「――暑いな」
 そう零すのは、もう幾度目になるだろう。額の汗をひと拭いして、セイレンは恨めしげに苛烈なるモロクの太陽を仰いだ。鎧が容赦のない日差しを受けて熱を持っている。王賜のマントも日除けとしては機能してはくれない。
 時折吹き抜ける風すらも砂塵を孕んだ熱風で、全く重装の騎士には手厳しい土地柄だ。首都から動く事の少ない同胞の騎士達と比して、セイレンは随分と旅慣れてはいた。だがしかし、それで涼しくなるわけではない。
 そしてそんな様にありながら、それでも王国騎士としての正装を崩そうとしないあたりに、この男のおかしみとでも言うべきものがあった。
 騎士団筆頭。一個人でありながら最大戦力と賞される彼がここ、モロクに赴いたのは、無論私用ではない。
 彼はある男を追っていた。騎士でありながら悪徳の商人たちと誼を通じ、私腹を肥やしていた男だった。弱きを助け強きを挫くべき、騎士の風上にも置けぬ大罪人だった。
 だが、とセイレンは暗澹たる心持ちで目を伏せた。近年は騎士を志す者の質も落ちた。教練の様を見れば一目瞭然だ。ここまで大事ではないにせよ、同一に近い事象側面を備える悪事が後を絶たない。
 だが、ともう一度呟いて目を上げる。胸を張る。今為すべきは憂慮ではない。
 己の罪科が明るみに出たと悟った男は、いち早くモロクに逃げた。砂の王都モロクはプロンテラ騎士団の管轄外である。加えて世の裏道に詳しいシーフギルドも近辺にあり、訴追の手を逃れるにはまずもって好ましい土地と言えた。しかし男は騎士団最悪の裏切り者。決して逃すわけにはいかない相手だった。
 多勢を送り込むのは不可能。ならば少数精鋭にて。
 そうして命と身分の証明をと受けてプロンテラを発ったセイレンであったが、モロク王城の反応は芳しくなかった。
 事情の説明と捜査への協力とを求める対して返った返答は、有体に言うならば「適当に自分で探せ、何かあったら教えてやる」だ。

 ――いずこも同じ、か。

 辞したモロク城を見上げる胸に、そんな愚痴が去来する。
 無論これで諦めるのはセイレンの性分ではなかった。時に強情、時に愚直に通ずるほどの一途さ。己の定めた道を最後まで貫くのが彼だった。独力であろうとも必ず見つけ出し、然るべき司法の場に引き据える事を己に誓う。
 といっても、この不慣れな土地でどう動いたものか。
「いかんな」
 セイレンは眉をひそめる。最前の愚痴といい、気が弱くなっているとしか思えない。暑さに負けているのだろう。まだまだ精進が足りない。その耳に、ふと物売りの声が届いた。目をやれば、居たのはアイスクリーム売りだった。
 王城の周りには水が巡らされ、他と較べれば幾分過ごしやすい。当然涼を取りに立ち寄るひとも多く、条件を考慮した上手い商売だと思えた。自分もひとつばかり買って涼もうかと考え、それから少し苦く笑った。騎士たる者が、通りで氷菓を立ち食いとはいただけない。
 と。
「早く早く」
「こっちこっち」
 わっと上がる声に再び視線を戻せば、きゃあきゃあと氷菓売りを目指す子供の群れが目に入った。
 無邪気なその様に、子供好きのセイレンは思わず目を細める。彼らにアイスクリームを振舞うのも悪くないだろうと思いついて歩を進めたが、中途で止める。
 残念ながら、彼のまとう空気――それは若くしながらにも身に付いた、威厳や威風と呼ばれるに相応しいものだった――は子供受けがよろしくない。怯えさせてしまうのが関の山だと経験から学んでいた。
 それに、
「こらこら。慌てても仕方ないでござるよ」
 その子供達を追う様に、のんびりとやってくる長身の青年がいた。おそらくは彼が、この子供たちの保護者なのだろう。妙に時代がかった口調に剽けた仕草。しかし挙措には隠しようのない、鍛えられたものがにじみ出ていた。
 仲の良い家族めいていて、セイレンはその光景をひどく好ましく眺め――そして瞳が鋭さを増した。子供達は、その幼さにも関わらず、全員がシーフギルドの所属だった。中には冒険者としてたつきを得る者もあるだろうが、その殆どは犯罪者予備軍と呼んで差し支えない。
「騎士殿」
 まるでセイレンの中で蠢いた剣呑なものを察したかのように。セイレンの視線を阻んで、青年が割って入った。某か言いがあるならば引き受けようと、そうその目が告げていた。正しく彼は子供らの保護者だった。
「何か所用にござろうか?」
 加えてまるで気配を感じさせなかった挙動に、何者であるのかとの疑念が強く湧き上がる。
「いや」
 けれどそれら全てを押し殺して、セイレンは穏やかに首を振って見せた。
「子供は笑っているのがいいと。そうしていられる世の中がいいと、そんな事を思っていた」
 返答は、余程に思いがけぬものだったのか。青年はたっぷり一呼吸意表を突かれたような表情を浮かべ、そしてそれから微笑した。
「真に然り」
 セイレンが言葉を返すよりも早く、いとけない声が割り込んだ。
「ござるー、早く来なきゃ駄目だよ」
「そうだぞ。ござるの分溶けちゃうぞ」
 承知仕ったと応じて、青年は目礼する。セイレンもまた片手を上げて別れを告げた。
 それにしても暑い。
 上げた手でまた汗を拭う。そしてそこはかとないおかしみ混じりに、あれこれと自分の世話焼きをする、年下の少女の事を思った。出立のその時まで、セニアはきちんと肌を覆う軽装を推していた。現着してみれば、その言葉はまったく正しかったと判る。日頃の礼と併せて、土産のひとつも買っていかねば天罰も下ろうというものだ。
 大賑わいのアイスクリーム売りを見て、セイレンは考える。セニアはあれを喜ぶだろうか。朴念仁のこの騎士には、女性が喜びそうなものが今ひとつ判らない。しばし頭を悩ませて、結局選択は先送りにする事にした。
 帰り際に考えればいい。いつ事が急転するかも判らないのだから。
 しかしながらそれから2日、捜査にはなんの進展もなかった。


            *               *               *


 夜のモロクは、また昼とは違った顔を見せる。
 春を売る女が袖を引き、またそれ目当ての男が徘徊する。違法薬物がそこかしこの物陰で取り引きされる。早くも酔い痴れた中毒者が道端に空ろな目で座り込み、目端の利く子供達がその懐を弄っていく。
 嘆かわしい、と一言には切り捨てられなかった。これら犯罪行為からの利潤で、どうにか口を糊する者達がいる。それらの行為を止めさせて、では彼らにどうやって生きていけと言うのか。
 理屈では判っている。一息に変えられぬものであるとは判っているのだ。それでも、セイレンは眉を顰めずにはいられなかった。人の退廃から逃れるように裏路地へ裏路地へと抜け、だから物思いに耽る彼がそれに気付いたのは僥倖といえた。
 戦場で鍛え、磨かれた勘。1に満たない数々の違和感を総合して感知するそれが不審を告げなければ、さしものセイレンとてそのままその路地を素通りしていただろう。
 薄曇りを抜けて降る弱い月光。昼尚暗いであろう路地の全容は茫漠として測れない。
 だが鼻先に香った。鉄錆にも似た臭気。幾度も嗅いだ事のある、それは血の匂い。だから砂に仰向けに倒れてるのは酔漢などではなく、おそらくは死体のはずだった。
 折り良く雲が晴れて、月が面を照らし出す。それはセイレンが追っていた男だった。思わず駆け寄りかけて、本能がその足を止めた。
 闇を透かす。透かして見る。
 それは、そこに居た。
 月影に蟠る、もうひとつの影。それは、幽鬼の如くゆらりと立った。するりと月光の下に歩み出る。両の手にはカタール。口元はマスクで覆われ、横顔に凍るは仮面の如き無表情。紛う事なき暗殺者の姿だった。
 怯みも一瞬。剣の柄に手をかけて、セイレンは己が執るべき行いに移る。
「大人しく縛につかばよし。さもなくば――」
 だが皆までは言えなかった。セイレンは言葉の途上で、数歩の距離を後ろに跳んだ。着地と同時に抜剣、ひたりと中段に構える。否。構えさせられた。
 男が何を仕掛けてきたわけではない。ただこちらに向き直った。それだけだ。
 だがそれだけで背筋が凍り、ただそれだけで怖気が走った。一呼吸遅れててのひらにわっと汗が滲む。
「見なければよかった」
 聞き逃しそうに小さく低い、感情の無い声だった。
 硝子玉のような瞳が告げていた。雄弁に物語っていた。

 ――見られたからには、死んでもらう。

 毒蛇の速度で暗殺者は走った。迎え撃つセイレンは大上段、後の先とも言うべき交差法、カウンターを狙う構えに変化する。
「っ!?」
 しかし間合いの直前で、暗殺者の姿は掻き消えた。ひとの意識の死角に忍ぶ、暗殺者の隠行術だった。
 セイレンの得物は両手剣。カタールと比せばリーチと一撃の威に勝るが、その分懐に潜り込まれてしまえば一手一手が立ち遅れる事になる。この隠身はセイレンの利を殺し、己の有利を得る為の布石に相違なかった。
 相手の間合いを許せば、一息に勝敗は決しかねない。
 けれど、セイレンの動揺は一瞬だった。
 彼にはあった。幾度も、幾日も、幾年も、研鑽を積み続けてきた技たちと、実戦と死線の経験とが。
 間髪入れずに走った。暗殺者の居るであろう辺りへ。駆けながら、呼気と共に力を集め、巡らす。掌までに伝わったそれを更に強く織り上げて、刃にまでも行き渡らせる。
「――爆ぜろッ!」
 裂帛。叫んで、叩きつけた。火性を宿した剣圧が、暑く澱む大気を更に熱く焦がして乱す。地面に転がる無数の塵が、爆風に巻き上げられ中空で燃え尽きる。
 例え姿が認識できなくなったからといって、存在そのものがその場から消失したわけではない。マグナムブレイク。一点に狙いを絞るのではなく、放射状に周囲を焼き払う剣士の戦技。その効能は、身隠しの術のそうした欠点を突き得るものだった。
 とはいえその効果範囲は無限ではなく、また技のタイミングも叩き込む位置も、全ては勘に過ぎない。読み誤れば、まったく無人の空間を薙いだだけに終わりかねない攻撃だった。
 だがその勘は歴戦の騎士の、セイレン=ウィンザーの勘だった。
 読みは正鵠。炎風を塞ぐように腕を交差させた格好で、暴き出された暗殺者は大きく跳ね飛ばされる。しかし、敵も手練れだった。恐らくは想定外の対応速度で隠形を破られたであろうにも関わらず、暗殺者の動きには微塵の遅滞も遅延もなかった。
「石よ」
 懐から、手妻じみた速度で取り出されるは赤石。緩い放物線を描いてそれはセイレンの足元へと飛び、
「土を穢し、空を犯せ」
 言霊と共に砕けた。同時に甲高い、悲鳴のような凶音。亡者の怨念めいた形を成して、猛毒の霧が立ち込める。
「くッ!」
 慌ててマントで口元を覆うが、遅かった。ぐらりと視界が揺れる。セイレンは毒霧の発生源より地を蹴って逃れた。
 大した量は吸っていない。そう時間はかからず毒素は抜けるだろう。だが、即時の回復は望めない。ただの聞き込みと、何の備えもなく宿を出た事が悔やまれた。
 毒の行使それ自体に対しては、セイレンは感慨を抱かない。卑怯卑劣などとは思いもしなかった。自分達は殺し合いの只中にいる。敵を倒す為に死力を尽くすは当然の理。むしろ相手の戦術をあげつらう事こそ愚か。
 萎えかけた足に活を入れ、だん、と地を踏み鳴らした。
 自問する。
 汝、何者たるや。
 自答する。
 我が身は騎士。法の守護者であり、遂行者である。
 然り。ならばこの場は退けぬ。
 毒素など何するものか。しっかと胸を張った。気迫に満ちて。気炎は万丈として天を沖すばかりだった。
「セイレン=ウィンザー、推して参る」
 そして、守勢には回らず攻めに転じた。

 振るう。かわす。突く。捌く。
 約束された舞踏のように、ふたりの刃が火花を散らす。
 暗殺者は影のように巧妙で、夜のように捉え所がなかった。
 比喩ならず火を噴くようなセイレンの攻め手を、その悉くを体術にて削ぎ殺していく。
 斬撃を流し、刺突を見切り、大上段からの重い剣を、交差させたカタールで受け止める。ぎちりと絡んだ刃の向こうに、ようやくセイレンは相手の顔を見た。
「お前は……っ!?」
 それはあの青年だった。あの時の、幼子たちの保護者だった。
 セイレンの頭にかっと血が昇った。その男が、何故ここで人殺しになど堕している。

 ――真に然り。

 子供達の幸福を願うが如く、そう応えた言葉は偽りであったというのか。
 驚きが怒りに成り代わり、その激昂が力を生んだ。拮抗する上下の力を転瞬に変じて流し、セイレンは男の胸に肩口からの体当てを為す。玄妙の変化に追随し損ねた暗殺者は大きく体を崩した。
 セイレンはそこに勝機を見る。
 刃は既に腰溜めに側められている。そのまま薙げば、バランスを失った今の相手に回避の余地はない。さながら居合いの如く愛剣を一閃させようとしたその瞬間、ぐんと腕に重みがかかった。
 運身を乱されながらも、それでも暗殺者が柄頭を蹴り止めたのだと悟るまで一瞬。敵手の技量も神業めいたものだったが、セイレンの反応もまた尋常ではなかった。
 このまま押さえ込まれれば相手の間合い。好機を転じて死地となる。即座にそう判断するや、両の腕に満身の力を込めて剣を振り抜いたのだ。力の掛かり始めを制されながらの事で、とんだ馬鹿力という他はない。
 けれどセイレンの豪腕が相手の想像を上回っていたように。暗殺者の敏捷性もまた、セイレンの想定の範疇を逸脱していた。
 強引に振るった刃の軌道に、青年の体はなかった。彼は足裏にかかる強引なセイレンの力に抗わず、それどころか逆に利して、その身を高く中空へと跳ね上げていた。とんぼを切って地に降り立った姿には、再び一分の隙もない。
 ようやく間合いが開き、ふたりは同時に息を継ぐ。
 もう既に互いが互いを、わずかな油断すらもならぬ雄敵と認めあっていた。
「この男は殺されるだけの事をしてきた。お前も知っているはずだ。それでいながら、何を猛る」
「それでも、弁明と再起の機会を与えるべきだった。死ねば一切合財がそこで終わりだが、生きていればやり直せる。ひとは学ぶものだ」
 静かな声がした。放たれた問いはセイレンの一瞬の激昂の理由としては的外れだったが、律儀に応じる。
「法はこの男を許すだろう。それだけの根回しをしていた」
 応えに、青年は鼻で笑った。
「王城は動かなかったはずだ。あそこは、こいつの金に腐らされている」
「……しかし、制裁が悉く殺しであれば、民草は恐れるばかりだ。悪法もまた法。それを乱せば理が、国の根幹が乱れる。政に抗わんと欲するならば、正道を以て当たるべきだ。時間はかかるだろう。だが然るべき手段を通して法を変え、それを私利私欲に用いる者を弾劾し、そして――」
「その間にも死んでいくのだ。弱いものから順に、子供達は死んでいく」
 青年が吐き捨て、セイレンは言葉を失った。
「魔物に襲われるもの。飢えて死んでいくもの。麻薬に溺れさせられるもの。楽しみの為に殺されるもの。死に方こそは様々だが、歳月は偶然の死を恐ろしいまでの手際で必然に仕立てる。生き延びて、成人できる者など稀だ」
 絶望を見てきた目だった。彼もまた、そうした子供のひとりであったのか。昏い瞳が、ちらりと逃亡者の死骸を射た。
「そうしてその屍肉で肥え太るのが、こいつらだ」
 押し黙ったセイレンとは逆に、暗殺者は驚くほど饒舌な己に戸惑っていた。胸の裡に殺していた、自分でも意識しなかたような本音を、何故こんな殺し合いの相手に吐露しているのか。
 そもそも、これはアサシンギルドからの仕事ではなかった。義憤と呼ぶもおこがましい、つまりは彼の私怨から為した行為だった。
 彼は殺めた男がモロクの少年少女をかどわかしていたのを知っていた。連れ去られたその子供達が薬の臨床試験に用いられた事も。
 一口に薬と言っても、それは医療の為のものではなかった。愉しみに耽る為の幻覚剤、つまりは麻薬の類だ。開発された薬品の服用量や副作用等の諸々を調べ上げる為に幾人もが攫われ、そして戻らなかった。
 犠牲になったのは砂の街に屯する、いなくなっても誰も捜さない、親の顔も知らないような幼い犯罪者予備軍たち。だが、それでも生きる権利はあるはずだった。
 正義も天誅も気取るつもりもない。ただ気に入らないから殺した。
 金が欲しいから悪を謳歌したこの下司と、理由としては大差はないだろう。なればこそ自らのエゴを肯定してきた人面獣心どもは、因果で己を襲う凶刃もまた肯定するべきだった。
 そんな彼の思考からすれば、眼前の騎士の論は現実を見ない甘ちゃん以外の何者でもなかった。
 だというのに、何故だろう。
 彼の心は理に非ず、その姿を眩いものとして見た。毒にも怯まず、恐怖にも竦まず、ただ堂々と。それこそは正しく正道の姿だと感じた。その技量からだけではなく、尊敬できる男だと思った。
 それでも。
 目撃者は消さねばならない。

 ――征くぞ。我が好敵。

 神速にて再び踏み込む。迎撃の剣を紙一重で回避する。切っ先が頬を掠める。腕を撫でる。余裕の見切りなどでは無論ない。辛うじてで避けるのが精一杯なのだ。
 もしその剣に一撃なりと許せば、それで良くて手足の一本。悪くすれば命ごと持っていかれる。
 それを避ける。避ける避ける避ける。研ぎ澄ましてきた技量を更に極限まで澄まして、受け、かわし、流す。
 その刃の一閃ごとが死線だった。ぞくぞくと身を震わせるものがある。恐怖ばかりではなく、それは悦びだった。
 これほどの。これほどの男が居たか!
 戦い続けたい。もっと、もっと、もっと。
 交錯の一合ごと、一秒ごと、ひと刹那ごとに、互いが軋みを上げて強くなっていく。
 歪な願いとは裏腹に、それはどちらかの血と死とを以てしか終わらぬ宴だった。


 対峙するセイレンもまた、同じ感覚に身を震わせていた。
 強い。こいつは、途方もなく強い。
 今まで剣を交えてきた、どんな相手よりも上だった。僅か一撃でも許せば、殺されるに違いない。手を刺されれば腕の、足を抉られれば脚の働きを、その一撃で確実に殺す。相対する者の機能を次々と削いで、確実に仕留める。敵手のそれは、そういう戦い方だった。
 血が沸き立つ。背筋がちりちりと震える。
 恐怖に、ではなかった。それは歓喜に近い感情だった。
 王都随一。騎士団筆頭。そんな肩書きは、だが同時に追いついてくる者がいないという孤独でもあった。

 ――お前は違う。

 口の端が笑みの形に吊り上がるのを抑えられない。

 ――お前は、俺を殺せる。

 命のやり取り。そんなものに喜悦を覚えるのは、正直騎士として恥ずべき事だろう。
 だが。
 これほどに充実した一秒、これほどまでに濃密な一瞬が今までにあったろうか。
 全てを試されている。ここまでに培ってきた技術、意志、戦いの本能。
 ひと刹那ごとにそれらの総量が生死の天秤にかけられる。
 百万言よりも、交わる刃が雄弁だった。
 俺は、誰よりもこいつを知っている。
 こいつは、誰よりも俺を知っている。

 ぎん、と鈍い音で、幾度目とも知れず刃が噛み合った。至近でふたりは睨みあう。
「何故この土地にシーフギルドがあると思う?」
 呼気は互いに乱れて荒い。その下から、暗殺者は問うた。
「法を掻い潜り、法の網目を盗んでいかねば生き延びる事ができないからだ」
 不毛の土地。ピラミッド、スフィンクス。ふたつの迷宮を城の傍に抱え、魔物の襲撃にもまた気を尖らせねばならない。
 シーフギルドは、確かに多くの犯罪者を生み出してはいる。だが同時に、冒険者として生きていけるように、自身の道を自身で切り拓けるように力を与えている存在でもあるのだ。
 彼の言葉に、そこに込められた暗黒に圧されて、じりじりとセイレンは押し込まれていく。
「お前の言いは正しい。正しいが、奇麗事だ。今目の前の者を救えはしない」
 上っ面の奇麗事。所詮はそうなのか。そうに過ぎないのか。刹那、そう思った。そう思いかけた。
 その時、声が過った。

 ――兄さんは、いつだってひとりで背負い込み過ぎなんです。

 それは不満そうにむくれる、少女の姿をしていた。彼女の小言はいつも「だからせめて、もっと私を頼ってください」で結ばれるのだ。

 ――戦いの役には立てませんけど。まだ、立てませんけど。でもそれ以外だったら、色々とできる事もあるんですから。
 
 精一杯の背伸びめいたその声は、思い返せば尚明瞭に聞こえた。セイレンは歯を食いしばる。そうだ。違う。
「お前がいる」
「――何?」
「俺ひとりでは何も出来ん。お前の言う通り、今失われようとしているものまでは救えない。だが、あいつがいる。お前がいる。ふたりなら差し伸べられる手の数は倍だ。三人ならば、もっと増えるだろう。そしてきっと、他にもまだいるはずだ」
 ぎりぎりと軋みを上げて、絡む刃が元の位置へと押し戻されていく。
「俺は信じる。ひとの心根の善きを、俺は信じる」
 暗殺者を気圧したのは、何よりもセイレンの双眸だった。只管に未来を想う強さは、闇に棲まい夜に潜むものには眩過ぎた。
「世界は変わる。変えていける。昨日よりも今日が、今日よりも明日がいい日になるはずだ。必ず」
 また力が拮抗し、そして消耗を嫌って双方が同時に飛び退る。
「……それが、騎士道か」
「いや――」
 半ば呆れたような声に、セイレンはひと呼吸だけ考えて そして結ぶ。
「俺の、道だ」
 暗殺者は、微かに笑ったようだった。その面は、何故か同時に泣いているようにも見えた。
「お前のような奴がいるというのに、どうして世界はこうなんだろうな」
 だらりと暗殺者が両腕を垂らした。投降の意ではない。それは無防備に見えて毒蛇のとぐろに似た剣呑この上ない構えであると、セイレンは知悉している。
 ゆらりとセイレンの剣が上がる。大上段。真っ向からの偽りなき攻撃の型。だがそれはどうにも打ち崩せぬ牙城でもあると、暗殺者は思い知らされていた。
 両名共に疲労の色が濃かった。より速く、より鋭くを求めて機動する分、暗殺者の方が体力の消耗は激しくなるのが道理。だが先の毒素は今だセイレンの体を蝕み、拭い難い影響を齎していた。急激な中毒こそ収まったものの、決して余裕のある状態ではない。
 双方が悟っていた。次の一合。或いはその次の一合。それで、一切合財の決着がつく。
「行くぞ。損ねるな?」
「お前こそ、だ」
 青年が嘯き、セイレンが受ける。ふたりが揃って晴れやかに笑った。
 転瞬。刹那を挟んで、大気が凍りつくような殺気が凝縮する。呼吸、視線、身じろぎ。あらゆる予備動作を見落とすまいと全知覚、全感覚が集中される。
 だが、ここでふたりの決着がつく事はなかった。
「居らしたか!?」
「いや、そっちはどうだ!?」
 複数名の声と足音、そして武具の立てるざわめき。モロクの守備隊だった。
 セイレンは臍を噛む思いだった。彼らの言動はからは、守護していた人物を喪失した狼狽が感じられる。ならば最前暗殺者の口にした通り、モロク王城はセイレンの追っていた男をこそ守っていたという事になる。
 暗殺者もまた、自身の負けを悟った。
 ここでの口封じにここまで固執する必要はなかった。手強しと見た時点で、もう一度姿を隠し逃れてしまえばよかったのだ。
 モロク守備隊など、平素ならば歯牙にもかけぬ雑魚に過ぎない。
 だがセイレンと彼の力量はまさに拮抗。その伯仲の勝負に、新手として加わられてしまったなら。勝敗は、火を見るよりも明らかだった。
 今から退却を目論んだところで望めまい。例え手足の一、二本を置いて行こうとも、この男を抜けられはしないだろう。
 ならば。青年は速やかに覚悟を定める。取るべき手段はひとつだった。暗殺者が毒を使うのは、また速やかなる自決の為でもある。
「行け」
 そこに思わぬ声が聞こえた。目をやれば、騎士は剣を収めていた。
 間違いなく捕らえられるであろう犯罪者を見逃す。騎士としてあるまじき行為だった。
 けれどセイレンは、それが貫くべき己の道だと信じた。
「何をしている。行けっ!」
 躊躇する青年を、セイレンは鋭く叱咤した。
 体を開き、道を譲る。その様は全くの無防備で、青年さえその気になれば、セイレンの喉首を掻き切る事も容易かったろう。だが、彼はそうしなかった。無言のまま走り、闇に溶ける。
 好敵手を見送って、それからセイレンは声を上げて王城の警備兵たちを現場へと招いた。


            *               *               *


 セイレンが城から解放されたのは、次の日の夜も遅くなって事だった。
 聞き込みの最中通りがかった路地で、追っていた相手の死体を発見した。下手人は逃走する背中しか見なかった。騎士団からの逃亡者が死んだ時点で自分の任は終りであり、更に暗殺者を追うのは王城の仕事であろう。
 問われてセイレンが答えたのは一貫して以上であり、またモロク側としてもプロンテラ騎士団の正式な訪問者としてこの地を訪れているセイレンを、疑念だけで拘束し続けられるものではなかった。
 そして、更に明けて翌日。
 忌々しいほどに空は晴れ渡り、日差しも遠慮なく降り注ぐ。
「やれやれ、相変わらずだな」
 苛烈な陽光を、繰り言と悟りつつも咎めずにはいられない。
 逃亡者の死体はモロク側で処理される事となり、セイレンは空身でまたプロンテラへと戻る事となった。だがその前に、ひとつやっておかねばならない事がある。
 旅装を整えて後、難しい顔で露店を眺める行くセイレンの背。そこに、ふと声がかかった。
「奇遇にござるな」
「そうだな」
 彼の出現に、不思議と驚きはあまりなかった。
「何か探し物にござるか」
 知己とでも交わすような親しげな笑みで青年は問う。
「ああ。女の子への土産なんだが、どうにも俺はその手の見立てに疎い。難儀している」
「これはこれは」
「勘違いするな。……まあ、面倒見のいい妹みたいなものだ」
「そういう事にしておくでござるよ」
 言外に色々なニュアンスを漂わせつつ言う彼に、セイレンは顔を顰めた。だがこの類の言い合いは昔から不得手で、どんな相手にも競り勝てた試しがない。
「とまれそういう仕儀なれば、水晶鏡など如何かな? 少々値は張るがモロクの名産。身奇麗にしたい年頃にならば悪いものではござらんよ。愛の伝にならば、薔薇の一輪を薦めるところでござるが」
 道を教える気安さですいと近付き、そしてふっとその表情が消えた。同時に、気配も。目の前にいるのに少し生者の息遣いもない。ただ一個の空白と化したその身は、まるで幽鬼のようだった。
「何故、捕らえなかった?」
「さあ、な」
 暗殺者は、そこで静かに笑った。答えなどないであろうと、元より承知していたようだった。
「お前の道か」
「かもしれん」
 青年は指で示して推薦の品を取り扱う店の方角を告げた。そして用は済んだとばかり、軽くセイレンの肩を叩いてすれ違う。そのすれ違い様に、小さく囁かれた。
「エレメスだ。エレメス=ガイル」
 弾かれたようにセイレンは振り返る。名を明かすという行為が、暗殺者にとってどれほどの重きを意味するのか。無論解らぬセイレンではなかった。
 背を向けたままのエレメスが、視線を悟ったように片手を上げる。それが別れの所作だった。
 やはり一言応じるが礼か。そう思案して口を開きかけたセイレンを押し止めたのは、エレメスの周囲に現れた影たちだった。
「ござる、何の話してたんだよ」
「うむ、大人の話にござるよ」
 出会った時と同じように。あちこちから顔を覗かせた子供たちに、彼はあっという間に取り囲まれていた。
「頭悪いのに無理すんな」
「冷酷非道の誹りにござるな!?」
「だってよー。ござる如きと、あんな立派そうな騎士さんが知り合いなわけなじゃん」
「傍若無人の言いにござるな!?」
 子供達は、きっとエレメスを守りに来たのだろう。見知らぬ騎士と常ならぬ雰囲気で問答する、彼の身を案じてやってきたのに違いない。当然のようにそう判った。自然、笑みが浮ぶ。
 嫌な事件だった。だが、お陰で得たものがある。
 例えば。
 次にエレメス=ガイルに出会った時は、笑って酒でも酌み交わせそうに思えた。
 奇妙ながらもそれは、友情と呼んで誤りのないものだった。莫逆の友とすら呼んで差し支えない感覚だった。
 モロクの風は相変わらず愚痴が出るほどの熱を帯びてはいたけれど。セイレンは心を、涼やかなものが吹き抜けように感じていた。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送