「兄上ッ!!」
「は、はい!?」

 どばん!!

 と扉が乱暴に開け放たれたと同時。
 滅多に聞けるものではない激昂した妹の声が飛び込んできて、完全に気を抜いて本の
ページをめくっていたセイレンは、咄嗟にいい返事を返して背筋を伸ばした。
 不意打ちに驚いたあまり、危うく取り落としそうになった本をベッド脇のサイドボード
に置きながら、視線を向けてみるとドアノブを握ったまま近寄ってこないセニアがこちら
を酷く睨みつけている。

「・・・・・・兄上」

 ドスの利いた、などと女の子の声に当てはめていい表現なのかどうか。
 ともかく聞いたこともないような低く重い声音で呼ばれて、何だかわからないがえらく
ご立腹のようだと察したセイレンは、下手に動くと斬りかかられそうな威圧感に圧されて
ベッドに腰掛けたまま少し後退った。
 顔を伏せていて表情が見えないあたり、かなり恐ろしい。

「お伺いしたいことがあります」

 聞きたくない。

「・・・・・・な、・・・・・・何だ?」

 などと言える立場ではなさそうで、絞り出すように無理矢理答える。
 変に上擦って掠れた威厳のカケラもない声に自分で激しく落胆するセイレンだが、セニ
アは声色など気にしていないようだった。
 それよりももっと重要な何かが、そう、怒りの原因があるがために。

「これを、ご覧になってください!」

 あれほど普段気を使っている礼儀作法などかなぐり捨ててしまったらしい。
 ばたんっ、と音がするほど乱暴にドアを閉めたセニアは、片手に何か――紙切れのよう
なものを握り締めていた。
 それを腕を突き出して、呆気にとられている兄の眼前に差し出す。

「・・・・・・」

 受け取らずとも、内容は見えた。
 ご丁寧にセイレンからしっかり見える向きで差し出されたそれは、まさかこんなところ
で目撃するとは思わなかったとんでもないもの。

「・・・・・・・・・・・・。」

 それを見つめること、三秒。
 頬を冷や汗が伝う頃、ぎこちなく視線を逸らした兄に、セニアは今まで以上きつく奥歯
を噛み締めた。

「兄上ッ! これは何なのです!?」
「・・・・・・ええっと」
「一体いつどこでこんな!!」
「・・・・・・これは・・・っ」
「兄上がこんな不純で不道徳で不貞な方だなんて!!」
「・・・・・・いや、断じてそれは違ッ・・・・・・!」
「私の目を見て仰ってください! 心当たりがあるのでしょう!?」

 紙切れをベッドの上に放り投げたセニアは、明後日のほうを向いている兄の頬を両手で
挟んで無理矢理正面へと向けさせた。
 鼻先が触れ合いそうな至近距離。
 潤んだ瞳で甘い吐息を向けられたのならこれ以上ない本望なのだが、残念ながら今セイ
レンを見つめているのは、強い憤りに光る鋭い眼光だった。
 見たこともないほど激怒している妹にどう対応すればいいかわからない戸惑いと、それ
さえなければ自分でも彼女に何をするかわからない美味しいシチュエーションで、複雑な
音を激しく鳴らす心臓を宥める。

「落ち着いてくれ、セニア・・・・・・!」

 と言いつつも、内心で叫ぶのは「落ち着け俺!!」。
 普段ならこんな近距離、セニアの方が先に真っ赤になって逃げてしまうのに、今は怒り
でそんなことは飛んでしまっているらしい。

「私は落ち着いていますッ」
「わ、わかった! わかったからそれ以上顔を近づけるんじゃない!」

 強く主張してずいっと身を乗り出してくるセニアの肩を、慌ててつかんで制止する。
 少女の力で大人に敵う筈もないことはセニアもわかっている――それ以上押してこよう
としない妹にほっと安堵して。しかし反面少し残念に思う自分の不謹慎さに、一体いつか
ら自分はこんな不道徳な思考になったのか、と眩暈を覚えながら、セイレンは傍らに落ち
た紙に視線を振った。
 視線を戻すと、セニアはまだセイレンをじっと睨みつけている。

「セニア、その」
「何でしょう?」
「・・・・・・」

 決心して口を開くものの。
 間髪いれず返ってきた声の、何と恐ろしいことか。
 素直で可愛いだけの妹ではなく、こういった攻撃的で力強い一面もあることを、武人ら
しいと嬉しく思ったものの――しかし怖いものは怖い。
 願わくばセニアのこんな面がなるべく自分に向きませんように、と情けない祈祷を神に
捧げながら、セイレンは妹の瞳を見つめ返した。

「何と言うか・・・・・・多分、君が思っていることは、誤解だ」
「誤解?」
「その写真について、君は勘違いしていると思う」

 逃れるための言い訳だと疑ったのか。
 それとも、真っ直ぐに信じてくれたのか。
 多少びくつきながらセイレンが告げた言葉を聞いて、セニアはベッドの上に放り出した
紙切れ――一枚の写真に視線を向けた。

 どこかで擦れたのか、日付はわからない。
 写っている人物は二人だった。
 はっきりと写りこんでいる片方は、男性――ロードナイトの衣装を纏った、間違いなく
これはセイレン。
 もうひとりはセイレンに抱き上げられた、幼いノービスの少女。
 高い高いをするように持ち上げられているため、少女の頭部は写真の上部で途切れてい
て、身に付けている衣装から性別を判断することしか出来ない。
 写真からわかるのは、写っているセイレンが見ている方まで微笑んでしまう程に綺麗な
笑顔で、抱き上げている誰だかわからない少女を見上げていることだけ。

 大変不本意ながら、兄が可愛い女の子――しかもかなり小さな――をやたらと好いてい
ることをセニアは知っている。
 それ故、資料室でたまたま見つけたこれを見るなり、激昂してセイレンの部屋まで走っ
てきてしまったのだ。

「何が誤解なのですか! こんな小さい子供に手を出すなんて騎士の」
「だから根本的に誤解しているんだ」

 およそ、風上にも置けない、とでも続けようとしたであろうセニアの手痛い言葉を無理
矢理遮って、信じてくれ、と目で訴えかける。

「誤解って・・・・・・どう見てもノービスです! この研究所に居るわけがありません、どこ
の子攫って来たときの写真ですか!」
「・・・・・・攫っ・・・て・・・・・・」

 血縁こそないものの、大事に守り育ててきた可愛い妹からこの発言。
 あまりの言い草に一瞬絶句。
 思わぬ人攫い呼ばわりに、騎士として兄として男としてあらゆる意味で激しく傷ついて
内心泣きそうになりながら、それでもセイレンは弁解しようと声を上げた。

「・・・・・・いや、違う! これはっ・・・・・・」

 勢いのまま叫んでしまったほうが楽だったかもしれない。
 誤解が解けたとしても、セイレンにとって恥ずかしい一枚には変わりがないのだから。

「何ですか」

 眉を曲げて、唇を尖らせて。
 ねだるような目で促してくるセニアに、降参して口を開く。

「・・・・・・この子は、君だ」

 ため息も混じっていそうな、本当に小さな声で。

「・・・・・・え?」

 ぽつり、と諦めて口にした兄の言葉に、セニアは大きな目をきょとりと瞬かせた。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・え?」
「だから、これは、君が小さい頃の写真だ」

 一瞬で怒りがすっ飛んだついでに、思考回路まで呆けてしまったらしいセニアに言い聞
かせるよう、ゆっくりと区切りながら囁く。
 少しの間があった。
 ようやく動いたセニアは、目の前の兄とその傍らに落ちた写真とを交互に見比べ始める。

「・・・・・・わ、わたし・・・・・・!?」
「ああ。納得するまで何度も言う、嘘ではないと何度でも誓う、この子は君なんだ」

 そこまで押すと、セニアはもう疑うことを放棄したようだった。
 呆気、と無防備な表情で目の前のセイレンをじっと見つめ。
 それを真っ直ぐに見つめ返されると、突然火がついたように頬を赤らめた。

「えっ、ではこれは、その」
「だから君の誤解だと言っている」
「〜〜〜〜っご・・・・・・ごめんなさいッ!!」

 もう一度繰り返すと、今度こそセニアは顔を真っ赤にして目を伏せた。
 その謝罪を聞いて、セイレンもようやく息をつく。
 要らぬ誤解を招いた写真を睨んでみるものの、しかし写っている自分の――何と言うか
自分はこんな風にも笑うのかとセルフで納得してしまうような――幸せそうな笑顔を目に
して、何だか気が抜けてしまう。
 そして、顔の写っていない小さなセニアではなく、目の前にいる成長したセニアを見る。

「本当にごめんなさい、私まさか、自分だとは・・・・・・」
「そんなに気にしなくていい。・・・・・・君に怒鳴られるのは、もう勘弁願いたいが」
「ご、ごめんなさい・・・・・・」

 勘違いで怒鳴り込みまでした自分を恥じているのだろう。
 顔を真っ赤に染めて俯いてしまったセニアの頭をやさしく撫でてやりながら、セイレン
は軽く苦笑した。

「セニアは昔の自分にまで、ヤキモチ妬くんだな」
「そんなことはっ! これが私だったなんて知らなかったんです!!・・・・・・というかヤキ
モチなんてッ」
「何だ、違うのか」

 からかってみただけではあるものの、こうもむきになって否定されると、それはそれで
結構傷つくもので。
 わざと大袈裟に凹んだ振りをしてみると、赤らんだセニアの目尻に涙が浮かんできた。

「・・・・・・うう・・・っ」

 小さな唇を噛み締めて、涙目でぐっと睨むような上目遣い。
 いじわる、と小さくこぼすセニアの声。
 その近さに、やっとセイレンは妹との距離が鼻先が当たりそうな程の間近だったことを
思い出した。
 少し動くだけで触れそうな目の前。
 意識した途端、じっと見上げてくる潤んだ瞳に視線を囚われる。
 真顔で完全に固まってしまったセイレンを不審に思って少し動こうとしたセニアも、ず
らした視線が兄の両頬をつかまえている自分の両手を見つけて、今までよりもさらに頬を
濃く染めた。
 よくよく考えると、セイレンの手もセニアの肩をつかんでいて、もう一方は髪を撫でて
いたまま頭に添えられている。
 まさに、触れんばかりの――――

「・・・・・・おにい、さま・・・・・・」

 離れようとしたのか。
 ねだろうとしたのか。
 どちらにせよ、甘みを帯びた声を震わせて、セニアが呼びかける。
 絡まった視線は吸い寄せられたように離れない。





 ――が。





「・・・・・・」
「・・・・・・」

 見詰め合ったまま暫し。
 セニアが望んだものは、何も訪れなかった。

「・・・・・・お兄さま?」

 目を閉じた兄がだんだんと眉根を寄せて険しい表情になっていくのを見上げて、どうし
たのかとセニアが狼狽しはじめた頃。

「・・・・・・エレメス。そこで何をしている?」

 ようやく口を開いた兄の言葉に。
 耳にするが早いか、セニアは弾けるように後ろへ飛び退いた。
 両手で真っ赤な頬を抑えて硬直する妹をとりあえず置いておいて、冒頭のセニアの低音
どころではない身も凍るような声でセイレンが唸る。

「いやその。拙者は、セニア殿がただならぬ様子で走っていったものでござるから、つい
つい心配になって――」
「要するに」

 一息区切って。

「最初から見ていたんだな!?」

 ドンッ!!

 と物理的な音と突風を伴って、怒号とともにセイレンの足元から炎にも雷にも似た蜃気
楼のようなものが立ち上った。
 バチバチと音をたてて爆ぜるそれを目にしてだろう、ドア近辺にクローキングで潜んで
いたエレメスが逃げ出す気配。

「今日こそ逃がさん!! いつもいつも何故気付くと覗いているんだ貴様は!!」
「わ、悪気があるわけではないでござるー!!」
「見られた側は気が悪い!! 粛正を受けろ、そこへ直れ、首を差し出せ!!」
「いーやーでーごーざーる――――ッてあぁ投げないで! 槍投げないで!?」
「貴様が止まれば投げん! この手で斬り捨ててくれる!!」
「アッ――――!!!!」

 こうなると、セニアには手が出せなくなるわけで。
 どかんがしゃんと派手に響く激しい破壊音が遠のいていくのを聞きながら、置いてけぼ
りを食らったセニアは呆気にとられたまま兄のベッドに座り込んだ。
 ほっとした気持ちと。
 残念だった気持ちと。
 それ以前の怒りだとか、羞恥だとか、色々綯い交ぜになって胸中複雑。

「・・・・・・うう・・・・・・」

 唇を曲げて、小さくうめく。
 目の前に持ち上げた両手、その手のひらを見つめて、触れていた体温を思う。
 その肩に、その頭に、もう離れてしまったのにまだ触れられているような錯覚を感じる。

「・・・・・・うー。もう・・・・・・」

 すごく期待した。
 すごく期待はずれになった。
 時間が経てば経つ程、明確に思い出されてくるそれらの感情がとても恥ずかしくてむず
痒くて、セニアは我慢ならなくなって両手で顔を覆った。
 その手のひらが、自分の唇に触れて。
 自分の手じゃなくて、触れて欲しかったのは。

「・・・・・・お兄さまのばかー」

 今日ばかりは、大好きなお兄さまでさえ憎らしい。
 いつもなら思わないだろうし、口に出して言うことなんてないようなことを、今だけは
と思いっきり吐き出す。

「剣技ばかっ、どんかん、てんねんたらしっ、期待ばっかりさせてっ・・・・・・!」

 癇癪を起こしたこどものように、握った両手をぶんぶん振って。
 そこまで口にしたところで、セニアは唇を引き結んだ。
 全く思い通りにはならないし、有り得ない程鈍いし、気がつくと余所の子見てるし、ち
っちゃい子大好きだし、気を持たせるようなことばっかり言うし。
 でもそれでも。
 そんな人でも、私は。
 そんなあの人が、私は。

「・・・・・・ううー!」

 八つ当たりするのもらしくなく。
 やり場を無くしたもやもやを抱えて、ぼふっ、と兄のベッドに身体を投げ込んだセニア
は、指先に何か当たったことに気付いてそれを引き寄せた。
 ――それは、例の写真だった。
 幸せそうに、本当に穏やかに微笑んでいる兄。
 幼い自分に向けられている笑顔。

 そういえば、よく考えてみるといつも兄はこんな微笑みで自分を見ていた。
 稽古をつけて貰う合間。
 なんでもない会話の中。
 気が付くとこの微笑みは自分を見つめてくれていた。

 ――写真を通さなければ、気付けないなんて。

 セニアはその写真を見つけたときこそ、破り捨てようかとさえ思った。
 けれど、それがどういったものかを知った今は大事にしまっておこうと思えて、だから
そっと写真を手元に引き寄せた。
 暫く寝転がったままじっと見つめて。

「・・・・・・いじわる」

 いつか本物をください、と。
 写真に口惚けたのは、今度こそ誰も見ていない秘密。




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