それは、一方的な殺戮としか言えない光景であった。
 一人対四人。それぞれが同じスペックを持つとして研究所で開発されたインターフェース。
メインクラスと称されたオリジナルを元に、サブクラスで各ステータス値を変更継承され、
インターフェースへと埋め込まれた十二人。
生体研究所と呼ばれる隔離施設で、生み続けられるシステム。
 インターフェースとはつまり外殻。適正者、適正モルモットと呼ばれた元はただの人間。
 それをメインクラスで統合したプロパティと
呼ばれる空間にステータス値が割り振られ、サブクラスで変更継承される。
十二名それぞれに適正となるステータスが割り振られた結果、
完成したオートマンシステム。人などを遥かに凌駕した、もはやヒトではないソレ。
 その一人と、その四人が真正面からぶつかったのだ。それは虐殺、殺戮と呼ぶにふさわしい。
 
 両目は穿たれ。
 足をもぎ取られ。
 頭を消し飛ばされ。
 腕が千切れ。

 結果などわかりきっていた。


 ――――プロパティ・アンチマジックベースステータス申請。認可。
 ―――――プロパティ・アジリティリミットブレイク申請。認可。


 赤紫の紫電がセシルの周りで弾けて、いつも撒き散らしている数倍の密度で舞い上がった。
蒼い蛍火のようなオーラとその紫電は入
り混じって帯電し、血結晶の瞳とあいまって幻想的な美を研究所の一室に描き出した。
 茶褐色の鈍い光を纏った弓を携えて、蒼い蛍火と赤紫の紫電によって巻き上げられた茶色の髪は風もないのに揺れる。
 行き過ぎた恐怖を美と感じるように。セシルは、ただひたすらに美しかった。

 ハワードと呼ばれていたインターフェースが疾走する。
斧を地面に滑らせる下段の構えで、彼我の間合いを詰めようと一息に数メートルの距離をゼロとしてセシルに迫る。
 彼を取り巻くのは、セシルと同じ赤紫の紫電。
 ただ、悲しいかな。セシルが纏っている紫電をイカズチと呼ぶならば。

 彼の纏っているのは、ただの火花にも満たなかった。


 ――――ヒュガッ


 弦が限界まで引き絞られ、弓はその力に耐え切れないように悲鳴を軋ませる。
 ぴん、と張った背筋のまま、狙いを一ミリも替えないでセシルは弦から手を離した。
もはや矢とは言えない、空気を切り裂いて飛来
するそれは星の礫と呼称してもいいのかもしれない。
 セシルへと後数歩と踏み込んだハワードの右の脹脛に、その矢は命中し、

「―――!」

 右足を、付け根から消し飛ばした。
 打ち抜いたわけでもない。その場に右足を縫いつけたわけでもない。
ましてや、いつぞやのウィザードの右腕のように千切れさせた
わけでもない。
 右足を、着弾の威力だけで、跡形もなく消し飛ばした。血と骨と髄液と筋肉繊維が、空中に弾け飛んだ。
 自衛も何もない、ただ猪突猛進な攻撃。自衛と言うプログラムを組み込まれていない彼ららしい、突撃だった。

 ぐらり、とハワードの体が傾く。踏ん張る足を失った体は、ただ重力に従って落ちるしかない。
 セシルの血結晶の瞳と、ハワードの灰色の瞳が一瞬だけ交差した。

 ハワードの体が地に倒れる。セシルは、もう一度、矢を打ち込んだ。
 ハワードの体が血に倒れる。セシルは、もう二度と彼を見なかった。

 ハワードが倒れても、彼らは色を失った灰色の瞳のまま表情を変えない。
次はセイレンが来るのか、それとも同時に動くのか。セイ
レンの刃が鯉口を切り、だらり、と両刃の刃を両手で握り締めた。
カトリーヌの杖が、すっと中空に浮かぶ。マーガレッタの両手が祈
るように胸の前で握られる。
 誰もが曖昧な表情を浮かべ。目は一様に空虚で。そして、同時に動いた。
セイレンは前方。カトリーヌは左方。マーガレッタはその
後方。自衛など考えることもなく、ただ、セシルを攻撃するためだけに突撃してくる三人。

 いい、的だった。
 セシルは、何の表情も浮かべずに、迎撃した。
 
 それは――――殺戮と言っていい、光景だった。




 絶対時間で言えば、五分も満たなかった。
狭い研究室に立ち込める物凄い血臭の中で、眉根一つ寄せずただ佇んでいた。弓は未だ鈍
く輝き続け、茶の髪はもはや原色の赤にしか見えないほど血で変色し。
 かすり傷負わず。全身を、自身の血ではない赤で真っ赤に染め上げて。

 セシル=ディモンはただ立ち尽くしていた。
 彼女の足元には、もはや誰のものかもわからないインターフェースの欠片が転がっていた。
だが、その欠片を付け合せても四体のインターフェースは生成出来ないだろう。
ほとんどの血肉はセシルの一撃によって撃ち抜かれ、消滅した。
 リストバンドはだらしなく、セシルの両手首にぶら下がっていた。


 ――――戦闘データ回収。モジュールコード342起動。


 脳内に響くシステムメッセージが煩い。こぽぽ、と、後ろの培養庫で自分が気泡を吐いた気がした。
 紫電はぱちぱち、と名残惜しげに火花を上げて消えていった。
蛍火だけは未だ消えず、セシルの周りに浮遊している。
 そしてまた、脳が―――システムサーバーが語りかけてくる。


 ――――データ不足。サーバーへの接続を除去。
 ――――データ要求。固体認識ナンバー、02-5261。

 ―――固体名、エレメス=ガイル


 システムメッセージの声を受け、セシルは冷たい灰色のタイルの上を歩く。
もはや誰の血かもわからない血液が靴底に付着し、歩く度に水面を歩くようにぱちゃぱちゃと音が鳴り響いた。
普通の血液みたいに粘つくこともなく、それはまるで真水のようにセシルの歩く音と同化する。
 セシルは要求メッセージの声に答え、最後の一人を探しにこの部屋を出ようと、肉片をまたぐ。
 湿り気を帯びた音が、狭い研究室内部に響く。

 ――――ピチャ、パシャ、パシャ
 ―――ピチャ、パシャ、パシャ、ピチャ


 靴音が、水音が反響――――否、重複していた。


 ――――チィンッ


 咄嗟に持っていた弓で、自分の首元を防いだ。本能に近いその一瞬の動作は、
しかし、
刹那の相手の凶刃をすんでのところで弾き返す。
鈍色に光る弓に僅かに切り傷が走り、そしてその銀色の刃が虚空に霞む。
 薄暗い闇に同化していた、黒い影が一気に間合いを広げて後ろへと跳んだ。

 ドンッ、と、セシルの周りに再び赤紫の紫電が燈る。
探す手間が省けた、とばかりに、その瞳は緋の色を濃くする。
血のように赤黒い色から、純粋なる赤へと。朱へと染まっていく。

「……せめて一撃で、と思ったのでござるが。叶わぬでござるか」

 鋼色の髪はセシルのオーラにあてられて、彼女の弓のように鈍く光を反射し。
 黒銀の戦闘装束は、彼の矮躯を闇に同化させるように暗く包み込み、
赤錆色のスカーフだけがセシルの波動に揺らめき。
 その金の両目は、闇夜で輝くを失うことなく、光の性質を無視して爛と輝いていた。

 矢を番える。緋色の瞳で、激情さえも浮かべなくなったその瞳で目の前に立っている彼を見据える。
 変わり果ててしまったセシルを前にして――――エレメス=ガイルは、ただ、寂しそうに笑った。
 他のメンバーのように外部プロセスに支配されることはなく、
 その瞳の色を失うこともなく、感情を失うこともなく、
 ただ、セシルの前でヴァリアスジュルを身につけて寂しそうに笑っていた。

 そして、彼の笑みに何も答えず。
 ただ、セシルは矢を放った。


 エレメスは何も抵抗せずに、ただ、矢の前に左腕を突き出した。


 鋼と鋼が奏でる協奏曲は、たった一瞬で静寂を取り戻した。
 左手に嵌められていたヴァリアスジュルは、
 合計四枚の刃を余すことなく全てぶち破られ、ナックルガードの刃すらも打ち砕かれた。
 そして、矢は左腕に到達する。
 矢が肉を穿つ音が聞こえる。矢が骨を砕く音が聞こえる。矢が血を撒き散らす音が聞こえる。

「……っ、く、ぅっ!」

 カタールが粉砕されることで威力は消していたのか、矢はただ掌を貫通しただけで止まった。
脂汗がエレメスの額に浮かぶが、彼は苦悶の声を少し漏らしただけで笑顔を消さない。

 けれど。
 人一人の体のパーツを一撃で粉砕するセシル=ディモンの矢が、
 たかが鋼であるカタールを打ち抜いただけで、その勢いをとめるのだろうか。

 セシルは自分の疑問に首をかしげ、再び矢を番える。
 エレメスは、矢が突き刺さった掌をこちらに向けたまま、動こうとしていない。

 ただ、笑顔を向けていた。


 ――――ヒュガッ


 矢は、彼の右頬に裂傷を作りそのまま後ろへと流れていった。
 螺旋階段の奥の壁に突き刺さり、まるでクレイモアトラップを壁に投げつけたような大きな爆発音を奏で上げる。
 ―――彼には、命中していない。

 首をかしげ、番える。


 ――――ヒュガッ


 首をかしげ、番える。


 ――――ヒュガッ


 首をかしげ――――

「……もう、いいでござろう?」

 優しさの欠片もない、ただ静かな言葉。
 いつも彼が浮かべた笑顔のままで、彼は優しくない言葉をセシルに投げかけた。
 数十本目となる矢を放ち終えたセシルは、その言葉に、ぴくり、と両肩を震わす。
 矢はやはり彼に命中せず、近くにあった端末に突き刺さり爆発させた。
 自分の右腕にまきつけていた赤錆色のスカーフの切れ端が、射出の反動で踊るのが見えた。

 エレメスが一歩、動く。退路ではなく、前に。セシルは知らず、一歩下がった。
 彼の赤錆色のスカーフが揺れるのが、見える。自分の腕に巻かれたスカーフが、目から焼きついて離れない。

 声が響く。システムメッセージではない、声が。

 ――――今すぐには解毒剤は作れないでござるから……気休めでござるよ
 ―――*に情な**らん。ただ、****ばいい。

 その声はとても朧だったけれど。


 ――――――――――ジジジジジジジジジジジジジジジジ

 ――――――いや、あー……そう、でござるな
 ―――――あ*、約**る、*対*お前**るか*


 その声は、何故かとても懐かしく思えた。


 ――――――――ジジジジジジジジジジジジッ!
 ――――システムエラー。メインモジュールに致命的なエラー。

「っくぁ、うぅっ……あぁぁああああっっ!」

 からん、と、弓を取り落とした。
 額が押しつぶされそうなほどの圧迫感を感じて、セシルは初めてその瞳に苦悶の色を浮かべる。
 そのまま、頭痛に耐え切れないのか、自分の体を抱くようにしてしゃがみこんだ。
 それでもセシルは、両の手で頭を押さえることはなく。

「………セシル、殿」

 突然の変化に驚く、というよりは、彼女が一生懸命に握っているものを見て、
 エレメスは呆然とした面持ちでセシルを見つめた。
 矢が貫通した左手を、ぶらりと下ろす。
 セシルは、右腕に巻きつけられたそのスカーフを、精一杯握り締めていた。
 まるで何かにすがるように、頭痛など放棄してスカーフの端を握り締めていた。

 右手が、何かを求めるように、宙を彷徨う。
 その姿が、エレメスの記憶を無理やり掘り起こした。


 ――――**あた*が、あん**助*て*****。


 脳裏に浮かんだ旧い記憶を無視し。
 エレメスは、右手を握り締めた。


「セシル殿、セシル殿!」
「…………ぅ、ぁっ……っ!」

 セシルの下に駆け寄ったエレメスは、彼女の小柄な体を精一杯抱きしめた。
 虚空を彷徨うセシルの右手が、エレメスの背中に回される。
 けれど、顔は苦悶の表情を浮かべたまま。声は未だ、苦痛を漏らし続ける。
 何かに耐えるように、しがみつくように、エレメスの背中に爪を立てた。


 ――――封鎖メモリー抵触。プロパティセットは要求外です。
 ―――――――システムエラー突破。プロパティセット。値リセット。


「エ……レ、メ……………ス?」

 エレメスは歯噛みして、セシルの体を一度離し、そして。
 セシルの唇を、奪った。


 ――――――外部強制プログラム確認。コード【牙 - ヴェノム】。
 ――――――――プログラム【ルドラの弓】、実行停止。
 ―――――モジュール315【スタンピート】、実行停止。


 パキン、という軽い音を立てて、脳の中でソレは砕け散った。
 ふっ、と、瞳の色が抜け、セシルはぼうっとする頭で目の前の景色を読み取り、

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」
「……プロテクトが解けたのでござるな」

 目を見開いて驚愕するセシルに気づいたのか、エレメスは唇を離して安堵の息をついた。
 セシルの緋色に染まった瞳は元の蒼色を取り戻し、頭痛によってあふれ出ていた涙が目じりを僅かに濡らしている。
 その目には、弱弱しくはあったが、理性の灯が燈り始めていた。
 エレメスはもう一度、セシルを抱きしめた。
 セシルは先ほどのキスのショックが抜けていないらしく、
 呆然としたまま、エレメスの肩に顎を乗せて彼のスカーフに鼻先をうずめた。
 久しぶりに、エレメスを感じた気がする。その安堵に、セシルの力からこわばりが抜け、そして。


 辺り一面を濡らす、血の海に、気がついた。


「……あたし、は」
「………セシル殿?」
「あたし、が……………皆、を」

 セシルの異変に気づいたエレメスが声をかけるが、セシルにソレは届かない。
 ただ、エレメスの背中の向こうで自分の血に染まった両手を見つめ、震えるように言葉を続ける。

「皆を、撃ったんだ」
「セシル殿、それは……っ!」

 それは違う、と言おうとして、エレメスは唇をかみ締めた。
 そう、違わなくは、ないのだ。
 全てがシステムによって組み込まれたこととはいえ、彼女がやったことは、リアルとして辺りに散らばっている。

「セイレンを、撃った」

 同じ食事を食べ、

「ハワードを、撃った」

 同じときを過ごし、

「カトリーヌを、撃った」

 同じ場所で生活した彼らを、

「マーガレッタを、撃った」

 撃ち、殺した。

「……考えたら駄目でござる。それは―――」
「……っ!」

 セシルは無言でエレメスを突き飛ばした。
 突然のことで対処が取れず、エレメスは矢が貫通したままの左手で地面をつく。
 左手に走る激痛。そしてそのせいで、セシルは気づいてしまった。


 自分が、彼にまで矢を向けてしまったということを。


「……あたし、あんた……にも」
「気にしないで、いいでござる。拙者の傷など」
「い、いや……いやっ!」

 瞳に写るのは、ただ、恐怖。その恐怖が、誰に向けられているかなど―――エレメスには、わからなかった。
 セシルの瞳はそれ程までに、恐怖で濡れていたのだから。

「セシル殿……っぐ」

 疼く左手に顔を顰めてるエレメスの横を、セシルはおぼつかない足で駆け抜けた。
 一度も後ろを見ないまま、エレメスを振り返らないまま、彼の横を走り抜けていく。
 エレメスは、左手に突き刺さった矢を、引き抜いた。

「っ……皆」

 セシルがいた向こう側にいる、血の海を見つめた。
 横たわっている、四人の亡骸。自分とは違い、外部プログラムによって検体として動かされた、仲間だった四人。
 ただ一人、ユダとしてあり続ける彼は、その四人に向かって僅かに黙祷をささげ、

「……一人には、させないでござるよ」

 ――――終わらせなければ。
 ――――――約束を、守るために。

 セシルの下へと、走り出した。
 彼女から奪ったキスは、ただ、血の味がした。




 廊下には、眩しいほどの夕日が差し込んでいた。薄暗い廊下を違う色が支配する唯一の時間。
 いつかの夕方。あの時、二人並んで窓の外を見たときのように。

 待っていたほうは違うけれど。
 セシルは、そこにいた。

「……」

 カツン、と、エレメスはブーツを鳴り響かせた。
 その音に肩を震わせ、セシルはそこに座り込んだままこちらを見ない。
 顔を膝の間に俯かせ、まるですがりつくかのように左手でスカーフの端を、
 そして、両手首のリストバンドを外し、右手でそれを握り締めていた。

 エレメスはカタールを外していた。
 左手は自分のスカーフを切り裂いたのだろう、セシルと同じく簡易包帯として矢傷に巻きつけられていた。
 貫通したがゆえに力が入らなくなったのか、手を縛り付けてる印象すら伺える。
 四人を射殺したセシルの前に立つには、あまりにも無防備ないでたちで、エレメスは血塗れたセシルの横に立った。

 二人を、斜に差し込む夕日が照らす。

「―――セシル殿は」

 エレメスから投げかけれた声に、セシルは肩を震わせた。エレメスの顔を見れない。彼の姿を、見れない。
 彼女の脳裏に、あの研究資料が強制的に記憶から呼び起こされた。悪魔、と書かれた表記。金色の、黒の悪魔。

 悪魔はエレメスなんかじゃない。
 ――悪魔は……自分じゃ、ないか。
 何かに支配されていたとはいえ、仲間四人を殺した。その動いている自分を、ずっと、心の奥底から見ていた。
 知らない振りを使用としていた。けれど、さっき、気づいてしまった。
 呆然と、眺めていた自分を。眺めるしかできなかった、自分を。

「夕日を見れないんでござったな」

 まるでいつもの世間話のように投げかけてくる言葉に、セシルは声を失った。
 エレメスの声音はいつもと変わらなくて、セシルは訳もなく泣きそうになる。
 彼が隣に来て、何を言われるのだろうと思っていた。
 あの血の海を、四人の残骸を見て、それで彼は自分をどうやって責めてくるんだろうと思った。

 ――――そして、自分を殺しに来たんだろうと、思った。

「こんなに綺麗な夕日でござるのに……皆は、見れないんでござったな」

 エレメスは滔々と語りかける。橙で鮮やかに彩られた廊下を見ながら。

「……夕日なんて、壁で見えないじゃない」

 セシルは、俯いたまま言葉を返した。壁に阻まれ、薄闇で満たされた廊下を見ながら。

「……そう、でござるな。そうやってプログラムされたのでござるから」
「エレメス……?」

 ふと、その言葉は耳の奥に残った。
 思えば、エレメスが研究室に入ってきてからずっと違和感を感じていた。
 襲撃してくるときに、姿を隠していたのにも関わらずこちらに存在を感づかせた行動。
 皆が外部システムに制御されていたのに、彼だけは自意識が確立していたこと。
 そして、外部システムに制御されていた自分が、彼を殺せなかったこと。

「……エレメスは、何を知ってるの?」

 ――――何より、まるで、全てを知っているかのような口ぶりをすること。

 見上げられた視線に、エレメスはやわらかく微笑んだ。

「……全て、でござるよ」
「知って、たんだ」

 セシルは、リストバンドを握っていた右手の力を強める。

「―――――――じゃあさ、教えてよ」

 ブルーサファイアの瞳で見上げながら、セシルは、呪うようにその続きを口にした。


「あたしって、誰?」


 二人の距離は、十センチにも満たない。
 昨日の夕方、二人で流し台に立って一緒に料理したのと、同じ距離のはずなのに。
 隣で立っている彼が、セシルには遠く感じる。エレメスもまた、同じように感じていた。

「ねぇ、あたしって、誰なの? 本当に……ほんとに、セシル=ディモンなの?」
「……これで、五千回は超えたでござるな」

 返ってきた言葉は、セシルの求めていた答えでなく。

「セシル殿に、そうやって訊ねられるのは」

 予想だにしなかった言葉であった。

「……え?」
「もうプロテクトは外れたのでござろう? だったら、訊かずともわかるはずでござるよ」
「―――っ!」
「セシル殿の本名は拙者も知らないでござるよ」

 けれど、と言葉を続ける。

「そなたは、セシル=ディモンでは、ござらんよ」

 ―――ああ。
 セシルは意図的に目を逸らしていた記憶を、引きずり出した。
 右手で握り締められたリストバンドがこすれあって、かちゃかちゃと、音が鳴る。

 それは、遠い遠い記憶だった。
 背が高く、けれど体の線が細かった父。そして小柄ではあったが、優しくて力強かった母。
 そしてその中で生まれた、たった一人の子供。
 弓を好み、幼い頃からその道で名を馳せた、富豪の家で生まれた少女。
 それが、あたし。****=***。
 名前が思い出せない。父の顔も思い出せない。母の顔も思い出せない。
 編んでもらった毛糸のマフラーも思い出せない。
 ただ、リストバンドを握り締める。二人から遺された、唯一のもの。今まで、肌身離さずつけていたもの。

 それはここにつれてこられるまでの記憶。
 モルモットにされる前の、大切な記憶。
 今まで封じられていた、大切だったはずの記憶。もう色あせて細部は思い出せないけれど。
 それでも、本当なら忘れてはいけなかった、大切な記憶。

 けれど。そう、じゃない。
 セシルは、涙を浮かべた眼差しを、エレメスへとぶつけた。

「じゃあ、誰なの?」
「……? だから、セシル殿は――――」
「違う! ここにくるまでの話じゃないっ!」

 困惑したエレメスが返す言葉に、セシルは大きく首を振った。
 全てを知っている、と答えたはずのエレメスがうろたえている。
 きっと、自分は知ってはいけない何かを知ってしまったのか。

 訊いてはいけない質問なのかもしれない。
 けれど、セシルは止まれなかった。

「――――――あんたと約束を交わしたあたしは、誰なのっ!?」
「――――――――っ!?」

 エレメスが絶句するのが、わかった。
 彼の金褐色の両目は困惑に揺れ、普段から張り付いていたへらへらとした軽薄な笑顔が消え去っていた。

「あそこは、何処なの? ねぇ、何であんな記憶があるの? あれはいったい、誰なの?」
「……何で、それを」

 エレメスの声が掠れていた。

「わかんないわよ、そんなこと。こっちが訊きたいわよ! それに」

 セシルは涙を隠すことさえせずに、ただ、泣き崩れていた。


「……約束の内容、思い出せないのよ……っ!」


 血の海の中で。
 彼を抱きしめて。
 血に染まりながら、交わした約束。

 血の約束。


「あたしは……あんたと、逢ったことが、あるの?」
「……セシル殿」

 エレメスは、セシルの横にしゃがみこんだ。片膝をつき、彼女と目線をあわせる。
 エレメスの左手に巻かれたスカーフと、セシルの右腕に巻かれたスカーフが触れ合った。
 二人の視線が交差する。セシルは、弾かれたようにエレメスの胸に飛び込んだ。

 朱で染められた茶色の髪が、宙を泳ぐ。 

「もう、わけがわかんないよ……」
「……」

 自分の胸の中で泣きじゃくるセシルの頭を、エレメスは優しく右手で撫でつけた。
 撫でる度に、指を梳く度にいつもの絹のような手触りではなく、
 乾き始めた血がぱらぱらと剥がれ落ちる音がするけれど。
 それでも、この光景は、エレメスの記憶を疼き続ける。

「……ねぇ、どうしてこんなことになっちゃったの?」

 自分が、あんな古文書を解析してしまったから。
 エレメスを疑いたくないがために、自分一人で行動したから。
 その結果が、四人の死。
 日常の崩壊。

「エレメスは、いつも」

 己を呪う言葉を心中で吐き続け、それでもセシルは、求めるようにエレメスを見上げる。
 求めているのは、果たして、

「……いつも、誰を見ていたの?」

 救いか、断罪か。

「……」
「……黙っちゃうんだ」

 エレメスはそれでも、髪を梳くことをやめなかった。撫でるようにセシルの髪を梳き続ける。
 その感触に、セシルは、全てを投げ出して身をゆだねてしまいそうになる。
 その甘い誘惑に、飲まれてしまいたくなる。

「……セシル殿」
「……何?」
「全ては、悪い夢でござるよ」
「…………夢?」

 涙でくしゃくしゃになった顔に疑問を散らす。
 エレメスは、そんなセシルを見ながら、にかっと笑った。

「そ、夢でござる。ほら、今が今まで、全てが変なことばっかりだったでござろう?」

 セシルを胸に抱き寄せ、エレメスはセシルを視線から外した。
 あのまま、セシルの涙にぬれた瞳を見続けていたら、おそらく続きはいえなかったから。

「だから……今は、眠るといいでござるよ。起きれば、全てで元通りでござるから」

 おそらく、続きはやれないだろうから。
 エレメスは、右手甲の中から、先端が直径数ミリもない細い刃物を取り出した。

「だから――――」
「……待って」

 すっ、と、セシルの首元に刃を持っていったとき。
 セシルは、静かにエレメスの言葉を遮った。

「……最後に一つだけ、教えて」
「……なんでござろう?」

 エレメスの行動なんて、セシルには初めからわかっていて。
 それでも、彼に殺されるなら、と、最後の居所を彼の胸と決めて。

 だけど、これだけは聞かなければ、いけなかった。

「……何回、あたしを殺したの?」
「……………セシル、殿。どうしてそれを」

 動揺を消せばよかった。さっきみたいに、
 笑顔を浮かべて何のことでござるかな、と、全て打ち消してしまえばよかったんだ。
 それでも、胸の中で震えるセシルに、彼はこれ以上嘘をつけそうにもなかった。
 右手で握り締めている錐で自分の首を貫けたら、果たしてどれほど楽だろう。
 この目の前でおびえる少女に最後の凶刃を突きつけないで済む結末があったら、どれだけ救われるのだろう。

 けれど、それは叶わない。
 だってこれは、再現なのだから。
 何千回と繰り返した、悪夢なのだから。

「……言えないでござる」
「皆と共謀だったの?」
「……言えないでござる」
「……そっか。独りだったんだね。ずっと」

 拒否を否定と受け取り、けれど、それは彼にとってはどうしようもない真実で。
 何百回何千回と繰り返し続けてきた悪夢の渦中にいるエレメスにとっては、
 その言葉は、未だに身を切るほどつらい言葉であって。

「ねぇ、エレメス」
「何で、ござろう」
「あたしが、助けてあげるから」

 その言葉に凍りついたエレメスの胸の中で、セシルは言葉を続ける。
 肩は震えたままで。未だに涙は止まらなくて。
 彼に殺される恐怖心もあるけれど。全てがわからないままの恐怖心もあるけれど。

 今言っておかなければ、もう二度と、同じ言葉は言えないと思うから。

「あたしが今ここで死んでも、次のあたしが、それでだめなら、その次のあたしが」
「……」
「ずっと……あんたが終わるまで、隣にいてあげるから」

 けれど、今言わなければいけないと思うのは、きっとセシル=ディモンだけではなくて。
 その前の彼女も。その前の前の彼女も。メインクラスに登録されているオリジナルの彼女でさえ。

「だから……泣かないで?」

 くしゃくしゃの泣き顔を上げたセシルに、エレメスは何とか笑おうとした。
 けれど、頬は変に引きつるだけで。歯を食いしばった先に上からこぼれてくる涙が口にこぼれてきて。
 けれど、エレメスは笑った。非情の心を手にし、ユダの烙印を押された彼は、必死に笑おうと心から頑張った。

「……んっ」
「……っ!?」

 そして、今度は自分から唇を奪ってやった。

「……ね?」
「泣いてなんて、ないでござるよ」
「うん……うん」

 覚悟は、できた。
 彼の首に両手を回して、スカーフに鼻先をうずめる。
 しなだれるように押し付けた体は、胸が彼の体に触れてしまうけれど、
 それでもセシルはかまわずにエレメスへの抱擁を強くした。
 首の後ろで回した手の中に、スカーフの端とリストバンドを握り締めた。これだけは持って逝こうと、決めた。

 自分の背後で、動く気配がわかる。
 ぎゅっ、と、目を閉じた。

「たとえ、何度セシルを殺しても」

 その声は、今までのどの笑顔よりも。

「たとえ、何度皆を血祭りに上げても」

 その声は、今まで聞いたどの声よりも。

「それでも、俺には果たさなければいけない約束が、あるんだ」

 その声は、今までの彼のどの表情よりも。

「……絶対にお前を守るから。絶対に、助け出すから」

 その声は、ただ、優しかった。
 だから、心臓に刺さったその刃も、ただ、優しくて。

 セシルは眠るように、ただ、一つだけ思った。


 彼に好きだということを、伝えそこなったな、って。




 まどろみの中で、時折、窓の外を眺めることがある。
 研究所に備え付けられた宿舎の窓は、形だけは存在するものの絶対に開くことはない。
 外的からの侵入を防ぐためだとか、色々とそういう理由を説明された記憶もあるけれど、
 早い話が自分たちをここから逃さないためだろう。
 今更逃げる気なども起きないし、自らここへきたのだから、郷愁の念ももうとうに薄れてしまった。

 ただ、一つだけ思うのが。
 この窓の外に、まるで隔離するかのように聳え立つ灰色の壁の向こうの夕日の色は――――
 今も変わらずにそこにあるのだろうか。

 ただ、そんなことを、まどろみの中で、思う。
 覚めないまどろみの中で―――セシル=ディモンは、ただ、思い続ける。
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