ここは生体工学研究所1階。時刻は深夜。巨大なスクリーンに、セニアの写真が映し出される。
「次、パジャマにナイトキャップの寝ぼけセニア・・・10kから!」
「20!」
「50!」
「90!」
「・・・120!!」
おおっ、と歓声が上がる。ここに120kをつぎ込むとは、買ったのはよほどの寝ぼけ顔好きだろうか。
90kでも普通なら落札できる。よほど琴線に触れたらしい。
「カウント開始・・・3、2、1、はい、落札おめー!」
がらんがらんと鐘が鳴らされる。アルマイアさんの手から、落札者に写真が手渡される。
壇上でガッツポーズをする落札者。これだから競りは盛り上がる。



繰り返すがここは生体工学研究所1階。そんな場所で何を競りにかけているのか。
いやそもそも取引をしているのは誰なのか、ということから説明した方がいいだろう。
誰に向かっての説明なのか、などと聞いてはいけない。

競りにかけられているのは隠し撮り写真。取引をしているのはアルマイアさんとリムーバ。
写真はいずれもアルマイアさんが撮ったもので、1週間に1回、こういった形で売られている。
リムーバの金の出所はカルボーディルや帽子を作る内職に支払われる賃金で得たもので、
たまに完成品を持ったまま侵入者に襲われる者もいる。


競りはセニアさんの写真からトリスさんの写真に移行していく。
需要、供給ともにほとんどがこの2人で占められ、あとはアルマイアさんとの個別取引となることが多い。
リムーバの間での人気は、セニアさん派とトリスさん派がそれぞれ3割、アルマイアさん派が1割、
その他が2割、特に誰に萌えるということもないというのが1割といったところだろうか。
アルマイアさんの写真はアルマイアさんからは手に入れようがないので、
この一団はエレメスさんから買っているらしい。アルマイアさんもそれを黙認しているようである。
世の中は広いもので、イレンドきゅんカワイスやら♀化カヴァクktkrなどと言うのはまだわかるが、
ハワードさんアッー! などと言っている者もいる。
しかし、女装だろうが性別転換だろうが男色だろうが、他人の萌えを否定する輩はいない。
それは萌えを否定することであり、すなわち己を否定することだからである。
かく言う私はセニアさん派である。理由は聞かないで欲しい。

アルマイアさんとの取引だけではなく、リムーバ間での取引も存在している。
私は写真を競り落としたことはないが、その代わりに競りでこれぞと思うものを頭に焼き付けておき、
落札者が飽きた頃を見計らってそれを買い叩くようにしている。
なぜ他人の使い古しに萌えられるのか、と聞かれることもあったが、
最近になって他のリムーバから買い取りを頼まれることも出てきた。
ただセニアさん派の自分としては悲しいことに、
リムーバ間での取引市場はトリスさん派の方が整備されており、
あちらでは写真のみならず小説も取引されている。無論書いているのはリムーバである。
私はトリスさんにはあまり興味がないのでしっかり読み込んでいないが、
他愛もないネタから官能小説まがいのものまで幅広く存在し、カップリングも各種取り揃えられている。
最も人気が高いのはアゾートでドッペルゲンガーとなったリムーバとトリスさんを扱った長編の小説で、
第1話の公開から1ヶ月が経った今でも完結していない。
発想からして素晴らしくたくましい想像力である。作者には感服するしかない。
なんでも最近では小説を売ることで得た金を写真の購入に回し、新たなネタとしているとのことである。
こうしたマーケットが存在するのは、なんとも羨ましい限りである。
とはいえ、そのうちセニアさん派の間でもそういった動きは出てくるだろう。
需要があれば自然と供給も発生するのが萌えというものである。たとえそれが自家発電であっても。



閑話休題、私は一昨日付で2階への転属が決まった。2階で働くのはこれが2度目になる。
2階への転属は生セニアさんや生トリスさんを見られるということで、
こちらへ来たことのない者にはかなり羨ましがられる。
しかし実際目にしたとしても声をかけられるようなことはまずないし、
私たちの前では常に侵入者を探しているので表情も強張っている。
鎧を身につけた精悍なセニアさんが好きだという者には合うのかもしれないが、
2階の雰囲気は少なくとも私には合わなかった。
変態と言われようがなんと言われようが、私は無防備な表情のセニアさんが好きだ。
いや誰に向かって言っているのかと聞かれても困るが。


私は2階の掃除をしていた。派手な戦闘があったらしく、血痕があちこちに飛散している。
これを拭き取るのが私たちの仕事である。戦闘は二の次だ。どうせ戦ったところで邪魔になる。
1階ではそういうわけにはいかない。ウィレスが飛び回って嫌がらせをし、
そこにリムーバが複数で襲いかかるようにしている。
それでもグランドクロスなどをもらうと一瞬で蒸発してしまうのだが、
死んだところでしばらくすれば蘇生するので別に困ることはない。そのあたりは便利な体である。
私は手袋をしたまま、血を拭いた雑巾を絞った。バケツの水が、赤く染まる。
リムーバが防護服やこの手袋を外すことはまずない。
防護服といい手袋といいガスマスクといい人間が付ければ暑苦しくて仕方がないのだろうが、
触覚以外の感覚が死んでいる私たちには関係のない話だ。

「いいかセニア、今日はバッシュの鍛錬だ」
「はい、兄上!」
セイレンさんとセニアさんの声がした。今日もいつもと同じところで、セイレンさんが稽古をつけている。
「先に俺が見本を見せる。次はセニア、お前の番だ」
「はい!」
セニアさんの返事がよく聞こえてくる。相手がセイレンさんだからこそ、ということもあるのかもしれないが。
「武器に気を集中させ、それから攻撃する。バッシュの説明はそれだけで済む。
 だが、この気を集中させるという技術。重要なのはこれだ。
 これほど応用の効く技術はない。攻撃だけでなく、あらゆる動作にこの技術が生きてくる」
「はい!」
「よし。・・・いいか、ゆっくりやるぞ。ここから気を溜めて・・・」
セイレンさんが、中段青眼から静かに上段に構えを移した。
私はそれに目を奪われていた。完成された型というものは、素人目に見ても美しい。

――次の瞬間
「覇ッ!!」
凄まじい風切り音が発生した。セイレンさんはバスタードソードを振り下ろしただけである。
ただそれだけで、20メートル近く離れていたところに立っている私の耳にも音が届いた。
「・・・今のがバッシュか?」
思わず私はそう呟いてしまった。あんな攻撃を受ければ、まずもって死は免れえない。
3階に降りていく侵入者の神経はどうかしている。
「お前の番だぞ、セニア」
「はい、兄上」
セニアさんは小さく息を吸ってから、セイレンさんと同じように、
中段から上段へとツーハンドソードを持ち上げた。

「ハッ!」
セニアさんが剣を振り下ろした。しかし、音はしない。
「ははは、まだまだだな、セニア」
セイレンさんは楽しそうに笑っている。叱るようなそぶりは全くない。
「私と兄上のバッシュとでは、何が違うのでしょうか?」
「今、お前は俺の構えを真似ただろう?
 構えから入ることが必要とされる場合もある。しかし構えにこだわりすぎるのも良くない。
 気を集中させる上で必要なのは、構えではない。心の型だ。
 お前が今やったのはバッシュではなく、ただの大振りだ」
―― 相変わらずセイレンさんは言うことが厳しい
渾身の一撃をただの大振りと評されたセニアさんは肩を落とし、うつむいている。
「いつもお前がやっているバッシュを見せてみろ」
「・・・わかりました」
そう答えたセニアさんは、右足を出して斜に構えた。
ひと呼吸整えてから、腕の振りに腰の回転を加えて薙ぎ払う。
セイレンさんに比べればかわいらしい音ではあるが、風切り音が聞こえた。
・・・そうであって欲しいと、私が思っていたからかもしれない。私はセニアさん派である。
「そう、それだ。それがお前の型だ。俺の型にこだわることはない」
「しかし兄上、兄上の型の方がより完成されていると思うのですが」
「それは違う。俺とお前とでは体格も腕力も違う。何よりまず性別が違う。
 性別が違えば気の流れ方も変わるから、おのずと気を集中させやすい型も変わる」
「はい」
「・・・鍛錬を続けていく中で俺の型に行き着いたとすれば話は別だが、そうはならないだろうな」
セニアさんは少しがっかりしたようだった。
気だのなんだのという難しい話は私にはわからないが、
セイレンさんを師と仰いでいる以上、セイレンさんに色々な点が似てくるのは想像できる。
そうならないようにクギを刺されたようなものだから、落胆するのも無理はない。
「しかし、気を集中させるという点はどんな型になろうと同じことだ。
 戦闘中には一瞬で気を集中させなければならない。
 より強く気を集中させるということは、より早く気を集中させるということだ。今日はその鍛錬をする」
「はい、兄上!」


「何よそ見してるんだ、仕事をやれ仕事を」
「・・・すまん、つい」
雑巾を持ったままぼんやりとセニアさんを眺めていた私に声をかけたのは、同僚のリムーバである。
「お前は2階に来るのは2回目だろ?」
「いや、初日だったんで、つい」
「そうか・・・。気持ちはわからんでもないが、程々にな」
「お前に程々と言われても、説得力がないんだが・・・」
このリムーバこそ、私をトリスさん派の取引場に連れて行ったリムーバである。
写真を競り落とすために寝る間も惜しんでやわらかい帽子を作り続け、
ついには1ヶ月に20個を完成させるという不滅の記録まで打ち立てた筋金入りのトリスさん派で、
方向性はともかく、その熱意は私も尊敬している。
「・・・だな」
本人も自分が普通ではないことを自覚している。だからこそ尊敬できるのだが。
「で、そっちはどうだ?」
「ああ、トリスさんか? ダメだ、相変わらずあの人とエレメスさんの動作は俺の目じゃ追えない」
エレメスさんはセイレンさんとは違い、
言葉による説明をほとんどせずに実戦の中で教えるようにしているのだが、
職業の都合上2人とも動作が極端に速く、リムーバの目では何も見えないのである。
このリムーバが、そのことが目下の悩みだと言い始めてからはや半年が経過している。
「お前はいいよな、ゆっくり眺めていられるんだから」
「なんなら乗り換えるか?」

「okわかった、時に落ち着け」
「・・・言っていいことと悪いことがあるぜ?」
彼はひと睨みしてから、私の胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「すまん、悪かった。言葉が過ぎた」
「わかればいい」
本気で怒っている。悪いのは私だ。私だって同じことを言われれば同じ反応を返していた。
「・・・さて、ジェミニに見つからないうちに、仕事に戻るか」
仕事をやれと言ってきた割には、仕事をサボってここに来ていたようだった。
「最近また侵入者の数が増えて、掃除も増えてきたからな。仕事が後から後から湧いてきやがる」
「いや、数は変わらんさ。質が良くなって2階に降りてくるのが増えたんだ。1階はもっとひどいぞ」
いまの1階は、私たちに痛覚があれば阿鼻叫喚と言って差し支えない状態である。
2階に行こうとしている者はまだいい。だが、最近では私たちを狙う者も出てきた。
その侵入者が始末に悪い。私たちにはセニアさんたちのような必殺技がないから、好き勝手に攻撃してくる。
「・・・大変だな、上のヤツも」
「ああ、どうにかならないものか・・・」
まさかセニアさんたちを1階に連れて行くわけにはいかない。
今でも2階はエレメスさんに来てもらってしのいでいる状態である。これ以上の戦力分散は自殺行為だ。
「・・・ま、とりあえず仕事に戻るかな」
「そうか。じゃあな」
私はまた拭き掃除を始めた。血はいったんこびりついてしまうとなかなか落ちない。
だが、セニアさん派の私にこの状況で仕事に集中せよという方が無理な話である。
自然と顎が上がり、私はセイレンさんの指導を受けるセニアさんを見ていた。

―― ・・・バッシュ?
そうだ、バッシュだ。唯一、私たちが効果的に使える技。
ラウレルさんの魔法は問題外。イレンドさんの支援魔法も同様。
私たちは弓を使えないから、カヴァクさんのダブルストレイピングも選択肢から外れる。
ゼニーには限りがあるからアルマイアさんのようにメマーナイトは連打できない。
トリスさんのインベナムは即効性があるわけではないから、
戦闘に時間をかけられない私たちとは相性が悪い。

もしバッシュを使うことができれば、一撃の軽さは緩和できる。
私は手を止め、セニアさんではなく、セイレンさんの方を見た。
セニアさんは教わる側であり、教える側はセイレンさんなのだから、それがスジというものだろう。
余計なことかもしれないが、別にセニアさんを眺めていたいがために
屁理屈をこねていたわけではないことをお断りしておく。



4日が経った。私は重大な思い違いをしていたようだ。
セニアさんもセイレンさんの下で長い時間をかけてバッシュを会得したはずなのであって、
私などが覚えようと考えたのが間違いだった。
気を集中させる、とセイレンさんは簡単に言い、セニアさんも簡単にそれをやってのけていたが、
そんな意識をしたことのない私ができるはずもなかった。
今まで自分がいかに何も考えずに戦っていたか、痛感させられる。

そもそも"気"とは何か。
セイレンさんはあらゆる動作に"気"が役立つと言っていたが、私にとっては空を掴むような話である。
力とは違うものであるらしいとはわかった。力を入れるだけでは、バッシュではなくただの大振りになる。
ナタを振い回してみるものの、いつもの鈍い風切り音がするだけで、
20メートル離れたところに届くような音は全く出ない。
手袋との摩擦で、手の皮が剥がれていく。
皮は寝れば治るが、手袋の中に残った肉片はやはり不快である。
最後に手袋を外したのはいつだったか忘れたが、そろそろ洗ってもいいかもしれない。
もう一度、振り下ろす。やはり、バッシュにならない。
諦める、という判断がいよいよ現実味を帯びてきた。
と、ちょうどその時、視界の隅に青いものが映った。それがセニアさんの髪だと判別するまでわずか0.2秒。
私も伊達にセニアさん派を続けていない。が、私はあくまで気付いていない振りをして、ナタを振った。

しくじった、と思った。わざわざセニアさんにバッシュらしきものを見せる必要はなかったではないか。
これは気まずい。セニアさんの努力の結晶を、見様見真似でリムーバなどが模倣しようとしている。
バッシュの体を成していないならその方が好都合だった。
ただの素振りに見えてしまった方がいい。それならセニアさんが気に留めることもないだろう。


「・・・あの」
2秒後、考えうる最良かつ最悪の事態が発生した。
まさかこんなことがあっていいのか、いや、ない。
ないはずだが私の耳は声を聞いた。そうか空耳か空耳か。そうに違いない。
「もしかして、バッシュの練習ですか?」
やってしまった。心ならずもセニアさんの顔を見てしまった。
無視していれば、心証を悪くすることはあってもこんなことを聞かれることはなかったはずだ。
「そ、そうです」
やんぬるかな。夢にまで見たセニアさんとのコミュニケーションが、こんなものになるとは思わなかった。

「・・・私でよければ、お手伝いしましょうか?」
「え゛?」
ok時に落ち着け私。冷静に、冷静にだ。
「コツを掴めば、あとは大丈夫だと思います」
「そんな・・・そう簡単にできるものじゃ・・・」
舌を噛まなかった自分を褒めてやりたかった。心臓が口から飛び出しそうだ。
「やってみないと、わかりませんよ」
そう言って、セニアさんはツーハンドソードを抜いた。無論戦闘用の、真剣である。
「バッシュとは、武器に気を集中させて、攻撃する技です。
 ですから、最初は気を集中させるという感覚を掴むところから始めます」
「はあ」
「リムーバさんは・・・うまく気を集中させられていないように思います。
 イメージは、掴めていますか?」
「いえ、それがまったく・・・」
私はかなり情けない表情をしていたはずだが、幸か不幸かガスマスクで顔は隠れている。
一瞬だけ考えるような顔をして、セニアさんが口を開いた。
「兄が私に教えてくれたのですが・・・」
セニアさんが、剣を構えた。セイレンさんとは逆に、右足が前に出ている。
「武器は、腕の延長だと。殴るときに拳に力を込めるように、斬るときには剣に力を込めるのだと」
私は息を殺して、一挙手一投足をも見逃すまいと、セニアさんをじっと見ていた。
息を吸うのは一瞬。吐くのは細く長く。

「ハッ!」
バッシュ特有の、強烈な風切り音が発生した。
4日前にはセイレンさんに比べればかわいらしいと思ったが、とんでもない。
あのときは距離が離れすぎていた。しかも比較の対象がまずかった。
このバッシュもまた、十分な殺傷力を伴う、必殺技と呼ぶにふさわしい一撃である。
「・・・リムーバさんも」
ひと呼吸ついてから、セニアさんは私の方を向いた。
しかし見本を一度見せられただけでできるものなのだろうか。いやそんなことはないはずだ。
セニアさんもそのつもりでいるはずだ。別に一発で成功させる必要はない、はずだ。
私は右足を引き、半身になった。斜に構えるセニアさんよりも、さらに足を引いている。
武器は腕の延長。腕に力を入れるように、ナタに力を込める。
どうせできるとは思っていない。しかし、可能性だけでも示せたら――
私は左腕を前に突き出し、右腕を肩越しに振り下ろした。


一閃。

床に落ちたナタが、甲高い音を立てた。
振りは鈍い。セイレンさんはおろか、セニアさんにも遠く及ばない。
だが、異質な手応えがあった。今まで感じたことのない、手応えがあった。
「掴めましたか?」
呆然としていた私は、セニアさんの声で我に返った。
胸の高鳴りは消えていた。その代わりに、背中に冷たいものが残っている。
「・・・今のが、バッシュですか?」
「はい」
剣を収めながら、セニアさんがうなずいた。
「・・・こんな簡単に、できるようになるなんて」
「撃つだけなら、簡単です」
セニアさんの返事には、かすかに怒気が混じっていた。
「実戦で撃つ。それが難しいんです。実戦では、自分がやってきたこと以上のことはできませんから」
「・・・すいません」
そうとしか言えなかった。穴があったら入りたい。
「・・・あとは、より強く気を集中させるだけです。
 強く気を集められれば、それだけ威力も精度も上がります」
セニアさんは、淡々と話していた。セニアさんに対するセイレンさんの態度とは全く違う。いや当たり前だが。
「・・・より強く、・・・ですか」
「より強く気を集中させるということは、より早く気を集中させるということだと、兄が言っていました。
 そのことを意識して練習すれば、もっと強く、もっと精度の高いものになるはずです」
私はナタを拾い上げた。単なるまぐれだったような気がして、もう一度、構えを取ってみる。





それから1週間が経った。
この1週間に、手袋を7回洗った。早い話が毎日洗っていた。
朝と夜では手の形が変わってしまうほどに、皮が剥け、肉がそげ落ちていく。
手袋を外すと皮やら肉やらが体液とともにぼたぼたと落ちるので、
外すのはいつも生ゴミ用のゴミ箱の上だった。
それぐらいなら別に気にならないのだが、寝ている間に再生した手の皮が手袋にへばりつき、
起きがけにビリビリと音を立てたのにはさすがに閉口した。
日常的に手やら首やらが吹っ飛んでいくような生活ではあるが、寝起きぐらい爽やかに迎えたいのである。

目が覚めた私は、枕元に置いていた手袋を取った。
音が鳴って以来、寝ているときには手袋を外すようにしている。
人間の生皮を剥いだような赤黒い手には、ひとつも爪は残っていない。
ため息を吐き、ベッドから降りる。防護服とガスマスクは着けたまま寝ているので、あとはナタがあればいい。
壁に立てかけておいたナタを見て、私は思わずにやけてしまった。

昨日、こんなことがあった。
私は1人でバッシュの練習をしていた。もちろんリムーバの目にも触れていない。
およそ10回ほど ―最初は2、3回だったが― で集中力が途切れてしまうので、
しばらく座って休むことにしていた。
つまり、バッシュをしては座り、バッシュをしては座りの繰り返しである。
廊下の掃除は行き届いているから、床に直接座ることは気にならない。
そのとき私は壁にもたれかかって座り、ナタを眺めていた。
「セニア?」
私が座っていたのはちょうど曲がり角だった。頭の上から降ってきたのは、イレンドさんの声である。
顔を上げた私と、イレンドさんの目が合った。
「・・・あれ、セニアを見ませんでした?」
「いえ、見ていませんが」
「そ、そうですか。失礼しました」
イレンドさんはそう言うと、顔を赤くして小走りで立ち去った。
その後ろ姿を見送った数秒後、笑いがこみ上げてきた。つくづくガスマスクをしていて良かったと思った。
イレンドさんは間違いなく、私をセニアさんと勘違いした。
音からセニアさんだと判断したのだろう。バッシュ特有の、あの風切り音だ。

自分のバッシュがセニアさんと同等になったとは思えない。
ただ自分がバッシュのつもりでしていたことが、バッシュとみなされたことが嬉しかった。
この1週間ろくに掃除もせず、私はひたすらナタを振るっていた。
その努力が報われたのである。1階に戻ったら、実戦でも使ってみるつもりだ。
気分良く、私は部屋を出た。


そして、金属音を聞いた。

長剣同士がぶつかり合う音だった。したがって、トリスさんとエレメスさんがやりあっているわけではない。
しかしセニアさんとセイレンさんにしては、音が濁っている。
たとえ手加減していても、セイレンさんの剣は鋭い。
その太刀さばきに対応しようとすれば、セニアさんの剣も、自然と鋭くなる。

そこから導かれる結論はひとつ。私は、走った。



果たして、通路の先にセニアさんの姿があった。

敵は騎士とプリースト。技量ではセニアさんが騎士のそれを上回っているが、
次々と詠唱されるヒールが戦況の膠着を生んでいた。
一太刀浴びせても、すぐに回復される。その繰り返し。
セニアさんは鮮やかに騎士の攻撃をいなし、避け、弾いていた。
しかし、表情には疲労の色が見えている。傷を負うのも、時間の問題。


2階で通用するだけの戦う手段を持たないリムーバは、
事実上、掃除をするか、助けを呼ぶためだけにいると言っていい。
人数が足りなければ、他の誰かを呼ぶ。それだけで十分。あとはセニアさんたちがなんとかしてくれる。

そう。戦う手段を持たない、リムーバは。




私は戦う手段が持っている。セニアさんから、与えられた。



戦うしか、ない。



接近するのは背後から。死角をつき、一挙に走りこむ。声は出さない。息も殺す。
右手のナタに気を集める。歯を食いしばりすぎたせいか、歯茎に歯が沈みこんだ。

「後ろだっ!」
「くっ!」
気配を察した騎士が叫び、プリーストが身を翻した。
だが、プリーストと目が合ったときにはすでに左足で踏み切っていた。
頭の後ろに来ていたナタを、プリーストに叩きつける。セニアさんに教えてもらった、バッシュ。

プリーストはしかし、盾を使おうとはしなかった。
キリエ・エレイソン。物理攻撃を弾くオーラをまとう魔法。
1階で自分たちが面白いように屠られていたのは、このオーラが原因だった。
殴りつけて破ろうとしても、一撃が軽いがために再度の詠唱を許す。
だが今は、そうはならなかった。ナタの切っ先が、プリーストの僧衣に触れる。
キリエ・エレイソンのオーラが破壊された証左だった。
プリーストが目を見開いた。全く想定していなかった局面。無防備になる、プリースト。

左足で着地、ブレーキ。靴の中で、足の裏の皮がずるむけた。
膝を曲げ、腰を落とす。プリーストの腰が、自分の頭の高さにある。
左に流れたナタを、今度は両手で支える。腐った肉の中で、腱がいやに自己主張する。

しかし、オーラはキリエ・エレイソンのものだけではない。
プリーストのマフラーに、レイドリックカードが刺さっているのが見えた。
このままナタを振り回しても、威力が殺されてしまうだろう。

―― ・・・ならば
武器に属性を乗せる。そうすればレイドリックカードは無効化できる。
ずっと考えていたことだった。実際に試してもいた。
奇襲に仕切り直しはない。そのまま追撃のモーションに入る。
より強く気を集めるということは、より早く気を集めるということ。
時間は一定、ごくわずか。だから早く集めることは強く集めることになる。
ナタの勢いを右の二の腕で殺し、手首を返しながら右足を出す。
気を集中させると、鈍い光を放っていたナタの刃が黒く染まった。気は十分、集まった。



手応えあった。プリーストの膝を、黒い刃がとらえた。悲鳴を上げるプリースト。
めくれ上がった僧衣から、傷口が覗いた。血の赤ではなく、得体の知れない黒。
放っておけばそこから腐食されていく、そんな傷である。

「くそっ!」
騎士がセニアさんを弾き飛ばした。2メートルほど後退するセニアさん。
狙いはわかっている。私だ。かがみこんでいた私に向かって、剣が振り下ろされる。
右腕は伸びきっていた。ナタでの防御は間に合わない。
左の肘か二の腕あたりに、剣が直撃する。そのまま腕が、肋骨に押しつけられた。
衝撃が、左から右へと突き抜けていく。間違いない。ボウリングバッシュだ。
左足が浮き、次に右足が浮く。次に地面に着いたのは、右肩。
すぐさま上半身を起こす。騎士は目の前に迫り、剣を振り上げていた。狙いは頭部か肩口。
ナタを持った右腕を上に向ける。左腕は使い物にならなくなっていた。
騎士はそんなことはお構いなしに、全体重をかけてまっすぐに剣を振り下ろしてきた。
あっさりとナタは弾かれ、剣が安全帽に直撃する。
衝撃で意識がぶれる。脳をやられた。そのまま仰向けに倒れる。
「バッシュ!!」
霞んだ視界の中で、セニアさんが男の背中に袈裟斬りを見舞っているのが見えた。
プリーストがすぐさまヒールを放ったが、直後に自身がその場にしゃがみこんだ。
パックリと口を開けた膝では、体を支えられなかったようである。

形勢逆転。騎士、プリーストは2人とも深手を負った。
どちらかを回復しようとすれば、すぐにセニアさんの攻撃が飛んでくる。
もともとヒールさえなければセニアさんの方が優勢だった。ただそれだけのことだ。
「飛んで! 早く!」
視覚は心許ないが、聴覚にダメージはない。プリーストがそんなことを叫んだのが聞こえた。
血に濡れた蝿の羽を、騎士が振りかざす。プリーストが慌ただしく何かを唱える。
青い光とともに、2人は消えた。


「大丈夫ですか!?」
セニアさんの声がした。青い髪がかなり近いところにあるような気がするが、
目が霞んでいてよく見えない。なんとも残念な限りだ。
―― 大丈夫です、すぐに治りますよ
そう答えたかったが、舌が動かない。脳しんとうを起こしているらしい。
「私がしっかりしていれば、こんなことには・・・」
声が震えている。まるで、取り返しのつかないことをしてしまったかのように。

―― ・・・ああ、そうか
この人は、リムーバが1階で何をしているかを知らない。
斬られては蘇生し殴られては蘇生し焼かれては蘇生し、侵入者に襲いかかっていることを。
自分が流した血とは呼べない体液を、自らの手で拭いていることを。この人は、知らない。

「うおおおおおお!!! 近づくんじゃねぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
今度は遠くでラウレルさんの声がした。別の侵入者が現れたようだった。
「くっ・・・こんな時に!」
ぼやけた視野では表情までは把握できなかった。だが口調から苛立ちが読み取れる。
願わくば、意識が正常な状態になるまでこのままでいたかった。
おそらく、こんなに近くでセニアさんの顔を見ることは、二度とないだろう。

―― ・・・だが
右の腕は動く。ラウレルさんの声のしたのも向かって右方向。好都合だった。
拳を作り、人差し指だけを伸ばす。一瞬、セニアさんが体を硬直させた。・・・ように見えた。
「そんな、このままリムーバさんを放っておくわけには・・・」
もう一度、手を動かす。人差し指を曲げ、親指を立てる。緩慢な動作だが、意図ぐらいは伝わるはずだ。

セニアさんが立ち上がった。1秒にも満たない逡巡。それはそうだ、事態は急を要する。
目だけを動かしてだんだん小さくなっていく後ろ姿を見送ってから、私は体の力を抜いた。
この程度の傷なら、まぁ、2日もあれば治るだろう。
あとは他のリムーバが私を回収してくれるのを待つばかりだ。私は、目を閉じた。






――3日後。
粉砕骨折だと思っていた左肘は防護服の中で押しつぶされていたらしく、完全に切断されていた。
そのせいで回復は思ったより長引き、腕が動くようになったのは今朝になってからである。
それに比べれば、肋骨が3本ほど折れたことや、頭蓋骨にヒビが入っていたことなど、小さなことだった。
腕とは対照的に、意識の方は当日のうちに鮮明になった。視覚も今ははっきりしていて、
結局残ったものといえば、安全帽のへこみぐらいだろうか。


私はまた2階の掃除に戻った。今日は空調のフィルター。
かなり長い間手がつけてられていないらしく、埃がひどくたまっている。
取り外したフィルターを雑巾で拭くために、私は脚立から降りようとした。

「・・・あの」
聞き覚えはあるが、かかるはずのない声がかかった。視線の先にいたのは、甲冑姿の青い髪の少女。
「・・・私に、何か?」
心臓が強く収縮した後、早鐘を打ち始める。あの時と、変わらない。
「お怪我は、大丈夫ですか?」
「ああ、それでしたら大丈夫です。この通り、もう治りましたよ」
そう言って、肘の曲げ伸ばしをしてみせる。違和感は全くない。
「そうですか・・・」
うつむいた顔から恥と罪の意識が読み取れる。この表情もまた良し、などと罰当たりな思考が頭をよぎった。
「ラウレルさんは、大丈夫でしたか?」
「・・・はい、間に合いました」
「そうですか、ならよかった」
ガスマスクの下で笑顔を作るが、まずセニアさんには見えていない。
それは私もわかっている。わかっているのだが。
「・・・もうひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
「なんでしょう?」
私は脚立から降りた。セニアさんの頭は、ちょうど肩のあたりにある。
「プリーストに加えた攻撃は、バッシュのように見えたのですが・・・」
「ええ、セニアさんに教えていただいたバッシュですよ」
しかしセニアさんは首を振った。髪からふわりといい匂いがした。
「一回目のバッシュは、そうだとわかりました。
 ですが、二回目の膝のあたりを薙ぎ払ったバッシュは、違ったように思えたのです。
 私のバッシュでは、レイドリックカードのオーラを貫通させて攻撃することはできません。
 あるいは、兄のバッシュでも。・・・あの攻撃を、私に教えて下さい」

―― ・・・あのバッシュ
あれはバッシュではない。バッシュのようだが、バッシュではない。
セニアさんやセイレンさんの気とは異質な、どす黒い気。
この腐りきった体を維持するための気。バラバラになった体を再び構築するための気。
美しささえ覚える漆黒の闇ではなく、吐き気を覚える濁った闇。
アンデッド。不死。言葉は違えど、意味は同じ。
その気を集めて、私はあのプリーストに叩きつけた。その結果が、あの傷口だ。

「・・・無理です。セニアさんには、絶対に」
セニアさんが驚いたように顔を上げた。絶対に、とまで言われてしまうとは、思っていなかったのだろう。
それはそうだ。言うまでもなく、剣の技量は比べものにならない。
「なぜですか?」
セニアさんに悪意はない。より強くなって、皆に貢献したい。そう考えているだけだ。
レイドリックカードにはラウレルさん以外の全員が手を焼いている。
不意を突いて無防備なところを攻撃しても、ダメージを殺されてしまうからだ。
だが、悲しいかな。教えられない理由をそのまま伝えれば、おそらくこの人は傷ついてしまうだろう。
リムーバがどういった経緯でリムーバとなったのか、この人は知っている。


この人は、優しい。だから私は、セニアさん派なのだ。



「あれは、私の型だからですよ」
「・・・リムーバさんの、型?」
「そうです。セニアさんの型とも違いますし、セイレンさんの型とも違うんですよ」
私はセイレンさんの言葉を借りた。セニアさんを説得するのに、これ以上有効な言葉はない。
「わかりました。それでは、真似はできませんね」
セニアさんが、笑った。写真ではない、本物の笑顔。
剣を手にした戦う人間としての顔ではなく、あどけなさの残る少女としての顔。私が見た、初めての笑顔。
「セニアさんは、王道を極めた師をお持ちだ。邪道に、足を踏み入れてはいけません」
「・・・師?」
「セイレンさんのことですよ」
「そんな、兄が王道を極めたなんて・・・」
セニアさんが、少しうつむいて顔を赤らめた。年甲斐もなく、胸がうずく。
「おーい、セニアー」
遠くの方で、ラウレルさんの声がした。3日前とは違う、緊迫感のない声。
「ごめんなさい、行かなければ・・・」
「いえいえ。それでは」
別にラウレルさんに怒りを覚えたとか、そんなことはなかった。
私はリムーバであって、それ以上ではない。だから、これでいい。
「本当にありがとうございます、リムーバさん。私は私の、型を極めます」
「頑張ってください。私も影ながら、応援していますよ」


青い髪を揺らして走っていくセニアさんの後ろ姿に向けて、私は小さく手を振った。





この呪われた体のために

この呪われた力のために

私はあの一撃を、放つことができた。

私はセニアさんのために、戦うことができた。


――だから

この呪われた体と、この呪われた力と、この与えられた力とで――



皆が穏やかに笑いあえる日まで、私は、戦おう。







――全てのリムーバがバッシュを使うようになったのは、それから1ヶ月が経った頃である。











――――――――――――――猫線――――――――――――――
電波の発信源は[リムーバ][バッシュ][不死属性攻撃]。
どう考えても需要がありません。本当にありがとうございました。



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