セイレンから立ち昇る、気迫が目に見えるようだった。
 決して大柄とは言えないその身体。対峙した者には2倍にも膨れ上がって感じられるだろうそれは、しかし騎士団随一と評された騎士にとって実力の片鱗にしか過ぎない。
 呼吸を制し、構えた剣を振り上げる―
「…つっ…」
 痛みに動きが止まった。どうも片方の目に、汗が入ってしまったらしい。顔を顰め、手近なタオルを取ろうと腕を伸ばすが。
「あれ…」
 空振り。
 おかしい。あると思った所に何故、ないのか。
「…これ?」
「むぐ」
 仕方なく辺りを探そうと、ひりひりする目を瞬かせながら身体の向きを変えた。と同時に、セイレンの顔を柔らかな繊維が覆った。
「ふふふ」
「ああ、ありがとう」
 カトリーヌの満足げな声。タオルが外されないので礼を言うセイレンの声はくぐもったままだ。
 置いていた場所になかったのは彼女のせいだろう。
 楽しそうにぐいぐい押し付けてくる細い手首ごと、握る。
「まったく…」
 正常な瞳が捉えたカトリーヌは、顔中で成功と語っていた。大した悪戯ではないが、されて面白いとも思えない―違う、悔しいんだ。
「ありがとうな」
「…セイ、レン…!」
 お返しだ、とばかり掴んだ彼女の手を離さず―タオル自身はカトリーヌの手にあるのだ―そのまま汗を拭ってやった。
 タオルに隠れて見えなかったけれど。
 その時のセイレンの口元には、単に仕返しに成功したという喜びだけじゃない、笑みが刻まれていた。



「……身体、ちゃんと…洗った…?」
「失敬な、ちゃんと浴びている。今は、ただ汗を流すだけさ」
 だから、早いんだ。
 驚いたと言いながら疑いの眼差しを投げられ、セイレンはそっぽを向く。
 今日の修練は型の確認だった。実践の動きをイメージしながら、所作一つに神経を集中させ、両手に構えた剣を振る。
 極度の集中からか時間の経過には全く気が回らなかった。カトリーヌがタオルの悪戯をしたのは、始めてから優に2時間が過ぎてたそうだ。
 その運動量に対しては、研究所の通常の換気は追いつくはずも無く。セイレンは顔といわず頭といわず、全身が汗だくになっていた。
 シャワーを浴びるからと、カトリーヌと別れたのだが。
 10分経ったか経たないかの今、着替えの済んだ姿を、別れてからまっすぐ食堂に向かった彼女の前に現していた。
 よく見ると確かに頭は濡れていて、銀糸が一つの房となりその先端からは水滴が落ちている。
 男の人は、これだもの…。…子供と、おんなじ。胸中で呟いてそっと笑う。
 カトリーヌのそんな様子には気づかず、セイレンは髪の水気を拭きとってるべく大判のタオルでガシガシと動かしていた。
「…っ…いて…」
 また、目にしずくが入った。なんなんだ、今日は。
 仏頂面のセイレンの頭上では、「不機嫌」と言う名の小さな渦が巻いている。
 それを見ながらどうやってこちらへ気を向けようか、と思案していたカトリーヌは、ふと気付く。もしかして。
「セイレン…。前髪、少し長いんじゃ…?」
「…そう、か…?」
 その指摘は騎士にとってよほど予想外だったのか。先ほどまでの不機嫌さは無くなって、代わりに疑問符がそこに浮かんでいた。
 カトリーヌは彼の正面に移動して、爪先立つ。
 バランスを取る為に彼の胸に片手を付き、猫のようにしなやかに精一杯伸び上がって。
 セイレンはその突然の動作に息を凝らした。心持ち身体を硬くするものの、カトリーヌのしたいようにさせる。
 彼女から、ふわりと良い匂いがする。時折、この匂いの元を尋ねるのだが、何故かその都度綺麗さっぱり忘れてしまうのだ。―その度に陰でこっそり、俺は頭の中まで筋肉になったのかと独り落ち込んでたりする、のだが。
 まぁ、細かいことは判らないけれども、鼻をくすぐるこの匂い、嫌いじゃない。
 カトリーヌが前髪に手を伸ばし、顔に掛かっている滴の残る髪を掬い上げると、視界がクリアになって―セイレンの銀青色の瞳が現れた。
 それは魔法使い女性の顔の、ごく間近。彼女の漆黒の瞳に映った自分が、見える程。
「ほら…。この長さ…」
 何が嬉しいのか。ちょんちょん、と前髪を引っ張ってくすりと笑う。確かに、視界を邪魔していたのだと納得した、が。
「梳いてあげる…」
 カトリーヌはくるりと身を翻し、歩き出す。
 唐突に―心の準備もなく、カトリーヌの度アップと対面したセイレンは。
「…ああ…」
 ため息のようで、でも違う、なんとも言えない吐息とともに、カトリーヌの後を追うだけだった。




 セイレンを自室へ招き入れたカトリーヌは、所狭しと積み上げられた本の山を器用に移動させてスペースを作る。
 良く崩さないもんだな…。
 彼は一歩だけ中へ入った。ぽっかりと空いた空間―ベッドの場所だけがぽっかり開いている―へ座っていて、と言われたのだが。
「騎士たる者が軽々しく座っていいものじゃないさ」
 そう言って立ったまま、魔法使いの女性の動きを目の端に捕らえながら、彼女の部屋をそれとなく見ていた。
 壁は殆ど本棚となっているようで、様々な厚みの本が並べられていた。
 『魔法構築理論』『魔力の総量と回復量の関係について』『3大魔法の比較』等、およそ彼とは無縁の蔵書のようだった。
 壁面を埋め尽くしただけでは足りないのか、サイドテーブルもベッドヘッドの空いたスペースも、備え付けの机の上にも本や紙が散らばっている。そんな中、涼しげな硝子細工の置物が、点々置かれていた。そして。
 あの匂いだ…
 元となる物があるのだろう―部屋の角にある姿見鏡の付近から、彼女より少しだけ濃いその匂いがしていた。
「セイレン。座って…」
 書物に占拠されていたサイドテーブルと椅子のセットを奪還したカトリーヌから、声が掛けられる。
 本の山に気をつけながら、示された椅子へ腰掛ける。ふと見れば、テーブルの上には鋏と手鏡とタオルが用意されていた。
「用意がいいんだな」
「……私…。髪切るの、結構…得意」
 座ったセイレンの首周りに、手触りの良いタオルが掛けられる。
「あんまり、動かないで…」
 断ってから、カトリーヌの手に鋏が握られた。

 少しずつ、少しずつ入れられる鋏。失った髪は戻らないから、慎重に。
 一度に多くを切ってしまうと均整が取れなくなってしまうから、ほんの少しだけを摘んで、切り落とす。手を離して前髪を梳くとまた別の角度から鋏を入れる。また、全体へ戻して、一掴み。鋏が、動く。
 ぱら…ぱら……
 動くなと言われて、やることも無いセイレンは小さな音と共にタオルに落ちる銀糸を眺めていた。
 バランスを確認するためにカトリーヌの指が、髪を梳き、頭を撫でていく。
 それがくすぐったくて、―幸せで。
 セイレンは我知らず微笑んで、目を閉じた。が、普段と違う何かが意識に引って今閉じたはずの瞳を開ければそこには。
 腕、が。
 邪魔する髪が減った視界に、彼女の白く細い腕が動くのが、良く見えた。角度的に、カトリーヌの顔は自分の目線の上にあるだろうから見えなくて当然。無駄な贅肉はどこを探してもついておらず、でも柔らかそうで。
 微妙な長さの加減に、意識を集中させている彼女はセイレンの視線に気付いてないらしい。
 と、腕が見えるという事実が示すことは。
 ローブを羽織っていないんだ。では一体どこに?
 ほんの、少しだけ。咎められないように首の角度は変えないで、身体全体を廻してみれば。
 高位の魔法使いの象徴、一見黒とも見える濃い茶のローブは、机とセットの椅子の背に無造作に掛けられている。確認を終えると元の位置へと身体を戻す。―美容師に気付かれないように、そっと。
 俄かに沸いた好奇心を満たせば、次に目に飛び込んできたのは華奢な、身体。女性らしい起伏に富んだ綺麗なラインは、まったくの無防備で。普段は晒されることがない鎖骨や、むき出しの肩の白が彼女の身を包む青い衣装とコントラストを描いていた。
 ぱら…ぱらぱら…
 微かに鳴る髪を切る音は、続いている。
 そして、近寄った上半身。セイレンが腕を上げればちょうどその中へ包み込める、そんな位置に。
 カトリーヌが今までよりちょっと奥から髪を梳く為に一歩踏み込んだらしかった。
 とくん…とくん…
 聞こえてきた鼓動はどちらのものか。
 鼓動―心臓、大事な生命の元。目の前の小さな身体にも納められている。暖かい体温が宿っている。
 不意にカトリーヌの、先日の怪我を思い出して。
「…っわ…」
 無意識のうちに腕を廻していた。彼女の鼓動が聞きたくて。そっと胸に耳を当てる。ほんのちょっと早いけれど規則正しい心臓の音。
「…セイレン?」
「傷は、もう…大丈夫なんだな」
 鋏の動く音は止み、代わってカトリーヌの怪訝な声が上から降ってきた。新鮮な感覚だ。彼女の背はセイレンの肩口辺り、なれば声は下から聞こえてくるのだから。
 カトリーヌの鋏を持たない手が、お返しとばかり髪を掻き回している。
 彼にとっては、自分を含めた5人全員が大事な仲間。男女の差はあったとしても、女性3人に分け隔てなどしないのだから。抱きしめられたことには、反応なんてしてやらないんだ。
 偶に起こす行動には、こうやって驚かされるけど。
 わたしを、見て欲しいのに。
 女心に鈍くて、朴念仁で、生真面目なこの騎士には、おそらく怪我をした自分と今の姿が重なって見えているに違いない。
 だからこそ。この抱擁は、カトリーヌの求めているものでもあり、全然違うもので。
「…動くと髪の毛…、首に入るよ…」
 悪戯に小さな胸の痛みを隠して、行動を起こす。肩に掛かかるタオルの上に散った髪に向かって、彼女は大きく息を吹きかけたのだ。切り落とされた小さな針のような銀糸が、舞い。シャワー後のシャツは襟ぐりは大きく開いていて―銀の髪は吸い込まれていった。
「……なっ」
 途端にセイレンの首筋から背中に掛けて、チクチクし始めた。もう、鼓動どころではない、この状況。
「カトリーヌっ!」
 廻していた腕を解き、上を向いて抗議する。なんてことをするんだ。小さな刺激―痛みと痒み。
「動いたから…。ちゃんと大人しく…しなさい…」
「それは…!」
「もうちょっと…だから」
 服を脱いで、肌を刺激する髪の毛―切りたてだから、尖っているんだ―を一刻も早く払いたい。
 騎士としてのプライドと、その一心でじっと我慢をし。
「はい…終わり…」
「助かった、ありがとうな!」
 終了を告げられるや否や、挨拶もそこそこに走り出した。
 カトリーヌの部屋からダッシュで駆け出すセイレンのその姿は、マーガレッタに目撃されていて。
「…あらあらあら…。後で、事情を聞かなくてはなりませんわね…」
 口元に手を当てて爽やかに言った女性の目は実は全然笑っていなかった、のは、また別のお話。




 翌朝、食堂でセイレンをみた4人全員が―エレメスも、ハワードも、マーガレッタも、セシルも、常と変わらない騎士に違和感を抱いた。ほんの僅かなそれは、最初に顔を合わせたその瞬間だけ意識されすぐに無くなってしまう、そんな程度のものだったけれど。
 ―気付かないのは当の本人だけ。
 普段通りに一日が始まる。
 たっぷりバターを塗ったトーストにかぶり付きながら、カトリーヌは満足げに彼を見遣る。
 彼女の好きな、銀青色の瞳が良く見える。
 わたしをたくさん、映してくれるように。これまでよりちょっとだけ、前髪を良く梳いたのは、彼女だけの秘密。






どうして…
どうして、甘くならないんだ……。・゚・(ノД`)・゚・。
甘いの大好きなのに!TT

ここまで読んでくださって、有り難うございました><
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