戦場には、3階の北東の広間が選ばれていた。
 適度に広く、また段差があって試合場としての区切りを知らしめやすい。そして場を一望できる高所もあって、こうしたお祭りには適している。それが選択の理由だった。
 誂えられたその会場の周囲にはぐるりと、いくつもの照明がセッティングされていた。これらの設置もスピーカーの類と同じく、ハワードやリムーバたちが突貫作業で執り行ったものだった。
 普段は薄暗い研究所内が煌々と照らし出されて、セシルはふと違う世界に迷い込んだかのような違和感を覚える。 
 彼女は会場の北側、今回は自分の控え室になっている小部屋から、会場の様子をこそこそと窺っていた。勝ち気な気性の裏に、彼女は初めてに馴染めない、おどおどとした小動物めいた一面を持っていた。
 だからどうにも、この空気は落ち着かない。雰囲気が変わると、自分の居場所がなくなってしまったような。そんな気持ちになるのだ。
 普段はここまで降りてこないリムーバの姿が、屋台以外でもそこかしこで見られるのも、違和感の原因だった。というよりも、一段高い段差の上に設けられた観客席を埋め尽くすのは殆どが彼らだ。
 ぱっと見区別のつかないリムーバたちだが、実はきちんと個性があるらしい。中にはセシル達に憧憬や尊敬を抱いている者もいるのだと、セシルはアルマイアから聞いた記憶がある。
 例えばリムーバは剣士の技であるバッシュを修めていたりもするのだが、これもそうしたひとりにセニアが教授したものが広まったのだとか、なんとか。どうしてアルマイアがそんな情報を握っているのか、セシルは迂闊にも考えなかったのだけれど。
 ぼけっとそんな事を回想していると、ひとりのリムーバの動きが目に止まった。隣の同僚を肘で突いてはこちらを示し、遠くて声までは聞こえないが、「おいあれセシルさんじゃね?」と言った仕草だ。
 そこまで察して、セシルはさっと頭を引っ込めた。何よあたしは見せ物じゃないわよと頬を膨らませる。彼女の中で人気者と見せ物の違いは区別されていない。
 やっぱり、気持ちがささくれている。集中できていない。
 控え室の卓上に乗せた弓に、そっと手を伸ばした。弦を撫でてその張りを確かめる。同じく卓上の矢筒には、アローヘッドの重みまで検分した矢がしっかりと収まっている。
 愛用の道具に触れて落ち着きを取り戻そうとしながら、セシルは頭の中で取り決めを反芻する。
 明確に戦場が定義されている以上、無論場外も存在する。だが相手を場外に押し出しての勝敗というものは規定されていなかった。自らの意志でなく試合場の外へ押し出されたとしても、戦う意志がある限り敗北とはならない。
 しかし自分の意志での移動や、明らかな遅延行為とジャッジが見做した場合にはその場で負けが適応される事となっていた。つまり自在に距離を取るという事ができない。
 アンブッシュや長距離射撃を得手とする者もいるが、これは「あくまで試合なのだから」という観点からの配慮だった。
 また戦場が限定された空間である他に、罠の事前設置も禁じられている。その二点の不利の補填として、セシルと他の参加者の勝負においては、通常よりもかなり広く距離を取った状態から試合は開始される。そういう取り決めにもなっていた。
 それはともかく、試合区域を制限する事には別の意味も備えていた。つまりは観客の保護だ。
 見物人のいる場所まで逃げた相手を追って、マグナムブレイクが、アローシャワーが、ハンマーフォールが、グリムトゥースが放たれたどうなるか。観戦どころではない、阿鼻叫喚の大騒ぎが目に見えていた。そういった余波が及ばぬように、との気遣いが一等であるのだ。
 その他にも、隠身術の一定時間以上の使用規制やカートや回復剤の不使用といった諸々も定義されていたが、これらの規定は全て「魅せる試合をする」の一義に集約されていた。主催のマーガレッタの言を借りるならば、「あくまでお祭りである事を頭に入れて、その上で全力を尽くしてくださいな」という事になる。
 試合の順序も組み合わせも全部彼女が決定していた。くじ引きで決めた、とは言っていたが、おそらくはこれも、あれこれと配慮を含んだ恣意で決定したのだろう。なんだかんだで頭のいい彼女の事だ。きっと順序に有利不利は存在しないはずで、ならそれに不満を抱くのはお門違いなのだろうけれど。だろう、けれど――。
 いつもとは違う雰囲気と併せてで弱気になりかけた自分の頬を、セシルはぱんぱんと叩いた。
「……」
 思いの他痛いかった。緊張の所為か、力が入り過ぎていた。
「き、緊張なんてしてないってばっ」
 誰にともなく見栄を張ったところに、呆れたような声がした。
「何やってるのさ、姉さん」
「カ、カヴァク!? いつから見てたのよっ?」
 姉の問いにカヴァクは、んー、と首を傾げた。思い出す為の、というよりも、セシルを焦らす為の間だ。
「姉さんが自分のほっぺ叩いて、それで涙ぐむとこから?」
「つまり死にに来たって事でいいわね?」
「よくない」
 冗談口に本気で矢を撃ち込みかねない姉の短気さは、カヴァクも重々承知の上だ。言下に否定して、即座に別の話題に移る。
「いきなりセイレンさんとだなんて、ついてないね」
 む、と鼻白みかけたものの、セシルは話に乗ってきた。こうなれば安心だ。彼女の怒りは持続しない。
「総当たりだもの。どうせいつかはぶつかるんだし、なら早い内に叩きのめしといた方が気分がいいでしょ」
 どうせ今の今まで不安がっていたクセに、と、カヴァクは胸の中でこっそり微笑む。セシルの初戦の相手はあのロードナイト、『あの』セイレン=ウィンザーだ。気が張るのも無理はない。
 しかし姉のこうした稚気を、カヴァクは決して嫌ってはいなかった。その肩の力を抜いてやるのは自分の役目であるとも思っている。
「姉さん」
「何よ」
「本気でやるの?」
「当たり前でしょ! 何、あんたもあたしが怪我するとでも思ってるの? 負けて当然だとか、どうせセイレンには勝てないとか、女のクセに無理するなとか思ってるわけ? ふざけないでよね。優勝くらい軽くしてみせるわよ!」
「いや、何も言ってないんだけど」
「大方そんな事を考えてたんでしょ!」
「冗談。僕は姉さんの激励に来たんだよ」
「……。め、めずらしいじゃない」
 カヴァクの台詞に、セシルは照れたように額を掻いた。
「いや本当に」
 言ったカヴァクも深々と頷く。
「自分で言ったら台無しでしょ!?」
「でも、無理だけはしないでよ?」
「判ってるわよ」
 セシルの怒気をさらりと流して、カヴァクは時計を見た。そろそろ席に戻っておかないと、こういう事には几帳面なラウレルが、またがなり出すに違いない。
「姉さん」
 呼びかけて、カヴァクは両の手に握っていたものを真上に投げ上げた。それはいくつもの小さなガラス細工だった。ガラスの工芸品といえばプロンテラのガラス玉が高名だが、今投じられたものは形状が異なった。球というよりも押し潰した扁平な円筒の形をしていた。
 照明を受けてきらきらと一瞬にして様々の彩りをきらめかせ、そして自由落下するそのガラス細工達を、カヴァクはそのまま受けて握り込む。手の中で、かちかちとガラス同士がぶつかり合う音がした。
「何色が、いくつ?」
 カヴァクの問いに、間髪いれず答えが返った。
「青が4、緑が7、赤が6、黄が2」
 手の中を確認する。そして姉に、にっこりと笑ってみせた。
「正解。冷静だね」
「任しときなさいよっ」



 セイレン=ウィンザーは動揺していた。かつてなく動揺していた。その周章狼狽ぶりは正に見物で、この直後の試合で敗れた理由がそれであったと述懐されても、誰も驚きはしなかっただろう。それほどの取り乱しようだった。
 そもそも彼は冷静な性質である。無感情であったり、冷たかったりするわけではないが、大抵の事柄には動じない。動じるよりもそれに応じてどうすべきかの最善手を思考するのが、彼という男だった。
 しかし、今。
 ラウレルのコールに応えて南側の小部屋から出てきた彼が見たもの、それは。
 平静を乱したロードナイトの視線の先、そこに居るのは。
「セ、セニア!?」
 兄の声に彼女はちらりと振り向き、そして耳まで赤くなった。それ以前から大分顔を紅潮させてはいたのだけれど。
『一回戦第一試合 セシルvsセイレン』。そう大書きされたカードを上に掲げて、戦場と定められた広間をぐるりと一周するセニアの姿は、常の剣士装束ではなく。
 さらりと流れる長い青い髪。そのてっぺんを飾るのは、ふわふわとしたウサギのヘアバンドだった。
 普段ロングスカートにすっぽりと隠れている足はふとももまで、長袖に覆われている腕は肩までがすっかり露出していた。有体に言えば彼女が着用しているのは、ワンピースタイプの水着だった。勿論普通の水着には、おしりの部分にちょこんと可愛らしくウサギの尻尾がついてたりはしない。
 つまりは、そういう類のそういう場所で、男性の劣情を煽る為に用いられる衣装だった。
 肌を露出する事のないセニアに、それは下着姿で表を歩くような恥辱に感じられるのだろう。目元にはうっすら涙を浮かべ、しかしそれでも毅然と胸を張って歩く。その恥じらいめいた様が余計に扇情的な風情を水増しているのだが、セニアはそこまで気付けない。
 胸の中で何度も仕方ないと繰り返す。そう、仕方ないのだ。これは純然たる取り引き。交わされた契約なのだから。

「お願いします。兄さんの試合をもっと近くで見る許可をください」
 そうマーガレッタに嘆願しに行ったのは紛れもない自分である。あまり近寄るのは危険だからと渋る彼女に、そこをなんとかと強訴したのも。再三の問答の末、
「仕方ありませんわね。いつもセイレンの教授を受けているセニアちゃんなら、確かに大丈夫かもしれません。いいですわ、許可しましょう」
 諦めたようにマーガレッタは嘆息して、ついに折れてくれた。
「本当ですか!」
「本当ですとも」
 手を打って喜ぶセニアに、しかし彼女は慈母めいた笑顔で付け加えたのだ。
「ただ、特例をひとりだけ認めるわけにはいきません。ですから大義名分代わりに、ちょっと仕事をしていただけません?」
 そう言われてしまえば、彼女の頼みをセニアが断れるはずもなく。まったく、それは悪魔めいた取り引きだった。

「な、何をしているんだ一体……っ」
 駆け寄ろうとしたセイレンの足は、顔どころか首筋までを紅潮させ、目じりにはうっすらと涙を溜め、それでもふるふると首を振る妹に止められた。ウサギの耳がふわふわと揺れた。
「いいんです。気にしないでください、兄さん」
 声には、悲愴なまでの決意が込められていた。どんな衣装を身に纏おうと、彼女は変わる事無く剣士だった。
「一旦引き受けた以上、これは私の仕事です。最後までやり抜くのが誇りです」
 これが己が泥を被るような奉職の決意であるならば、セイレンは止めはしなかったろう。だがどう見てもこの現状は、誇り何もあったものではない、純然たるマーガレッタの趣味だった。
「いや、しかし」
「過保護のお兄さんは、いーかげん食い下がるのやめなさいよ」
 次にセイレンを妨げたのは、呆れたようなセシルの声だった。いや、実際呆れていた。
「いーでしょ、セニアが決めてセニアがやるって言ってるんだから、やらせてあげれば。何も嫁に行くわけじゃないんだから」
 ねぇ、とセニアに同意を求める。兄を裏切るようなちくりとした罪悪感を覚えつつ、はいと同意するセニア。
「ほらそういうわけだから。過保護ウィンザーは早く試合の準備しなさいよ」
「誰が過保護だッ」
「いやな、セイレン。お前以外に一体誰が居るよ?」
 仕方ない、と言った風情で見物席から降りてきたハワードが、諦めろとセイレンの肩に手を置いた。まだ喚くならばセイレンを一旦控え室に引き戻して、その間に事を進行させようという風情だった。
「セイレン」
 極めつけはカトリーヌだった。おそらくは無意識に、彼女は左の二の腕に触れていた。
「……試合、始められない」
 皆に窘められたセイレンは可哀そうなほどがっくりとうな垂れて、やがて諦めたように自分のマントを外した。妹に手渡す。
「せめて羽織っているといい」
「あ……はい」
 カトリーヌが少しだけ不服そうに口を尖らせる。セニアは受け取ったそれを実に嬉しげに胸に抱き締め、そして肩がけして前を閉じた。同時にあちこちから、なんとも残念そうなため息が多数漏れた。



「すまない。待たせた」
 ようやく定められた開始位置に立ったセイレンを見て、セシルは目を細めた。かっと頭に血が昇るのを感じていた。
「――へぇ、そう」
 小声で呟く。腸が煮えくり返るとはこの事だ。
 対峙する彼が携えるのは、ただ一剣のみだった。
 セイレン=ウィンザーが剣と等しく槍もまた自在に繰るのは周知だった。槍技を用いれば、遠距離戦を戦う事もできるのだ。だというのに彼が身に帯びるのは一振りの剣、ただそれだけ。意味するところは明白だとセシルは思った。

 ――上等じゃない。お偉い騎士様は相手を女と見て手加減してくださるんだ?

 唇を舐める。絶対、後悔させてやるから。一矢を引き抜き、番える。
 対してセイレンは、やはり冷静だった。既に思考は切り替わっている。弓使いと戦った経験がないわけではない。遠距離での不利は重々承知していた。ならばまず、この間合いを殺す事だ。逆に言えば、この間合いを生かし切られれば己の敗北は必至となる。
 愛剣を抜き、そして鞘を投げ捨てた。
 思う。古くアマツに居たという剣豪ならば、敗れたりと叫ぶところか。
 口の端だけで微かに笑う。だが、これすらも余計すぎる重みだ。



「さあ、始まろうとしています第一回戦、うちの姉ちゃん対セイレン=ウィンザー」
「……ものすげぇ緊迫感が漂ってたのが、今の台詞で途端に台無しになったろうが。空気読め」
「さてこの勝負、どう見ますかラウレルさん」
「話聞けよ。とまれ、6対4でセイレン有利だな」
「呼び捨てとは強気ですね。してその心は?」
「ナレーションが敬称つけてもうぜぇだけだろ。とにかく、あの距離は間違いなくセシル有利だ。でも、セイレンを仕留め切るには短すぎる。いくらオマエの姉貴でも、な。そんで、懐に入っちまえばセイレンの独壇場だろ。いくらセシルでも、あのセイレンとショートレンジでやり合えるとは到底思えねぇ。ってかよ、正直オレのレベルであのひとたちの勝負にどうこう言うのがおこがましいんだけどな」
「そうですね、断言なんてしたらいい笑いものですね」
「意見聞いといてそれかテメェ。……そういや罠だけどよ」
「ん? それがどうかした?」
「一瞬事前設置不可ってセシルの不利かと思ったが、実はそうでもないんじゃねぇ?」
「あー、確かに。本来は仕掛けて追い込むか、おびき寄せるかするのが使い方だけど」
「あのひと、適当にばら撒いて引っかかったらラッキー、ってタイプだからな」


           *                *              *


 のんびりとした解説と考察を他所に、カトリーヌの手がすっと上がった。その目が、セイレンを、そしてセシルを見る。それぞれが頷いた。
「――始め」
 振り下ろされる。
 先手は、当然ながらセシルだった。カトリーヌの合図と同時に、猛然と射撃を開始する。まさに矢継ぎ早と評するのが相応しい手並みだった。
 本来、弓の速射性と威力とは反比例の関係にある。強い弓はその一矢の威こそ高いが、引き絞るのに相当な力が入り用になり、当然ながら連射には向かなくなる。射撃速度を重視した連弩などの例外を除いた、機械式の巻き上げ機構を持つ弓をイメージすれば、この理解は容易だろう。
 逆に弱い弓を用いるならば、確かに連射は可能になる。だが反面飛距離は落ち、威力は低下する。一矢でひとを打ち倒すなど夢のまた夢だ。
 だが、セシルの弓術はふたつを両立させていた。息もつかせぬ速射をしながら、尚且つ殺傷力を落とさない。それは当然彼女の力量に由来するものだった。
 まず基礎となる一連の射法の完璧さがある。余分な力を含まぬドローイングの速度、瞬き以下の時間で行われるエイミングの正確さ、リリースの安定性。彼女の所作は、弓を扱う者が見ればため息を漏らさずにはおれない美しさを備えていた。
 弾道の計算。風の読み。微細な姿勢変更。押し手と引き手のバランス。
 彼女はこれら全てを無意識下で、しかも正確に処理している。それは例えるならば、歩行行為に類似していた。
 ただ歩く際、自分の動きを一々意識する人間はいない。
 次にどちらの足を出すか。どの程度膝を曲げるのか。どう重心を移動させるのか。どんな歩幅で。どんなテンポで。
 これらは全て無意識に処理され、そして過たずに行われるものだ。狙った箇所に矢を必中させるというのは、つまりセシルにとってそれと同レベルの行為だった。
 この技術の高さに加えて、彼女の眼だ。
 弓に携わる者の視覚は概して鋭い。だがセシルの動体視力はその弓手たちの中でも頭一つ飛び抜けている。研ぎ澄まされたその知覚は獲物の動きを完全に見切り、その狙いは急所をポイントしたまま逸れる事がない。
 一矢一矢が必殺でありながら、更に相手の動きを封じ、次の矢へと繋ぐ伏線となっている。まるで退路の悉くを断っていく、緻密な罠めいてすらいた。
 修練と素質。高い両者の質こそが織り上げるそれは、狙撃手の名を冠するに相応しい、神業と呼称してなんら差し障りのない絶人の至芸だった。
 ならば。
 ならばそのセシルの矢を凌いで走るセイレンの技量は、一体何と評すべきであるのか。
 雨霰と降り注ぐセシルの矢を、或いは体をかわし、或いは切り払い、彼は風の如く駆ける。その様は騎乗せぬながらも、戦場の一騎駆けを思わせた。
 驚嘆すべきはその足腰。駆けつつ刃を縦横に振るって飛び来る矢を切り落とし、尚且つその運身の乱れる事がない。しかもその突撃は、厚い鎧に身を包んでいるとは思えない速度を有していた。
 無論その全てを無傷で掻い潜れているわけではない。当たってはいる。しかし、クリーンヒットではなかった。セイレンは鎧の曲線を利して、矢の威力が上手く逸れる様に身に受けている。無理に全てを回避しようとするのではなく、明らかに手傷とならないものを選んで自ら当たりにいっているのだ。
 矢の最大の武器はその射程と飛来速度だ。だが、射手の手元から狙いを読めば、決して対応できないものではない。そう知り、そして実践しながらも、それでもセイレンは身一つの素裸で戦場に放り出されたような不安に煽られていた。
 セシルの矢は速い。速いだけでなく、強い。女性の華奢な体をしていても、それは野山を駆ける獣めいて、しなやかに必要な分だけ鍛え抜かれた肉体だった。そこに技術が乗る。ならば当然、いつまでも避け続けられる道理はない。
 だからこそセイレンは鞘を捨てた。一刀のみを武器に選んだ。少しでも駆ける速度を増す為に。回避しきれなくなる前に、セシルの懐に辿り着く。そう意を決している。
「こ、の……ッ!」
 セシルの撃ち方が変わった。浅く引いて速く。深く引いて強く。緩急をつけて矢嵐の中にも変化を生み、セイレンの防御を打ち破らんとする。
 これは功を奏した。捌き損ねて肩口に矢が突き立つ。さしものセイレンも一瞬乱れ、セシルは意識の片隅でセニアの悲鳴を聞く。
 しかし、遅かった。もう距離がない。図らずもラウレルの予見した通りだった。如何にセシル=ディモンといえど、セイレン=ウィンザーを倒し切るには距離が足りない。
 セイレンが踏み込みを深くする。ぐっと速度が増した。一足一刀の間合いに入ろうとしていた。
 凡百の弓手ならば、彼の猛進に恐れを為したろう。為して、距離を取る。そうする事が自分の有利だと信じて、逃げる。それが狩る者と狩られる者との構図を入れ替え、進撃を更に加速させる行為であると気付かずに。逃げて撃てば当然乱れる。乱れた矢は避けるに易く、さらに追い詰められていく結果を生む。
 だが、セシルは違った。セイレンの突進を目にしても、怯まず逃げる事はしなかった。生来の負けん気もある。しかしそれ以上に非凡な戦士としての本能が、その愚を察していたのだ。
 その本能が、交錯の一瞬にも発揮された。
「――ッ!」
 一閃。声にならない呼気と共に、加速を乗せた横薙ぎの一刀が振るわれる。
 剣だけをかわすのでは駄目だった。左右、或いは後方。どちらに刃を逃れたところで、逃げた先にセイレンの体当たりが来るであろう事は目に見えていた。鎧を纏い加速した男と体を捻って不十分な体勢の女。その衝突の結果がどうなるかは火を見るよりも明らかだ。そして押し倒されてインファイトを強いられれば、セシルの勝利など儚い希望以下に成り果てる。
 前にしか活路はない。判断は一瞬。そして決断も一瞬だった。
 その刃の下を潜り抜けるように、セシルは前方へ身を投げ出していた。宙に残った後ろ髪を刃が切り払った。ぎりぎりだった。肩口から石畳に飛び込んで、前転と横転の合いの子めいた一回転。弓と矢筒は地に触れさせず、しなやかな猫科の獣を思わせる動きで彼女は膝立ちに体勢を立て直す。
 後は行き過ぎたセイレンの背に、正しく一矢報いてやればいい。あの剣と鎧。それだけで相当な重量のはずで、走り込んでの一撃を回避されたからといって、即座に慣性を殺して立ち止まれるはずもない。
 ――そのはず、だった。
 しかし、現実は異なった。セシルの眼前には、既に反転を終えたセイレンが居た。彼の身体能力を甘く見た、セシルの判断ミス。セイレンは手首を返し、一度は行き過ぎた剣に逆薙ぎの軌跡を描かせる。
 今度こそ、セシルは後方に逃げた。逃げざるを得なかった。さもなければ、その一太刀で勝敗は決していた。
 だが止まらない。元よりその一刀で仕留められるとは思っていなかったのか。それとも武人としての本能であるのか。澱みなくセイレンは追撃に移行する。
 間に合わない。次は避けきれない。
 セシルの眼が、彼我の速度を一刹那に計算して結果を弾き出す。またしても瞬間の判断で、矢筒に残った矢をまとめて掴んで投げた。
「む!?」
 眼前に飛来した矢束を柄から離した逆手で払いのけ、セイレンは思わず声を上げる。
 あまりに苦し紛れの行動だった。確かに一瞬の時間稼ぎにはなる。なりはするが、しかし後に繋がる行為ではない。如何にセシルが優れた弓使いといえども、射るものがなければ丸越しに等しい。
 そして、彼は逡巡した。ここで手を止めるべきか否かの思考が脳裏を過った。
 対してセシルは当然の如く動き続けた。番えるべき矢はないのに弓を引き絞り、一瞬ながらも確かに動きの止まったロードナイトを照準する。勘が危険を訴え、セイレンは全力で射線から逃れようと横に飛んだ。
 甘い。
 セシルが笑う。彼女の眼は、獲物の動きを見切るのだ。完璧に。
「もらったっ!」
 ファンタズミックアロー。それは観念の矢を撃ち放つ、狩猟者の魔術。
 びぃんと弦が空鳴りし、魔弾が放たれた。中空という逃げ場のない場所に身を置いた標的を盛大に跳ね飛ばす。
 横倒しに転がり、鎧に激しい音を立てさせながら、それでも受け身を取って体勢を立て直すセイレン。けれどその間にセシルは、石畳に散らばった矢のひとつを爪先に引っ掛けて跳ね上げていた。その一矢を掴み、ひたりと彼に狙いを定める。一瞬でぴたりと決まって微動だにしない、完全なる狙撃の形。
 膝立ちのセイレンには、もうどんな術もなかった。嘆息して、彼は剣から手を離す。大人しく両手を上げた。
 ふふん、と満足げにセシルは笑う。あたしを舐めるからそうなるのよ。
「勝者、セシル=ディモン」
 カトリーヌの声に、観客が詰めていた息を漏らした。時間にすれば短い。だが彼らの前に展開していたのは、恐ろしいまでに濃密な数十秒だった。


            *             *              *


「ま、セイレンの甘さが出た、ってとこだな」
「ほうほう、どういう理屈ですかラウレルさん」
「ってかオマエ、オレに全部話させて楽しようとしてねぇ?」
「滅相もないアルよ」
「……。ふっ飛ばされる一瞬前。矢を払った時点で、あのひと続けるかどうか迷ったろ。そこで動きが止まった。セシルは撃つものがなくなったくらいで負けたつもりは毛頭ないから、自分の有利を取り返す為に戦いを続けた。その差が出た。そういう事だろ」
「付け加えるならば」
「うおっ!?」
「エ、エレメスさん!?」
「セイレンの失策はふたつ。セシル殿が気分屋であるのを失念していた事。それはムラを生むものでもござるが、正の方向へ爆発すれば実力以上の力量を発揮しうる推進力にもないうるという事でもござるよ。槍を持たない意味を、きっとセシル殿は誤解したでござろうからな」
「は、はあ」
「ああ、そういえばセイレンさん、槍持ってなかったね」
「もうひとつ。セイレンは引くべき一線の位置を間違えた。どこまでやるかを、そしてセシルの覚悟を見誤ったのだ。一戦目、しかもこんなお祭り騒ぎとあっては無理のない事かもしれん。だが、それでも。――負けは負けだ」
「……エレメスさん、一緒に解説やりましょうよ」
「いやいや、遠慮しておくでござるよ。何分拙者口下手故」
「嘘つけッ!?」



「やーん、セシルちゃんつっよーい」
 試合を終えて戻ったセシルに、がばっと抱きついてきたのはマーガレッタだった。
「ちょ、ちょっと、抱きつかないでってば!? 大体マーガレッタはセイレンの担当じゃないの?」
 勝者にはイレンドが、敗者にはマーガレッタがつく事になっていた。その保有魔力量を考慮すれば、深手であろう敗者を彼女が担当するのは当然の措置なのだが、それがどうして勝った側のこちらにいるのか。
「だってセシルちゃんにお祝いを言わないなんて、私の矜持に反しますもの」
「反していいから離れなさいよっ」
 ぐいぐいとセシルに突き放されながら、それに、と彼女は付け加えた。
「セイレンも大した怪我はしていませんでしたわ」
 対戦相手の名前が出たところで、むっとセシルの柳眉が寄る。
「あら? 優勝の大本命を降したというのに、随分不満そうですわね?」
「そりゃ不満も出るわよ。だって大体セイレンの奴、手を抜いてきたじゃない!」
 問われてセシルは不機嫌を隠そうともしなくなった。どかっと椅子を蹴り飛ばす。
「手抜き?」
「そうよ。槍、使わなかったじゃない。あいつスピアブーメランも使えるくせに。ホント、腹が立つったら!」
 あの身ごなし、あの速度、あの剣撃。何れも一級品の上に超がつく代物で、あれに加えて投槍を用いられていたら、自分に勝ち目はなかったかもしれない。負けたいと思うわけではない。でも、手加減されるのだけは我慢がならなかった。
 マーガレッタは唇に人さし指を当て、思案めいた顔をした。そして、
「それは違うと思いますわ」
「え?」
「ですから、手抜きではない、というお話です。槍はそれなりに重たい、と言えばいいかしら」
「え? 何? どういう意味?」
「後はセシルちゃんが自分で考えるべきですわね。それじゃ、私はセイレンの治療にでも行ってきますから」
 にでも、などと公言してしまう辺りが実にマーガレッタらしい。
 盛大にクエスチョンマークを浮かべるセシルへにこやかに手を振り、ハイプリーストは軽い足取りで角に消えた。



 ラウレルとカヴァクの実況に割り込んだエレメスの言葉を聞いて、セイレンは苦く笑った。耳が痛い。あれはあいつの叱責だ。しっかりしろと喝を入れられたのだ。どうにも言い逃れしようのない不覚だった。
 あの一瞬。確かに自分は戸惑った。セシルに一刀を浴びせるかどうかを躊躇した。あれが殺し合いの最中であったなら、おそらく自分は思考の必要すらなく振り切っていただろう。試合とはいえれっきとした戦い。日常と戦場とを乖離させなかった自分に落ち度がある。
「兄さん」
 自省していたところに声をかけられ、セイレンは顔を上げた。
「セニアか。どうした?」
 彼のマントに包まった彼女の頭には、まだウサギのヘアバンドが揺れている。微笑ましくも思ったが、同時にこの妹にもあの敗戦を見られていたのだと思い出し、セイレンは立つ瀬のないような心持ちになった。
「どうしたと訊きたいのは私の方です。今の試合、どうして槍を使わなかったんですか。仮に手加減をしたというのならセシルさんに失礼です!」
 兄の常と変わらぬ態度にかっとなって、セニアはそう捲し立てた。彼女は激昂していた。
 もし彼が、女だからと、そういう理由でセシルに手加減したのだとしたら。女性というものを、一段低く見ているのだとしたら。
 もしそうであるのだとしたら、剣の稽古に付き合いこそしてくれはしても、自分もそういう目で見られていたという事になる。自分にとってはとても大切だったその時間は、兄にとっては女の道楽に適当に付き合っていたただの暇つぶし程度のものだったという事になる。
 確かに男女は筋肉からして質が違う。単純膂力においては及ばないだろう。でも、だからといって。
 いつかは兄と肩を並べたい。そう思っていただけに、セニアは目の前が真っ暗になる思いだった。彼女の憤りは、つまりそこに起因している。
 応えたのは、静かな声だった。
「手加減なんて出来る相手だと思うか?」
 妹の剣幕に驚いたセイレンだったが、憤慨の理由を悟って、今はやわらかく微笑んでいた。
「え?」
「セシルの力量はよく知っている。だからこそ、俺は剣だけ挑んだんだ。槍を使えば、確かに遠距離で撃ちあう事もできたろう。だがそれはあくまで撃ちあう程度で、そこに俺の勝機はない。知っての通り、セシルはアウトレンジにおいては並ぶ者無しの弓の名手なんだ」
 一呼吸分目を閉じて、あの矢嵐を思い浮かべる。回想の相対ですら背筋が冷えた。
「ならば少しでも身にかかる重みを減らして速力を増し、懐に潜り込むべきだと、そう考えた。彼女とは逆に、俺は接近戦のエキスパートなんだから」
「あ……!」
 諭すようなセイレンの言いを聞いて、セニアは得心するのと同時に深く愧じて顔を赤くした。あれは全力を以て当たった結果だったのだ。兄に失礼極まりなかったと感じ、そして矛盾めいてひどく安堵した。彼女の憧れは、やはりそんな人物ではなかった。
「すみません。私が未熟でした」
 しゅんと萎れて呟いた。
 騎士はまた微笑んで籠手を外す。うなだれる妹の頭を、黙って優しく撫でた。他の者に見つかれば、またビョーキだなんだと揶揄されるのだろうが、この精一杯の背伸びをする生真面目な妹が、彼は可愛くて仕方がない。
 ふと訪れる、穏やかな沈黙。しばらくその雰囲気に身を浸してから、セイレンは口を開いた。あまり言いたくはないのだが、言わねばなるまい。
「ところで、そろそろ次の仕事じゃないのか?」
「あっ!」
 兄の指摘に、セニアは弾かれたように顔を上げた。ありがとうございましたとマントを返却し、ぺこりと一礼して走り出す。その伸びやかな肢体にふと目が行きかけて、セイレンは深く自省した。
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