか、傷すらもこれを狙って負ったのか。それは硝子玉のように感情を消した瞳からは推察できない。
 ハワードが怯んだその一瞬を衝いて、エレメスは低く駆け抜けた。そのカタールが更なる赤を絡めている。置き土産のようにハワードの膝裏を切り裂いたのだ。
 ふたりの距離が開いた。
「ふー」
 ハワードが顔を拭い、エレメスが大きく息をつく。観戦席もやっとそこで呼吸を思い出した。
「しんどいでござるな、ハワード殿の相手は」
「その言葉、そっくりそのままお返しするぜ」
 互いに背を向ける格好になっていたふたりが、ゆっくりと振り返る。再度向かい合う形になって、互いに悪戯小僧同士めいて微笑んだ。
「ものは相談なんだがな」
 ハワードがちらりと観戦席に目をやる。
「可愛い妹をこれ以上怯えさせるのは趣味じゃねェだろう? この辺りでお前さん、棄権した方がいいんじゃないか?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするでござるよ」
 それに、と暗殺者は付け加える。ハワードの肩と膝とに視線を送った。そして自身の右手を一振りする。
「有効打の数なれば拙者が2、ハワード殿が1。今のところ、拙者の優勢ではござらんかな」
「おいおいエレメス」
 ハワードは斧の頭を地に突き立てた。
「こんな傷にもならねェ手を負わせて喜ぶのがお前さんの流儀か? 違うだろうがよ」
 握りから外した片手で、どんと自分の胸を叩いて見せた。
「こちとらこの程度にゃア慣れてるんだ。きっちり、殺してくれや?」
 その所作に、エレメスは小さく苦笑した。
「まだ充分とは言えないが――そうだな、」
 そしてもう一度笑った。今度は、いつものようにとぼけた笑顔だった。
「これは、お祭りでござったな。細工は流々。ならば仕上げと参るでござるよ」
 それが再開の合図だった。両者の間の空気が張り詰める。
 勝敗は次で決する。
 それは両者の一致する思考だった。
 ハワードは思う。あの手だ。そうは長く戦えまい。握力は徐々に落ちていくはずだった。
 本来のエレメスならば、ここで姿を隠すだろう。だがこれはお祭りだと、あの顔で彼は言ってのけた。ならば決着をつけに来る。百戦錬磨と認識してきならが、ハワードはエレメスの言葉を疑わない。そういう虚言はしない男だという、奇妙な信頼があった。
 そして身じろぎして、自分の状態を確かめる。
 裂かれたのは左肩。利き腕ではない。右膝。高速戦闘ならば不安要素だが、互いに一撃を競う状況にまで漕ぎつけた。これも問題はない。
 正道の試合、つまりポイントを稼ぎあうような勝負になったなら、自分はセイレンやエレメスには及ぶべくもないだろう。彼らはれっきとした戦闘訓練を受けたプロフェッショナルだ。対して自分のものは我流に過ぎず、付け入る隙も削るべき粗も多い。
 だが一撃の威を比するならば自分に分があると、彼はそう信仰している。
 斧を寝かせて横に構えた。範囲の広い横薙ぎの構え。エレメスならば、まあ死ぬ事はないだろう。
 
 ――不安要素が残るうちに勝負など、元来流儀ではござらんのだが。

 心中、エレメスは嘆息する。十中十の勝機がなければやらぬのが本来の暗殺者だ。僅かでも己に不利があれば固執せずに即座に引き、次の機会を狙う。それこそがアサシンギルドの恐ろしさと言えた。
 だがエレメスには、そういうところから外れた部分があった。セイレンと立ち合ったあの夜から、それを強く意識するようになっていた。勝ち負けに拘り、戦いに酔う。つまりは子供なのだと自嘲する。
 だが同時に、それがどうした、とも思う。何に拘泥する事もなく枯れた人間は、もうそこまでだ。そんなふうにも思う。ああ、まったく自分も甘くなったものだ。ここは、この暮らしは。馬鹿げて居心地が良すぎるから困る。
 手は、そろそろ感覚がなくなろうとしていた。どくどくと第二の心臓のように痛みが脈打つ感覚。裂かれた肌よりも指の筋の方が問題だった。
 エレメスはもう一度嘆息する。いくら仕込み分があるとはいえ、あれの必殺必勝の一撃を捌かねばならぬとなれば気が重い。
 じりじりと爪先から間合いが詰まっていく。
 距離は決着までの砂時計の砂だった。少しずつではあるが確実に消失していく。
 リーチはハワードの方が長い。だから、先に動いたのもハワードだった。その動きに応ずる形でエレメスもまた走り出す。
 斧を振るい始めた瞬間、違和感があった。
 重い。そして遅い。 
 理由はすぐに判った。先ほど傷を受けたのは膝、それも利き足にだった。体重移動の瞬間、傷が思いもよらぬ痛みを生じさせて、それで斬撃の速度が僅かながらも遅滞したのだ。
 だが、それだけだ。ハワードは痛みを無視する。重心を乗せそびれた分は、この両腕で補えばいい。武器は腕だけで振るうものではないが、かといって全身全霊で常に振るえるものでもない。
 ぐっと力を込めた途端、今度はそれまで気にも留めなかった肩がずきりと悲鳴を発した。握力が抜ける。斧は更に失速する。

 ――そうかよ、そういう狙いかよ。

 そこで初めて、ハワードはエレメスの意図に気付いた。そうと気付かぬうちに、自分は少しずつ削ぎ落とされていたのだ。
 遅ればせながら、ぞくりと肌が粟立った。これか。これが、アサシンクロスか。
 エレメスのカタールが首筋へ、矢のように伸びてくる。
 間に合わない。そう感じた瞬間、ハワードは斧を捨てていた。この男らしい肝の太さであり、思い切りの良さだった。片手が腕を、もう一方がカタールの刃を握り締める。
 その万力のような力に、エレメスの肘がみしりと軋んだ。だが、そこまでだった。
 並の相手なら、ここから体ごと引っこ抜いて放り投げる事だって出来たろう。しかしハワードがどれほど力もうと、エレメスは微動だにしなかった。それは力のみではなく、練達の体術によるものだったろう。そして暗殺者のカタールは、ハワードの頚動脈直上に、浅くその先端を潜らせていた。
「それまで」
 見極めて、静かな声がした。
「勝者、エレメス=ガイル」


            *             *              *


「てっきりお前さんは、まだまだ暖機運転だと思ったんだがな」
 どさっと地面に座り込んで、ハワードはしくじったとばかりにエレメスを見上げた。
「セイレンとの勝負までは、体力を温存しておくだろうと読んでたんだが」
「……冗談でござろう?」
 言われてエレメスは、心底呆れ果てたという顔をする。
「俺の相手はハワード=アルトアイゼンだったのだぞ? 手抜きなどできるか」
 む、とハワードは口を噤んだ。打たれ強く叩かれ慣れているこの男だが、賞賛されるのは苦手なのだった。どうにも面映ゆい。それが偽らざるものとなれば尚更だ。
「ところでハワード殿。ひとつ尋ねたいのでござるが」
「ん、なんだ?」
「あの鉄棒、3本のうち2本はハリボテでござったな?」
 質問というよりも確認の語調に、ハワードはがりがりと頭を掻いた。
「バレてたか。アルマイアがはったり好きでな。大げさに見せておくに限るってよ。他には言うなよ? 非力だと思われたんじゃアかなわねェ」
 承知仕った、とエレメスは応答。そして苦笑混じりに「そもそもあれを一本でも折り曲げる時点で人間業ではござらんよ」などと付け加える。
「だが、どうして判った?」
 偽物とはいえ、あれは随分と精巧に作られたものだった。近くで見たハワードですら、見た目では本物と紛い物の区別をつけられなかった。それを遠目から、この男はどうやって見抜いたのだろう。
「ハワード殿はあれを曲げた後、投げ捨てたでござろう?」
「ああ」
「その時、鉄の音は一本分しなかったのでござるよ」
 アルマイアが歓声と銅鑼とで誤魔化した音を、あの距離から聞き取っていたというのか。
「それにカトリーヌ殿に手渡されたのは、二度ともアルマイア殿が選んだものでござったからな。それで怪しいと睨んだ次第」
「かなわねェな、お前さんにゃ」
 ごろんと大きくひっくり返った。治療にやって来たマーガレッタが、慌てて裾を押さえるのが見えた。目を閉じる。



「あー……っと。結局エレメスのスピード勝ちか?」
「我々にだって判らない事はある! むしろこの世は判らない事だらけ!」
「威張んじゃねぇ。ってか、それ以前に解説の台詞じゃねぇ」
「そんな時の為のゲストコメンテーターですよ。ロードナイトセイレンさん、どうぞー」
「む……これに向かって喋ればいいんだな?」
「はいはい」
「うわ、またオマエは無理矢理引っ張ってきやがって!?」
「いやヒマそうにセニアといちゃついてたから」
「それはヒマしてたとは言わねぇッ!」
「まあラウレルさんのキレ芸はいつもの事として。どういう具合の流れで、どういう決着だったんでしょうか」
「そうだな。あれは、言うなれば戦闘経験の差だ」
「ほうほう?」
「ハワードは自分の攻撃能力を信頼して常に一撃必殺を狙っていった。そしてエレメスはそう来るだろうと読み切っていたんだろう。だからあいつは明らかな好機にも関わらず、まず手足を傷つけていったんだ」
「決められるところで決めないって、逆にヤバイんじゃないんすか?」
「いや。ハワードの耐久力を考えれば、無理に仕留めに行く事こそが綱渡りだ。一度エレメスが蹴り飛ばされて、そこで流れが変わっただろう? もし肩ではなく、もっとどこか致命的な部位を狙っていたのだなら、あそこで決着はついていた。ハワードの一撃がクリーンヒットして、それで終わりだ」
「……なるほど」
「今、ちょっとびびりましたねラウレルさん」
「黙れ馬鹿」
「とにかく、エレメスはそういう手段で、10の力を9へ、8へと削って行ったんだ。人間の体というものは、とても精妙で過不足なくできているんだ。例えば手足がいきなりなくなれば、どうにも困るのは想像に難くないだろう? 指一本でも欠けば、常の動きはできなくなる。そして自分の身体能力を知悉している者ほど、落差はどうしようもなく大きい」
「何正座してんだよカヴァク」
「なんか講義を受ける新米騎士の気分になってきたから」
「そしてエレメスはどこに受けても少しずつ体の機能を削られていくような、そういう攻撃をしてくるんだ。対峙するうちに、やがて手も足も出なくなる。比喩抜きでね。ハワードはそれに気付くのが少しばかり遅かった。だから、最後の攻防においてで少し、ほんの少しだけ遅れた。エレメスにとってはその一瞬で充分だった。大体はそんなところだ」
「なんかエレメスさん性格悪っ」
「オマエの口の方が悪ぃよ」
「ついでに言うならエレメスは、最後まで削り切らずに勝負に行ったな。本来のあいつなら完全に雁字搦めに身動きを取れなくしてから、勝つべくして勝ちに行く。手傷の事もあったろうが、同時にお祭りでもあるからだろう。それから最後に。俺の言いだとハワードが完封されたように聞こえるかもしれないが、そうじゃない。あいつも色々な意味でとんでもなく規格外だった。次に当たる相手だから、これ以上の事は言えないが」
「なるほど、どうもありがとうございました」
「解説も恙無く終わったところで、じゃあどうぞ席の方へ、素早く迅速に席の方へお戻りください」
「なんだラウレル。随分セイレンさんに冷たいな? さては僕とふたりきりがいいと……痛っ」
「黙れ馬鹿。そして気付け馬鹿。さっきからセニアがすげぇ怖い目でこっち睨んでるんだよ。ぶっちゃけオレらはお兄ちゃん盗った極悪人なんだよ。早く返却しないと命が危ない」



「どうぞ」
 背中側からティーカップが差し出され、振り向くと極上の笑顔があった。
「おう姫さん。さっきは世話になったな」
「いいえ、言い出した人間の当然の責務ですわ」
 受け取って、ハワードはぐるりと逆の肩を回してみた。痛みも何もない。肩だけではなかった。ほんの数十秒で、先刻の試合で負った傷は悉く塞がっている。治癒法術には増血作用もあるとの事で、安静にする必要すらない。
 ここまでくると回復というよりは復元だとハワードは思う。
「それで……」
 ちょこりと隣に腰を下ろして、マーガレッタは珍しく言いよどんだ。
 促さずに待つ事にして、ハワードはカップを傾ける。紅茶だけではない華やかな香りがした。少しばかりブランデーを落としてあるのだろう。
「エレメスは、どうでした?」
 なんだ一体、とハワードは顔を顰めた。確かに敗者の面倒見はこのお姫様の担当だが、そいつに勝者の話をさせて鞭打つのまでもを含めて役目か。
「速いとは思ってたが、尋常じゃアなかったな。傍で見るのと相手をするのとじゃ大違いだ」
 思いながら、正直な感想を述べる。すると、
「そうですか」
 おや、と違和感を覚えた。自分で問うておきながら、ひどく素っ気無い。疑問に思って見やると、マーガレッタは相変わらず柔和な、優雅な笑顔を浮かべている。
 なんだかご満悦の様子だった。例えるなら、そう。町娘が気に入りの役者への高い評価を聞く時のような。いつもにこにこと上機嫌めいた微笑を絶やさない女性だが、今は心底ご機嫌そうだった。
 ああ、そういう事か。感づきはしたが、無論口には出さない。野暮天はペコペコに蹴り飛ばされる事になっている。
 素直じゃねェな、どっちも。
「っと、構わねェか?」
 殆ど無意識の動作で咥え煙草をしてから気がついた。礼儀として訊く。
「ええ」
 返答を得て、火を点ける。ゆったりと煙を吐き出したす。
 負けは癪だが、いいさ。少しばかり色をつけて、持ち上げて話しておいてやろう。
 だからよ、エレメス。
 胸の中で呟く。
 今度、奢れよ?



「どうですか? 手、大丈夫ですか?」
 少年の問いに、エレメスは幾度か握って開いてを繰り返した。支障ない。過不足なく動く。強く力を込めても、大きく開いても痛みはなかった。これならば後の戦闘行為にも問題はないだろう。
「うむ、もうすっかり完治でござるよ。イレンド殿のお陰にござるな」
「いえ、そんな」
 大仰な謝辞に、イレンドは恥じ入るような仕草をした。
 正しく紅顔の美少年という感じで、もう少ししたら――いや、今でも――世の女性は放っておくまい。
 だがエレメスは、この少年が少しばかり苦手だった。
 セイレンやセニアとは違うタイプの真っ直ぐさ。その純情さというよりも善良さに、ふと気後れを覚える。そして同時に、戦士としては高く評価していなかった。本来ならば美徳とされるべきその優しさ故に、冷酷さと覇気とを欠くとの印象がある。
「……でも、すごいですよね」
「ん? 何がでござるか?」
「今の試合ですよ。観てただけなのに、アルトアイゼンさんの攻めにはいつの間にか体を竦めてました。なのにガイルさんはあれと正面から対峙して、掻い潜って、しかも勝って」
 心からの賛辞に、エレメスは困ったような顔をした。
「ハワード殿は既知の相手にござるからな。それだけ思考も行動も読みやすかったというだけの事にござるよ。初見であったなら、ああはいかなかったでござる」
「……」
 言葉を切って気付けば、イレンドは張り詰めた表情をしていた。じっと真摯な瞳でエレメスを見ていた。
「ボクも、皆さんみたいに強くなれるでしょうか」
 我が目が曇っていたのだと、ようやくエレメスは悟る。
 この少年も男なのだと。その芯のところに、しっかりと強いものを潜めていたのだと。
「守りたいんです。皆を。でも……」
 言葉にならなかった想いは、しかし確かに伝わってきた。それは幾夜も幾夜も、人知れず噛み締めていたはずの思念だった。いざという時にとんでもない爆発力を発揮するのが、こういうタイプだと暗殺者は知っていた。
 自分の拳に落としていたその目が、再びエレメスを見た。
「強くなれますか。ボクも。ボクでも」
 縋るような問いだった。
 エレメスは少年の肩にそっと手を置く。
「無論。その意志があれば、必ず至るでござるよ」
 そして繰り返した。
「なれるさイレンド。お前なれば、きっと」
 神よ。俺はお前を信じない。だから、お前も俺を見放すがいい。
 だが。
 だが、この善良なる魂だけは裏切るな。決して。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送