* ぱーんっ! *



 何故自分がこのような目にあうのかを自らに問いかけても答えはない。これは仕方のないこと、自らが招いた不運なのだから。如何にも、彼にはもう、明日への一縷の希望もない。
 遡ること数分前、時折巻き起こる名状しがたきスレの伸び具合に一喜一憂の念を抱く彼、エレメスその人は、また久方ぶりの平穏を劈く警報の音色と共に我に返るや否や、そのおぞましき忘却の彼方という名の萌えの境地から猟犬もかくやといわんばかりの速度で部屋の外へ出でて、己の本能が示すがままに獲物の元へと駆け走る。
 おおよそそれは人間離れた獣のような動作、その四肢が駆ける所には足音一つすら零すことなく、それ故魔物の所業の如く闇から闇へと飛ぶ。ぎらり、血に餓えた両手の鋼。禍々しく幾何学的な曲線を描くそれは非現実的な武器なれど、この者にとってはいかな障害ともならず、むしろ易々と牙を剥く。
 そのおぞましき両手を掲げた爪を持つ獣は、ただ無頓着に伸びるに任せたが為に、黒々とした光沢を放つ髪を風に流し、痩せながらも見かけ以上の力を誇る体を進める。
 ああ! 獣が闇駆ける!
 美しくそして危険な獣は、まだ他のものがそこにたどり着くこと叶わぬがうちにその場へ降り立つ。
 その場所は、普段ならばかの怨敵、彼らの平穏を乱す外敵が足を踏み入れることがなき場所。されどて時は移ろうもの、つかの間の安住の地は無粋なる手により汚される。所詮は遠い過去か彼方の未来か、あるいは今この瞬間か、その程度の差でしかない。名状しがたき長き年月の間眠りにつく神という名の存在を考えてみれば、なんと矮小な概念ぞ!
 彼の一挙手一動作は素早く、また容赦もなければ慈悲もない。せめて一抹の痛みがないことを幸福だと思うのならば、もはやこの世に救いなどない。右の手の先にある牙は瞬く間に霞みと消え、同時にあたりには肉塊と血煙が飛ぶ。この所業はすべて腕の一振りで行われたもの。鋼絶つ牙は何人たりと止められず、それに左が加われば、まさに修羅の権化、獣の王ぞ。
 悲鳴なく、反撃なく、そもそも自身が襲われた事にすら気づかぬままにその哀れな犠牲者たちは自らの体から噴出した血の海に沈む。見敵必殺の名の下、見下ろす瞳のなんと冷たきことか。
「何が目的で――あるいは目的もなくかもしれないが――この場に降り立った自分の運命を呪うのだな。そうと望みさえすればこのような地に訪れることなどなかったろうに……異邦に屍を晒すとは、哀れなるかな愚か者め」
 両手にぶら下げた鉄の牙、その先端から滴り落ちる犠牲者の血を滴らせながらも、無常に告げる言葉は目線以上に凍えている。びゅん、一振り、びゅん、二振り。血の気を払うために大振りした両手は、彼がこの場に来て初めて立てた物音か。
 やがていかなる原理か、彼がその手にかけた死者たちは死出の呻き声にも似た音を立てて崩れ去る。カプラ社空間逆転層装置――神を冒涜する、狂える科学の申し子たる技術のその末がためか。だがこれが動いたとなれば、もはやこの場に怨敵はないという確実な証拠となりえる。
 そうして、また一つの"作業"を終えた彼は、一息ついた後に、ようやく自分が立つそこが何処なのかを悟った。
 生体研究所地下三階、生活指定区域。そこの床に転がるそれらは冒険者の置き土産か、この世の技術の粋を結しても作り出すことは適わぬ異界の技術に培われた摩訶不思議な黒いものが落ちている。
 だがしかし、新たにその手で作り出すことは適わねど、その用途と名だけは彼の脳裏にも刻み付けられている。それは彼がこの世に二度目の生を受けた時、彼を手がけたものが記録用として使っていたが為に色濃く覚えているものだ。
 彼の発声器官では正しく発音できないそれは、詳しく知るものがいれば、びでぃお=かめいら、あるいは、びでーおかみら、などと呼ぶものだ。
 それは、表面上は不気味な光沢を持ちながらも奥底では濁った真の瞳を隠した直線状のフォルムの道具。その瞳を向けられたものは、その中にある取り出すことも差し入れることも叶う四角いものにすべての記録を残されてしまう。如何なる痴態も、あやゆる絢爛な姿も、どのような悲哀をも、その狂気の瞳は逃さず分け隔てなく取り込む。おおよそ非人道的な猛威を振るうそれは、人が隠したい事を好んで取り込む悪魔の所業だ。イア! びでぃお=かめいら! 鈍き眼で時間を取り込む、見定めの黒き魔王よ!
 その黒きびでぃお=かめいらを、彼は恐る恐るとその手に取る。ああ、人の子はその恐ろしさを知りながらも、なぜこうも容易く悪魔の誘惑に誘われるのか! おそるおそると震える指先が、迫り出した丸くつややかな突起物を強く押し付けた!
 かちり、この世のものとは思えぬ音が鳴る。と同時に横に広がる黒き肌が突如として輝きだし、その身に宿した記録を映像として彼の前に姿を現す!
 衣擦れの音、キャッキャウフフと脳を揺らす別種の生き物かの如き女人の黄色き声。かの外敵たちが命をとして記録に残したのがこれである。
 盗撮 in お風呂場。
 男なら、誰もが一度は夢を見ながら挫折してしまうそれを、この摩訶不思議な妖物はいとも簡単に記録として留めている。それを見た男は、まるで狂気にでも陥ったかのように理性的な思考を失い、呆然と滝の如く赤き血流をその鼻から垂れ流す。
 びでぃお=かめいらは人を唾棄すべき地へと送り込む。魔術師タシーロ=マサッシもかくあらん、人はその盗撮という名の魔力に取り込まれれば抜け出すこと叶わぬ。黒い衝動は、彼のその身にも現れた。
 よく見れば、床には他にも数多の代物が散らばり落ちている。彼は一つ一つ拾い上げて、その都度それを汚れた情欲にまみれた瞳で見つめ眺めた。
 白と青の線が均等に並ぶ、通学途中遅刻という名の危機の時に不運と激突したときに見えてしまう類の三角の布切れ。床に残る血の跡よりも紅く燃える、Tの字が目に焼きついて離れることのない悩殺という名の布切れ。黒を基準とした三角の布切れを包み込むかのように、不気味にも心が取り込まれそうなほどに美しき意匠が施されたもの。白を基準とした単純な三角の布切れなれど、すべやかな肌触りに思わず顔に着用してしまうもの。細く編みこまれた橙色の紐二つをつなぐ、男を惑わす同色の小さき布だけが恥部を隠すもの。
 一つ一つ手に取った彼はやがて一つうなずき得心がいった。
 これは彼の家族のものだ。家族のものだからここにおいておいてはいけない。よしここは自分が責任をもって預かろう。
 彼は自らの懐に、その下着一つ一つを大切にしまい込みつつにやり一笑。
 だが、振り向いた彼はそこに地獄を見た。
 己の身にまとう下穿きを、事もあろうに変態暗殺王に見られてしまったが為、頭から蜃気楼の如き湯煙をゆらゆらふかす鬼女たちの群れを。
 気がつけば周りに退路はなく、彼女たちは子を奪われた鬼子母神の如き憤怒の瞳で彼を見つめる。
 もはや言い訳もない。そもそも、彼はその顔に下着を着用したままの姿なのだから。手にしたびでぃお=かめいらは無常にも、風呂場の光景を映し出し続ける。
 逃げねば、逃げ出さねば!
 短く唱えたまじないの言葉にて姿を消し去ろうとしても、もはや手遅れ。彼の目の前には、差し迫る矢がしかりと見て取れた。それは思考よりは遅くとも、瞬きよりは早く彼の頭を刺し貫くことだろう。

 その瞬間、彼は最後の合間、ただ一つ限りの疑問を覚えた。
 はたして――拙者が手にした下着は五枚。されど目の前には六人。はてはて計算があわないでござるな。
 その答えを得ないまま、彼はその醜悪な人生を終えた。

 −完−

   ≡≡》》》――( ゚д゚ )─>> ・∵. ぱーんつ!by CrItlh

注 某世界的恐怖神話とか関係ありません。安心してお読みください。
また本作では非常に冒涜的な神の名前の如きビデオカメラさまが出てきますが、市販されておりません。
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