ハワード=アルトアイゼンは普段の通り、生体研究所の巡回を行っ
ていた。肩に担ぎ上げた深緋の大斧が、廊下の蛍光灯の和えかな光
を浴び、まるで侵入者の血を求めるように鈍い色で光っている。
「……ん?」
 ハワードはその通路にふと何かしらの差異を感じ、ひたりと足を
止めて見回した。……目線の少し先――角を曲がり、水場へ繋がる
通路。その手前に、何やら点々と血痕が散らばっている惨状が目に
付く。それ自体は別段珍しいことではない。……けれど。
 ゆらり。視界の端で薄桃色の障壁が揺らぎ、それからふつりと途
絶えて再びその空間が現実へと引き戻る。それは、魔術師や聖職者
の使用する高位防御魔法……セイフティウォールの残滓だった。
 セイフティウォールの残滓だって、珍しくはない。彼らのシャド
ウ――彼らと同一の姿かたちを持ち、研究所内で侵入者を薙ぎ倒す
もの――が、冒険者をその刃の錆とした痕跡かもしれないのだ。
 ただ、それにしては様子がおかしかった。
 有るべき筈のもの、即ち冒険者の死体がない。
 リムーバが処理をした……? 否、セイフティウォールが残って
いる程の真新しい戦闘だ。リムーバは確かに有能で作業も早いが、
それにしても早過ぎる。
 可能性としてはまだ冒険者が隠れ潜んでいる、という事だが、そ
れもどうやら無いようで。ハワードは意識を澄ませ辺りへ注意を払
うが、冒険者が隠れている様子はない。二つ目の可能性は、言うま
でもない。……研究所内の者が、傷を負ってしまったということ。


 自然と、足はその血痕の後を追っていた。ぽつぽつと散る紅はま
だ乾いていない。足を引き摺っているのか、僅かに床に擦れた痕も
続いていることからして傷を負った当人は、そう遠くまで行ってい
ないのだろう。
 ……ざあざあざあざあざあざあ。
 通路を駆け足で抜けてゆくと、徐々に耳に届く水路から水の落ち
る音。ハワードは仲間の身を案じて急く気持ちを抑えながら、薄暗
い通路を、血痕を追い走った。
 角を曲がり階段を下り、行き止り――どうやら怪我人は近いらし
い。息遣いのようなものが微かに水音に雑じり聞こえる。水に浸る
階段の目前に来て、それからハワードは足を止めた。否、目が体よ
り先に停止させた。
「……!」
 水辺に、確かにひとがいた。それも、ハワードの知り合い……い
いや、仲間であり。それは相も変わらずどこか褪めた眸で遠くを眺
めている、銀髪の魔術師の女だった。腕からは血がたらたらと流れ
ている痕がある。足も痛めているのか、裸足になって水辺に腰掛、
ちゃぷちゃぷと水に爪先を浸しているようだった。
「カトリーヌ!」
 一拍おいて、ハワードは魔術師の名前を呼んだ。一拍で状況整理
が出来たらしい彼は、ああもう! と呻きながら足早に彼女の元へ
と駆けてゆく。
「……ハワード?」
 更に数拍おいて、その燐美めいた魔術師――カトリーヌ=ケイロン
は白く華奢な頸を傾いで、声の主を見上げた。茫洋とした両の眸が
心配そうに顔を歪めた鍛冶屋の姿を捉え、その頬にも僅かな傷と鮮
血の垂れた痕がしっかりと残っていて、それが見たほどの傷ではな
いにしろ痛々しい。そして足の傷は浅くは無いようで、未だに薄い
紅の流れを澄んだ水へ溶かしている。
 ハワードはそんな彼女の様子に眉根を寄せ、頭……もといふたつ
に結い纏められた髪を乱暴にわしゃわしゃと片手で乱した。
「……ハワード、髪、乱れる……」
 ほんの少し眉間に皺を寄せて、傷を負っていない方の手でカトリ
ーヌは髪を押さえ呻くように呟く。けれどそんな様子も目に入らな
い勢いのハワードは怒りを顕わにした表情のまま、彼女の白い、今
にも手折れてしまいそうな腕を掴んだ。
 その小さな衝動にぴくりと口唇を噛む仕種も、ハワードは見逃さ
ない。
「怪我は、大丈夫か」
「だいじょぶ、……少しポカしちゃっただけだから……」
 ハワードの醸す感情に、戸惑いを覚えたのだろう。カトリーヌは
困ったように眉根を下ろし、それから彼の真剣な様子に口唇を噤む。
 彼女の腕の傷から垂れた血は、グローブをも紅く濡らしていた。
ハワードはその、血の滴るグローブを慎重に引き抜き、彼女の細い
指先を外気へと晒した。彼は自身の腕に巻き止めていた布を解き、
未だ血が収まらないカトリーヌの二の腕を強く抑えるように止血を
施した。
「……ハワード、いたい」
「我慢しろ、マーガレッタの所へ行くまでの応急手当だ」
 ぼやきを軽く諌め、ハワードは次いで水に流したままにしている
華奢な肢へと目を下ろした。すらりと細い双脚。右足の腿に攻撃を
受けたのか、細かな切傷に紛れ、大きな刺し傷がその可憐な白を穢
し、居座っている。その爪先は頼りなげにぷらぷらと水面を揺らし
ていた。良く見てみれば、掴めば折れてしまいそうな程の足首にも
僅かな傷跡。
「……深いな」
「ハンターの罠……それに、騎士が槍」
「……そうか」
 ハワードは怒りを隠しもせずに唸った。仲間を傷付けられて笑っ
ていられる訳もなく、巡回をもう少し早く行っていれば、と悔いた。
 この魔術師は強い、けれどとても脆い。だからこそ冒険者にも良
く狙われるし、怪我をする事も少なくはない。痛くないのか、と怪
我をする度に尋ねるも、彼女は曖昧に濁して笑む。
 じわじわと、彼女の腕に留めた布が血に染まってゆく。その惨状
に、悔しさに強く口唇を噛み締めた。
「ハワード……?」
 ふとその声に我に返り見上げると、カトリーヌのその透明な双眸
が見ていた。
「平気、わたしは痛くなんかないもの……」
 いたくないよ、と囁くように言う彼女の言葉を、信じられる訳も
ない。彼女が幾ら”思念”の属性を帯びているといっても、念を込
めた鏃や聖なる施しのかけられた得物に切られれば、それは痛みを
伴うのだから。
「マーガレッタに診て貰おう」
 ハワードの提案にしかし、カトリーヌは小さく頸を横に振った。
 何故、ともどかしさによる怒りにも似た感情を溢そうとするハワ
ードを宥めかすように、カトリーヌは彼の頬へ冷えたてのひらを滑
らせながら言う。
「マーガレッタは今はMVPの時間――……それに、今は侵入者、いっ
 ぱい来てるから。……だいじょぶ、きみが心配する程、大変な怪
 我じゃないから」
 カトリーヌの静かに宥めるそのやわらかな口調にハワードは戸惑う。
 ”もう、ハワードってへたれなんだから!”
 と記憶の中のないちちスナイパーが喚いた気がして、彼はぶんぶ
んと頸を振って意識を静める。
「なら、部屋まで連れて行くぞ。治療の道具なり、置いてあった筈
 だからな」
「いいよ、きみもMVP行って」
「良くない。怪我してるのに放ってなんかおけるか」
 カトリーヌの、本人はそうと意識しないのだろうがどこか突き放
したような言葉。それらを一蹴し、ハワードは口唇を真一文字に結
んで真っ向から見据え――否、見下ろした。
 見詰め合う眸と眸。片や茫洋、片ややけっぱち。それがどれくら
い続いたろう、ハワードが彼女の視線に根負けし、視線を外した瞬
間。ぱちゃん、と水面が跳ねて、くすくすと笑う声が彼の耳に入った。
「…………がんこ」
 カトリーヌがどこか呆れたように――けれどとても優しく眸を細
め、口端には、滅多に見せやしない淡い笑み。
「頑固。……飯作ってやるから、行くぞ、カトリーヌ」
 片手に斧を担ぎ直し、ハワードは照れたように視線を逸らして立
ち上がる。そんな彼の様子を見上げながらカトリーヌはぽつり、薄桃
の口唇を開いた。
「ハワード、……だっこ」
 両手を広げて頚を愛らしく傾げるその仕種は、普段の彼女とは少
し……ほんの少しだけ異なっていて。
「ハイハイ、――……お姫様」
「……セイレンみたいな台詞回しだね」
 照れだの躊躇いだのは飲み込む。ハワードは自身の斧を見詰め暫
し逡巡、それから間も無く水場に投げ放った。その行為にカトリー
ヌは目を丸くしていたが、それも気にする事もない。ハワードは彼
女の背を抱えると細い脚の膝裏へ腕を差し入れ、そのまま勢いで抱
き上げた。ふわり、カトリーヌの法衣がはためく。
「ハワード、それ、抱っこじゃない……」
 カトリーヌの文句も何のその。
 手負いの魔術師を抱えた鍛冶屋は、慣れ通う通路を沿ってゆく。
お互いに言葉を交わしながら、食堂へと。


 後日談。カトリーヌを抱えている現場をアルマイアに目撃された
ハワードは、何やら照れていたとかいないとか。更には、彼が投げ
た斧をリムーバが拾い、アルマイアへ届け、それを転売しただとか
の噂もまことしやかに流れている。



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