カラン、と、音を立てて握力の消えた右手から錐が転げ落ちた。
 エレメス=ガイルと呼ばれる固体名を持つ青年は、茫洋とした心でその音を聞き届け、壁へと
背中を預けた。彼の胸の中では、まだ温かさを残すセシル=ディモンと呼ばれていた少女の亡骸
が静かに目を閉じていた。

 エレメス=ガイルも、また、目を閉じた。
 次目覚めるときは、今度こそこの糞つまらないシステムを打ち砕けるようになっていればいい
と、願いを込めて。




 首に当たる鋼は冷たくもなければ、鋭くもなかった。もうちょっとまともに研げばいいものを、
と思わなくもないが、そんなことになってしまえば首の後ろでバツを描くように自分の首にかけ
られたそのハルバードが即座に自分の首を切り落とすだろうと考え、彼はやれやれとため息をつ
く。
 自分の手は後ろで回され手錠をかけられ、上半身は脱がされて既にいくらか打撃をもらってい
た。拷問するならするでもう少し巧くやれといいたいところだが、そうなると先ほど考えた状況
と同じことになりかねないので閉口する。

 兵に捕まり、拷問を受け、こうして首にハルバードをかけられているというのに、この研究所
に忍び入った彼の心は凪のように静まり返っていた。
 むしろ、彼の首にハルバードをあてがっている兵士たちのほうが僅かに動揺しているように見
える。所詮は金で雇われた警備団体といったところだ。へまをしたとはいえ、そんな集団にさえ
捕まってしまうとは自分もヤキが回ったのかもしれない。

 しかし、処刑所にしてはここは異質すぎた。
 自分が座らせられている下には赤い絨毯が敷かれ、ぱっと見、血の色をごまかすためにやむな
く赤色を敷いたと言えるほどこの絨毯は安くはない。膝をついてる絨毯は、こちらを弾き返すか
のように弾力があり、これを処刑所に使うとなればおそらくこの研究所の所長の部屋は黄金か何
かで出来ているんだろう。
 彼はこの部屋に違和感を覚えつつ、そして、その違和感の元凶がやってきた。

「……ちっ、くだらない。こういうことか」
「くだらない、とは言ってくれる。よくもまぁ、こんな時期に入ってきてくれたものだね」

 白衣をだらしなく着こなし、顎に生えた髭はとても手入れをしているようには見えない。けれ
ど、その瞳は絶えることない好奇心が常に輝き続け、まるで瞳だけが意思を持つみたいにぎらぎ
らと輝いていて見るものに嫌悪感を抱かせる。
 拘束された彼の前に現れた男、それは、このレッケンベル本社地下に秘匿された生体研究所の
研究所長であった。

「で? 殺すなら早くしろ」

 その所長を見据え、賊である彼は吐き捨てた。

「くくく。死に急ぐか」
「アサシンに向かってそれを言うか。恥はいらん、斬れ」

 そんな彼が面白いのか、くつくつと笑う研究所長。彼の苛立ちは増していく。
 首元を押さえつけられたまま、彼は所長に噛み入るように睨み付けた。

「若造、一つ取引と行こうじゃないか」
「何だと……?」
「取引というよりは、これは一方的なチャンスだ。所詮お前も金で雇われたクチだろう。命が惜
しいんじゃないか?」
「何を言い出すかと思えば……生き恥を晒させるつもりか」

 アサシンギルド、と呼ばれる集団がある。元は武闘派の荒くれ者の集団であったが、時の変遷
と共に金で雇われる暗殺者の集まりとなったギルド。金で雇われることから、彼らを富豪の犬と
揶揄する者も少なくないが、しかし、彼らは孤高を美とし、恥を死とする傾向が強い。
 今捕まって拘束されている彼は、その典型ともいえる人間であった。

「くくく。晒させる、ね。晒せる相手もいないがな」
「……どういう意味だ?」
「ここがどういう施設なのか、知らずに突っ込んできたわけでもなかろう?」

 研究所長の目が、卑しく光る。
 生体研究所。それは、バイオ化学の名声と共に、後ろ暗い噂をあたりに響かせていた。
 曰く、貧民街から人を攫い人体実験に使用している。曰く、各街から武や魔に優れたものを拉
致し、それをベースに何かの実験を行っている。
 そこまで思い至り、彼はぞっと背筋に何かが走るのを感じた。

「……まさ、か。俺を?」
「何だ、てっきり金に目が眩んだ浅ましい犬かと思っていたら。存外に賢いじゃないか」

 大口を開けて自分を見ながら笑う所長を見ながら、彼はまるで人外のものを見るかのような目
つきで所長を見つめた。
 そして、そいつは彼に向けて、ぺらぺらと語りだした。

「ちょうど適任者がいなかったのだよ。いや、何。アサシンの連中は思ったより姿を隠していて
ね。いやいや、本当にちょうどよく来てくれた。いやいやいや、若造、君にはちょっと重要な役
目をやってもらうよ。だから今からいうことを全て覚えたまえ。覚えなければ死ぬだけだ」

 睨む彼の目が気持ちいいのか、おくびも恐れなど感じさせずに言葉を続ける。

「そろそろ五体のモルモットが完成しそうでね。君にはその監視役になってもらう。いやいやい
やいや、気にしないでくれたまえ。当然君も生身のままじゃあない。そんな状態だと、いつ彼ら
の行動の余波で死んでしまうかわからないからね。なにない、ちゃんと監視役としての権限は与
えるよ。ある程度の研究所の行き来の自由を約束しようじゃないか。当然、他の階の監視の意味
も込めてだがね」

 舌を噛み切ろう。
 彼はしんと冷えた頭でそう思った。これ以上、こんなわけのわからない脳内構造を持つ狂人の
戯言など聞いてられない。
 顎を動かす。噛み切るのなら、一度大きく広げなければいけないが――――

「おっと。死なれては困るよ」
「っ」

 後ろから、猿轡にも似た何かを無理やりかまされた。顎を動かそうと頭を振っても、当然のこ
とだが外れる様子がない。
 首筋に鋼がかちかちと当たる。

「やっと捕まえた大事なモルモットだ。自害などされてはたまらんからね……ふむ、君には自傷
防止用のプロセスも組み込んでおくか。後でシステム班に連絡したまえ。ああ、話がそれたな。
すまない、癖でね。いやいや、気にしなくてもいい。ああ、何処まで話したかね。ああ、そうだ、
監視の話だ。彼らの研究データはそれぞれの脳内に埋め込んだインターフェースから装填される
のだけれど、いつ彼らが自我を取り戻すかわからないからね。君はその抑制役というわけさ、
若造。ああ、自我というのは……君に話したところで理解はできないだろうね、省略しよう。簡
単にいうと、早い話が彼らの記憶は全てデリートされているのさ。あるのは、メインクラスに登
録されている外部メモリーだけ。虚構記憶みたいなものと考えてくれたまえ。ああ、このネーミ
ングセンスはどうだと思う? 今私が考えたのだが」

 狂っている。そうとしか思えない。

「君には任務があるから、記憶は残しておくよ。まぁ、ユダというやつだね。皆が仲良しこよし
で普通に生活している中で、彼らを見張るんだ。巧くやってくれたまえよ? 君の態度が怪しけ
ればそれだけ疑心が生まれる。そんなことになっては研究自体がままならなくなってしまうから
ね」

 ハルバードが首筋にがじり、と当たる。いっそこのまま、首を刎ね落としてくれと彼は普段冒
涜している神へと心から願った。そんなプライドも尊厳も何もかもを奪われた生き方を歩むぐら
いなら、いっそこの場で死したほうがマシだ。
 寿命がくるまで生かされ続けるのだろう。それは何年後か、何十年後か。
 しかし、そんな彼のわずかばかりの望みを打ち砕く、非情な声。

「研究は半永久的に進めていくよ。何、安心したまえ。私はこれでももう二百年は生きている。
人間、ここまで極めれば案外無理はないものだね。もちろん、他の研究機関なんぞには漏らして
はいないがな。君らもそのつもりでいてくれたまえな?」
「……っ!?」

 くくくく、という狂笑めいたものを残して、所長は満足げに去っていった。
 彼は項垂れたまま、しかし、その目には明確な殺意を描く。たとえ他の連中がどうなろうと関
係ない。

 アレだけは、殺す。

 自分の尊厳を奪い、プライドを奪い、誇り高き孤高の暗殺者をモルモット扱いするあの薄汚い
人間を、殺す。
 猿轡をかませられたまま、ぎちり、と歯軋りをした。無理やり立たされ、奥の研究室へと運ば
れる。彼は薬によって意識を失う直前まで、まるで抵抗するかのように目を見開き続けていた。




 そこには、尊厳も自由も何もなかった。
 毎日投与し続けられる、彼にはまったく理解できない薬品。次は体の何処をいじれば気が済む
のか、毎日のように全身麻酔をかけられて手術室へと連れて行かれる。金褐色をした彼の目はあ
りえないほど遠くを見渡せるようになったし、彼の肌は動くものの気配を事細かに感じれるほど
鋭敏になった。
 このままアサシンギルドへ帰れば、ギルド内有数の腕の持ち主だった彼は一躍トップに躍り出
れるだろう。けれど、もう自分は帰れない。

「あー、こんなところにいたのね」

 鬱々とした気持ちで廃材の上に腰掛けていた彼は、ふと投げかけられた声に面倒くさそうに振
り向いた。
 そこには、茶に金が薄くかかった流れるような髪を持った少女が、こちらを見てぷりぷりと怒
っている。

「今日の食事当番、あんたとあたしでしょ。まったく、何処いってんのかと思ったわよ」
「……食など、食えれば何であろうと関係ないだろ。お前一人で適当に作ってくれ」
「うわ、愛想ない言い方。っていうか、何であたしが一人で作んなきゃいけないのよ!? あん
たも手伝いなさいっ!」

 ふざけてか本気か、ドンッ、という音を響かせて彼女の周りに赤紫の紫電が帯電した。それを、
彼は冷めた目で見続ける。
 内なる破壊衝動を外気へと放出し、その突撃力を爆発的に高める爆裂波動というスキル。これ
は一部職しか使えない解脱的ともいえるスキルだが、精神構造を改悪されている彼らは自由に引
き出すことが出来た。自分は精神構造は生身の人間のままだから使えないけれど。

「くだらん」
「くだらんって何よくだらんって!? ああ、もう、あんた、そんなんじゃたくわんだけにする
わよ!」
「別にそれでも飢えは凌げる」
「たくわんを敷き詰めて、その上にたくわんのっけて更にたくわん炒めたやつをたっぷりと備え
つけてやるわ!」
「……」

 何でこんなに必死なんだろう、こいつは。
 彼は言外にそういう目をして、目の前で蒼宝玉色の目をした彼女を見つめた。自分の金褐色の
くすんだ目とは違い、抜けるような青空のような色合いを持つ彼女の瞳。いきり立つ度に揺れる
彼女のストレートヘアと、よく似合っていた。

「大体、あんたなんでそんな愛想ないのよ。たった六人の仲間じゃない、もうちょっと愛想よく
しなさいよね」
「俺に情などいらん。ただ、俺であればいい」

 仲間、という言葉を聴いて、彼は鼻で笑いそうになった。
 何が仲間だ。ここにつれてこられ、こいつらは記憶を失っているからいいかもしれない。けれ
ど、自分には命を捨ててでも守らなければいけない誇りがあった。それを奪い取られ、あまつさ
えその仲間とやらの監視任務。
 ああ、そうだ。その監視対象を皆殺しにすれば、俺の任務解かれるのだろうか。

「ああ、もう、その俺っていうの禁止! あんたみたいな辛気臭い顔でいうとセイレンと被るの
よ!」
「何を勝手―――」
「そうだ、あんたござる言いなさい、ござる。忍者っぽいし。ほら、アマツで人気のあの大道芸」

 忍者とは職であって芸ではない。

「貴様、いい加減に……っ!」
「何よ、文句あるっていうの? じゃあ、きりきり働きなさいよ。ちゃんとやんない内はそうい
う扱いだからね」

 こっちの返事を聞かず、すたすたと歩き去っていく少女。
 彼はぎりりと歯軋りをした。ここでもまた尊厳を奪おうというのか、あの少女は。何がござる
だ。あんな絵空事の口調を自分にやれと言うのか。そしてやらなければたくわんのフルコースと
きた。
 まったく、ふざけている。ああ、本当にふざけている。

「……くそっ」

 けれど、食事当番をするぐらいで守れるのならば、安いものだろう。今まで一人で生きてきた
ため食事などには疎いが、これ以上踏みにじられるのも癪だ。
 誰かのために食を作る。今までしたこともないような重荷にため息をつきつつ、彼は廃材から
腰を上げた。

 ああ、今でもはっきりと覚えている。
 初めて彼女と会話したあの日。あの時。あの廊下は。
 まぶしいほど綺麗な、夕焼けで彩られていたことを。




 それから数十年の月日が流れた。彼にとって見れば、その数十年という間のことが重く頭にの
しかかる。
 年を取らない体、消えない記憶。薄れていくギルドのこと。変わり行く、窓の外の世界。他の
皆は景色を見ることがないようプログラミングされている。窓の外の景色を見ることで、自分が
今何年の景色を経ているかを読み取られてはゲシュタルトにつながる、ということだ。一日一日
日付記憶はリセットされ、そして、曖昧な季節感だけが植えられる。何年経とうが何十年経とう
が、彼らにとって見れば違和感が消えるという仕組みらしい。吐き気がする。
 そして、つい最近に自分たちのシスタータイプが完成したらしい。強さなどは自分たちと比べ
るまでもないが、人間の護衛などに使う簡易タイプ。素体に子供を用いるため、貧民街から簡単
に拾ってこれるというコストを重視した設計なのだろう。吐き気がする。
 そして、少女の口癖が「たった六人の仲間」から、「たった十二人の仲間」に増えた。たった
、とついておきながらいきなり二倍だ。いきなり六人の弟妹が出来た彼としては、どう接すれば
いいかわからない。
 けれど、少女たちは違う。記憶の中に、本当に自分の弟、ないしは妹と強制認識されている。
そして、こんな無愛想な自分を慕ってくれる。黒が僅かに混じったこげ茶のお下げの少女も、自
分のことを本当の兄と思って慕っている。

 その感情が、その恋慕が、その親愛が。
 彼にとって、少し、こそばゆい。




 そして、また数十年が経過した。
 別にたいした事件もなく、彼らは十二人の共同生活として割合ここを楽しんでいるらしい。最
近は薬の投与もなくなってきた。
 そして、この生活に慣れ始めている、自分もいた。

「……何してんだ」
「ん? ああ、あんたね」

 食堂のテーブルにだらしなく上半身を投げ出して座っている少女を見て、彼は思わず声をかけ
た。彼女の茶色の髪が、まるで打ち上げられたわかめのように机の上に広がっていた様は、はっ
きりいって何かの魍魎の類にしか見えない。

 もう夜も更け、メンバーはそれぞれ既に自室へと引き上げている。その中で、こいつは一人何
をしているんだろう。

「んー、別に。ただ、何となくかな」
「何となくで悪霊降臨でもやっていたのか」
「何よそれ!?」

 さっきの光景を自分で見せてやったら頷くんじゃないかと、顔をばっと起こしてこちらを睨ん
でくる少女に対してため息で打ち消した。

「あんたこそ何してんのよ」
「……眠れなくてな」

 彼はぼそりと小さい声で答えた。
 眠れない、というわけじゃないのだ。ただ、眠るのが怖い。眠って目が覚めてしまうのが、怖い。
 毎日のように曖昧な感覚のまま歩く彼ら。自分だけは自我を持っているという疎外感。けれど、
その疎外感が、そのままそっくり回転することがある。
 ひょっとして、自分は自我を持っていると「認識されている」だけで、本当は彼らのほうが―――

「へぇ、あんたにもそんな一面があったのね」
「……うるさい。貴様みたいに毎日能天気に過ごしてるよりはマシだ」
「あんた、矢で口を二つに増やしてあげましょうか?」

 沈んでいた気分が、彼女の軽口で少しだけ浮上する。そして、返す自分の言葉も軽口。何故か、
顔を合わす度反発してしまう相手だった。
 彼女の脇を抜け、キッチンへと行く。流し台に向き合ったところで、後ろから少女の声が聞こ
えてきた。

「ねー」
「何だ?」
「最近、あんた丸くなったわよねー」
「……それは誉めてるのか」
「あったりまえでしょ。あんた前は一人で眉間に皺寄せて、こう、しかめっ面で」
「お前みたいな口やかましいのに付きまとわれれば、誰だってそうなる」
「あなた本気で喧嘩売ってる?」

 口やかましいヤツだ、と、彼は心の中で繰り返した。かちゃかちゃとカップを揃え、適当な葉
をつまんでポットへと注ぐ。
 どの葉が何の味かなんて、彼は知らない。ただ、適当に飲めればいいだろう。
 お湯を冷まし、カップへと注ぐ。

「ほら」
「ん? って、珍しいわね」

 未だに若布お化けとなっていた少女の前に、彼はティーカップを差し出した。中には琥珀色の
液体。ソーサーなんて気がきいたものは当然なくて、それでも、彼は少女の前にティーカップを
置いた。
 自分の分のカップを持って、彼女と対面の位置に座る。

「って、わ、苦っ!?」
「何だ、これぐらいで仰々しい」
「仰々しいってあんた……これ苦いっていうか渋いっていうか。よく飲めるわね、これ」
「自分で煎れたものだからな」

 やはり適当に煎れたのが彼女にとってお気に召さなかったらしい。物凄いしかめ面でカップを
口から離す少女は、もはや怒りを通り越して呆れているらしい。そんな彼女に意を介さず、彼は
ずずずと普通に紅茶とは名ばかりの渋い色水をすする。

「あんたねー……女の子にお茶だすなら、もうちょっとちゃんと煎れなさいよ」
「何で俺がお前の機嫌を取るために煎れなきゃいけないんだ」
「気が利かない男ね。それにソーサーもないし」
「あんなものあるだけ邪魔だ」
「だから、それがなってないって言ってるの!」
「ああ、もう煩い女だ」

 ばんばんと机を叩く少女に、彼は片目を閉じて見据える。ティーカップを口元に運びながらの
その仕草は、妙に気障な印象を少女に与えた。
 その視線に当てられて、少女の頬に微かに紅が散る。

「〜っ、そういう仕草が妙に似合う癖に、何で行動は伴わないの、こいつ」
「独り言なら心の中で言え。伴わせる気など毛頭ない」

 妙な空気のまま、彼らは共に紅茶を飲み続けた。少女は渋いだの苦いだの、文句を言い続けて
ばかりいるけれど。
 少女が席を立って「もう寝るわ、おやすみ」といって消えていった食堂のテーブルの上には、
空になったティーカップが二つ。
 それを洗おうとカップを手に取った彼は、カップに残った薄い口紅の色を見つけ、

「……次は、もう少し丁寧に煎れてやるか」

 やれやれとため息をついて、流し台へと向かっていった。




 それは、プライドや自由とは無縁の世界。永遠に繰り返される、閉じた箱庭。けれど、彼は、
段々とそこが居心地のいい場所へと変わりつつあった。
 まだ年端も行かない頃にアサシンギルドに拾われ、アサシンとしての生き方を骨の髄まで仕込
まれた。人を殺す方法、人を殺すときの矜持、人を捨て人の影となった者の、唯一の自分を守る
防衛方法。誇りと尊厳の持ち方。
 それら全てを打ち砕くような、心休まる日々。監視者という、自分はユダの役割だけれど、そ
れでも、彼にとってはあの息詰まる世界を洗い流すかのような日々だった。

 彼はついにその言葉の真の意味を忘れそうになっていた。
 モルモットだという、その言葉の意味を。


 そして、破滅は足音もさせずにやってきた。
 モジュール315―――通称名、【スタンピート】の、実働実験だった。


 そのモジュールは、通称名が示すとおりわかりやすいプログラムコードだった。適任者一人の
封鎖プロパティを解放し、肉体を制御しているステータス値のリミットを解除。結果、その攻撃
力、防御力、敏捷力、魔術力は限界を見せずただひたすらに上昇していく。
 その様はまさに暴走の名を冠するにふさわしく、また、その力の上限を図るには普通の魔物、
冒険者たちなどでは果たすことすら出来なかった。
 だから、その観測データには彼らが選ばれた。―――――仲間と刷り込まれていた、彼らが。

 そして、彼は唯一、観測データには含まれなかった。何故なら、自我があるせいで外部コマン
ド受け付けず、また。
 彼には、監視役と裏切りの二つが、任命されていたのだから。
 彼に与えられたプログラムコードは一つ。暴走者が戦闘データを取り終えた後、その者を、抹
殺せよ。

 馬鹿げた話だった。
 そしてもっと馬鹿げた話が―――対象者が、彼女だったということだ。




 血の海と言うに相応しい現場だった。ただその中で、朱色をばら撒いてなお、茶の色を残す髪を
振りまく少女が一人、立ち尽くしている。その瞳に理性の色はなく、サファイアブルーがブラッディ
レッドに染まり。
 ぎしり、と歯軋りを鳴らした。既に四人は亡骸となっている。共に百数十年を過ごした、仲間。

 仲間以上、仲間以下でもないけれど。けれど、彼にとっては初めて出来た、大切だった四人。
 男色なのか、ことあるごとに自分に襲い掛かる筋肉質だった、胸がすくような気のいい青年。
 生真面目で、けれど自身の妹とインプットされた少女を溺愛し続けた人想いの青年。
 姫気質か、軽やかに我侭を言いながらけれど誰も不快にさせなかった優しい女性。
 寡黙で、けれど皆の均衡を巧くとり続けてきた誰よりも優しかった女性。

 そして――――。
 誰よりも口煩くて、何故か自分に突っかかってきて、何故か一緒にいると何かしてあげたくなる
少女。
 大切だった、一人。

 今、自分に弓を向けている。矢先を自分に向け、弦を絞っている。
 自分を射抜かんと、プログラムされた通りに果たそうとしている、少女がいる。

 ただ、最初は尊厳と自由を奪われたことに、自分の唯一残された自我を奪われたことに殺意を感
じた。
 けれど、その殺意も、怒りも、彼らに触れ合うにつれて少しずつ溶けていった。癒されていった。

 そよ風にすら吹かれて消えてしまいそうな魂で。
 やっと、人と同じような幸せを手に入れたと、思えたのに。

 奥歯を噛み砕こうかというほど、強く、歯軋りをした。
 何故、戦わなければいけない。何故、刃を向けなければいけない。何故、こんな役目を押しつけ
られる。
 握り締めた掌に爪が食い込んで血が流れる。目の前にいる少女を、見つめた。

 赤い瞳から流れ出た涙は、果たして何を意図しているのだろう。

 名を奪われ、外部入力によって名前を決められたセシル=ディモンと呼ばれる少女は、大切な仲
間に向けて。
 少女は彼に向けて、矢を放った。




 処刑される者は、処刑する者には決して敵わない。何故なら、そういう前提なのだから。
 彼は、その血の泉の中で立ち尽くした。その胸の中に、目を閉じた少女を抱きかかえて。

 外部プログラムの強制入力。それによりモジュールを強制停止させ、少女のスタンピートを食い
止めた。元々これは、少女たち検体五名がいずかれのプログラムエラーを発した場合の強制停止モ
ジュールであったが、存外に、このスタンピートにも効力を発揮した。けれど、少女―――セシル
の瞳は、未だに赤を宿したままだった。
 腕の中で気を失っている少女を抱きかかえ、彼は、脳が煮えきれるほどの怒りを胸に秘める。

 殺してやる。所長だけではない。研究に携わったもの、全てを殺してやる。
 手にはめたカタールを握り締める。ナックルガードが彼の拳を傷つけるけれど、そんなこと、関
係はなかった。

 セシルを腕の中に抱いたまま、廊下を歩く。夕焼けが彩ったその廊下は、まるで、血塗れた黄昏
のようだった。

「……ぅ」
「目、覚めたか」

 腕の中でセシルが僅かに呻いた。カツン、とブーツを鳴らして彼はその場に止まる。

「……なんで、こんなところに」
「…………。気にするな、もう一度眠っていろ」

 プロテクトは、既に外されたはずだ。
 記憶も、何もかもを、思い出しているはずだ。
 だから、彼はセシルに、ただ眠っていろと告げた。何も考えるなと、告げた。

「ダメよ。もう、持たないから」
「……?」

 セシルの赤い瞳は、蒼を写していた。
 夕日を受けて朱に染まるも、ただ、蒼を写して彼を見上げる。
 凪を写したようなその瞳を見て、彼は――――エレメス=ガイルは、一つのことを悟った。


「ね、エレメス――――殺して?」


 自分の破壊プログラムは、もう抑制すら果たせていないことを。

「あたし、皆を殺しちゃった。殺しちゃったんだね」
「それは……違う、アレは、俺が」
「……嘘、下手ね。あんた。このままじゃ、あんたまで殺しちゃうよ」

 腕の中の小柄な少女は、自分を包む矮躯な青年に向けて言葉を続ける。

「あーあ……あたしの人生って、何だったのかな。ずっと、セシル=ディモンだと思ってたのに。気
づけばここにいたと、思ってたのに」

 プログラムの自壊が始まっているのに、セシルは彼の胸の中で安心しきった声音で言葉を続ける。
 セシルは、彼の胸から降りた。廊下で、くるっと、ターンを刻むように彼のほうを振り向く。

「どうしようもない人生だったけどさ。それでも、あたしは楽しかった。幸せだった。楽しかった、のに」

 凪のように静かだった彼女の面持ちが、くしゃ、と歪んだ。
 夕日に照らされた少女の瞳は、もう、それが青か赤かすら、わからない。

「人と同じような幸せを望んだのが、そんなに、いけなかったことかな。それすらも、許されなかったの
かな」

 双眸から、涙がこぼれだす。
 夕日に照り返されるその雫に、その純粋な言葉に、彼は動けない。

「……それでも、あんたまでは、殺したくないな」

 涙を流しながら、苦笑した少女。

「全部、知ってたんでしょ? 頭の中に流れてきたから。あんたなら、あたしを殺せるんだよね?」
「……」
「あたしを殺せば、また、日常が戻るよ。オールクリアされるみたい。皆と過ごした日が、楽しかった」

 だから、と、彼女の薄いルージュが引かれた唇が動いた。

「……一人にさせて、ごめんね」

 彼は、もうためらわなかった。一歩で、彼女の目に立つ。
 そして、短剣を――――――心臓に、ねじ込んだ。

「……すまない」
「ばか……謝るの、は、あたしのほうなのに」

 こふ、と、前かがみになって彼女を貫いた彼の鋼色の髪に血がこぼれる。
 彼は、その体制のまま動けなかった。
 少女は、そんな彼を、残った力で抱きしめる。

 まるで、幼子を母親があやすように。

「ね、エレメス……生きて。生きてね。あたしはあんたを忘れてしまうけど」

 命の灯火が消えかかっているはずなのに、セシルは言葉を紡ぐ。
 無理に微笑みながら、その瞳を無理に青に戻して。

「いつか……いつか、このシステムを、壊して。皆を閉じ込めた、このシステムを……壊して。あたした
ちを、守って」
「……ああ、約束する。絶対、お前を守るから」

 髪に、血ではない透明な雫もこぼれ始めた。
 エレメスは顔を上げる。目の前には、自分を抱きしめている、セシルの泣き顔。

「たとえ何度、セシルを殺しても。たとえ何度、皆を血祭りに上げても」

 エレメスは、セシルの小指をとった。それに、自分の指を絡ませる。

「必ず、いつか、皆を、救い出してやる。約束だ」
「次のあたしが、あんたを助けてあげるから」

 抱きしめるセシルの力が弱まるのがわかる。
 それでも、セシルは必死に小指に力を込めた。

「それでもダメなら、次のあたしが……それでもダメだったら、次の次のあたしが、ずっとあんたを助け
るから」

 エレメスの視界がぼやける。
 暗殺者という身に成り下がって十年。非情の心を手に入れて情をなくし、ただ、自分を守るためのプラ
イドだけを引きずって。

「あたしが、ずっと傍にいるから」

 そして、ユダという監視役になって、百年近く。
 そんなプライドよりも、大切なものを手に入れたのに。

「……ねぇ、笑ってよ」
「……何、を」
「あたし、まだ、あんたの笑った顔見たことないんだ。最後ぐらい……笑ってよ」

 人と同じような幸せをつかめたと思ったのに。
 エレメスは、必死に笑おうとした。

「……ぷっ、変な顔……あーあ、あんたのそのしけた顔も見納めか」

 ふっ、と、セシルの体から力が抜けた。あんな短剣一つで、そもそもこのセシルたちを殺せるはずがな
いのだ。
 短剣に仕組まれた、外部コード。彼女たちを殺す、唯一の手段。

 全てのプログラムが壊されていく中、少女の意識は少しずつ消えていく。

「でもさ……あんたの笑ってる顔、嫌いじゃないかな。ずっと、笑っててよ」
「……ああ、約束する。そんなことで、いいなら」

 エレメスは、彼女を再び抱きかかえながら頷いた。
 腕の中で、唇の端から血をこぼした少女は、満足げにその双眸を閉じる。目の端に、涙の名残を滲ませて。

 夕日に照らされた彼女は、ただ、美しかった。

「ね、約束……次のあたしを、よろしくね」

 そう言って、彼女は、二度と目を開かなかった。
 エレメスの慟哭が、廊下を貫いた。





 彼女の亡骸は、せめて外に埋めようと思った。
 抱きかかえたまま、二階へ降り、一階を過ぎ、けれど。


 ――――警告。外部への脱走は認められていません。
 ―――――五秒以内に敷地に戻りなさい。さもなくば、自壊プログラムが起動します。


 脳内に走る、システムメッセージ。かまうものか、と、足を一歩踏み出そうとした。
 けれど、少女の言葉が、彼の脳裏を叩く。


 ―――いつか、このシステムを、壊して。皆を閉じ込めた、このシステムを……壊して


 自分は、生きなければいけない。何をしてでも、どうなってでも。
 このシステムを壊すあてが見つかるまでは――――たとえ、仲間を殺してでも、生き続けなければい
けない。

 彼は踵を返した。少女の亡骸は、自室へと運ぼう。
 そして――――皆殺しに、しよう。

 ああ、そうだ。自分はもう、人ではない。
 エレメス=ガイルではない。ただの、悪魔となろう。ただ、このときだけは。

 窓辺を月明かりがさす。彼の瞳に似た、金色の輝きが。
 その金色は、百人を超す赤い血で、朱を照り返すこととなった。




 目覚めると、自室だった。
 廊下に出る。惨状はまるで嘘だったかのように白紙に戻され、廊下はリムーバたちの手によっていつも
の色を取り戻していた。
 自分の手を、開いて、握る。違和感などない。幾十、幾百の銃弾に体を穴だらけにされて、なお殺し続
けたというのに。体には傷どころか引きつる痛みさえもない。

 全ては夢だったのか、とすら思う。
 だって、その手の感覚を確かめてる彼に。

「エレメス、朝っぱらから何してるのよ、こんなところで」

 投げかけてくる、声。
 その声に背中が震えた。以前なら喧しく聞こえた声が耳朶を打つだけで、涙が出そうになる。

 それをこらえて、振り返った。

「――――セシ、ル」
「……? 何変な顔してんのよ。調子でも悪いの?」
「―――っ」

 覗き込まれる蒼い瞳に、エレメスは言葉と共に感情を飲み込んだ。
 

 ――――ね、エレメス……生きて。生きてね。あたしはあんたを忘れてしまうけど


 残酷すぎる言葉。けれど、果たさなければいけない約束。
 悟られてはいけない。何か悟られてしまえば、きっと、プロテクトが外れてしまうだろう。
 プロテクトが外れてしまえば、向かう先はスタンピートだ。そうなってしまえば、自分は殺さなくては
いけなくなる。仲間の一人が、他の皆を殺してしまわなければいけなくなる。
 殺したくなんて、ない。だから、騙そう。道化になろう。いつかこのシステムを崩す方法が見つかるま
で、道化であり続けよう。

 約束を果たす、そのときまで。
 だから。

 今となっては、遠い声が、耳朶を打った。


 ――――そうだ、あんたござる言いなさい、ござる。忍者っぽいし。ほら、アマツで人気のあの大道芸


「―――――――やれやれ、いきなり何を言い出すでござるか、セシル殿は」
「何よ、人がせっかく心配してあげてんのに。そんなこというんだ?」

 きっ、と睨んでくるセシルに、彼はへらへらと笑みを作った。
 今まで浮かべたことなどなかった笑み。セシルが目を閉じるとき、必死になって浮かべた笑み。
 彼女は、この笑みを好きだといってくれたから。だから、浮かべ続けよう。


 いつか、約束が果たせるときがくるまで。
 何度繰り返してでも、その約束を果たすまで。

 彼はただ、終わらないプレリュードの中で、走り続ける。
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