その歌声は、いつから聞こえるようになったのだったか。


澄み渡った高い声。
心の震える切ない揺らぎ。
凛として、しかし穏やかで、やわらかい女声。
独特の旋律と祝福の祝詞が、薄暗い研究所の中に玲瓏と響く。

繰り返される生命実験。
神々の領域に手を伸ばす傲慢な研究。
こんな場所にはとても不釣合いな、神性を帯びた歌。

青白い不安を煽る光。
暗い昏い部屋の中、頼りないが唯一の光。
白い指先が、すっと撫でるように動く。
触れられるわけもなく虚空を滑る細い指は、しかしその僅かな光の先にある何かを求める
ように、何度も何度も中空を手探りする。
何の穢れも傷みも知らない青く艶めく真っ白な美しい肌と、同じようにうっすらと青い光
沢を返す眩い金髪が、闇の中で微かに照らし出され揺れた。
深い深い海の底のような、暗く青い空間。
光の放つ青を帯びて紫色に影を落とす深紅の聖服を纏った女性は、相も変わらず暗青色の
淵で謳いつづける。

神に祈りを届ける、聖なる歌を。
救いを求める祈祷ではなく、ただ救いたいと願う想いで。










そろそろ1時間になる。
精神統一に近い集中でソレをスルーしてきたが、もう保ちそうに無い。

「…………」

正直、口を挟みたくは無い。
実際今までこんなことは何度もあったし、そのたびに自分が止めようとしてきた。
そしてそのたびに――手痛い反撃を食らっている。
関われば争いは避けられないと、身をもってわかっている。
今までの経験上、敵う相手ではないこともわかっている。
それに、自分としてもソレが嫌なわけではない、むしろ望んでいるかも知れない――
が、あまりの展開に耐えかねたセイレン=ウィンザーは、いよいよ限界を覚えて開いてい
た本をぱたりと閉じた。瞼を落として盛大に嘆息する。
魂が抜け出ているのではないかと思う程のため息に、そばで笑った気配がした。
どうせ巻き添えを避けようと姿を隠しているエレメスがそのあたりにいるのだろう。
制止を手伝う気もなさそうな動かない気配に、期待も持たず瞼を上げる。

「マーガレッタ」

朝焼けの光にも似た黄金色の視線は、迷わず聖服の女性に向けられた。

「はい?」

まったく悪びれた様子もなく、いつもと変わらない穏やかな笑顔でおっとり振り返った
マーガレッタ=ソリンに、またこぼれそうになったため息を咽喉で押し殺す。
人の手でつくられた精巧な天使の彫刻がそのまま動き出したような、繊細な面立ちと不可
の無い身体のラインを深紅の聖服で包んだ美しい女性。
深い森の奥で穏やかに水を湛える湖のような、青みを帯びた深緑の瞳が笑みを浮かべた。
にっこりと幸せそうに微笑んだマーガレッタは、難しい表情のセイレンに小首を傾げてゆ
っくり問い返す。

「どうかいたしました?」
「……どうもこうもない」

騎士たるもの、人を指でさすような礼儀のなっていない行動はしない。
視線を向けることで対象を示したセイレンは、だが正視に耐えかねてすぐ目を逸らした。

「そろそろやめないか。目のやり場に困るんだが」
「あら、どうして? こんなに可愛らしいのに」

可愛いから、困るんだ。
と、まさか口に出して言えるわけもなく。
本音を飲み込んだセイレンは、心底不思議そうに頬に手を当ててまばたきしているマーガ
レッタの隣を、覚悟をもって再び見遣った。

「女の子は自分に似合うお洋服を知ることで、もっと綺麗になるものですわ」

セイレンの視線の先で、そばのテーブルに置いた箱にマーガレッタが手を突っ込む。

「さ、今度はコレを着てみましょう」

これが漫画か何かであれば語尾にハートマークでも添付されているだろう。
満面の笑顔で箱から手を引き抜いたマーガレッタが持っていたのは、一体どこからこんな
ものを仕入れてくるのか、白いネコミミつきのカチューシャまでついたピンクのメイド服
セットだった。
色違いの青と黄色と黒のものもまとめて取り出して抱え、完全に硬直している着せ替え対
象――もとい被害者をほくほく笑顔で見つめる。

「ね、姉さん、もう……もう、僕……」

真っ先に反応したのは、イレンドだった――多分。
セイレンが脳内で語尾に多分と付け加えてしまったのも無理はない。
発言したのは彼の知る少年イレンドとはかけ離れた、大胆なスリットが腰から開いた派手
なチャイナドレスを着せられてウサミミまでのせられている、体型はともかく少女にしか
見えない人物だった。
その周囲でイレンドを盾にするように、これもまた凄まじくマニアックな衣装を着せられ
たトリスとアルマイアの姿もある。
片や、セーラー服の上着に何故かブルマで猫の鈴がついた革の首輪。
片や、リヒタルゼンカプラルックにネコミミネコシッポと手錠。
セイレン的にはこのへんまでは別にどうでもいいのだが、

「あ、あのそのちょっとそういうのはもう……!」
「あらあら、どうして?」
「恥ずかしいです、その……お兄さまにまで見られてこんな……」

――その次が、問題だった。
悲鳴に近い声を上げた人物に視線をふったセイレンは、

「…………。」

もうまさに正視に耐えない服装に、片手で両目を覆って顔を背けた。

「お、お兄さまぁ……っ」

あまりの羞恥に目元から頬を真っ赤に染め、大粒の涙さえ浮かべて助けを求めてくるセニ
アに、悪い許せすまん無理、と内心で叫んで背中を向ける。
こうなっているマーガレッタは、制止しようがない。毎回、止められない。
制止の声を一度かけてしまった以上、いつもどおりマーガレッタは反撃してくるだろう。
止めようとすると必ずマーガレッタはセイレンの限界を試すような衣装をセニアに着せて
目の前につれてくる――このカウンターが、精神的に大変クる。
隣で変わらず姿を隠しているエレメスが、笑いを押し殺して口を開く。

「姫の性癖も相当なものとはいえ、セイレン殿のパッシブシスコンLv100も困ったもので
ござるなァ」

手にしていた本を適当に見当をつけて振り下ろすと、目には見えないものの確かな手ごた
えと共に小さい悲鳴が上がった。

「はいはぁーい、お着替えしましょうねー」
「う、ううっ……」
「マーガレッタさん、そろそろ疲れてきちゃったから休もうよ!」
「兄さんのえっちー! 助けてよぉー!」
「あっ、あっ、押さないでくださ……やっ」

背後で再びマーガレッタが更衣室に子供たちを押し込んでいる声と物音がする。
うろたえると素で煽情的な声音になってしまうセニアの抵抗の声が妙に耳について、気を
紛らわせようと本を上下に動かす――ごん、がん、と何かを叩いている感触がするが、そ
んなことは思考の端にも入らない。

「マーガレッタ……嫌がってるときはやめておいたらどうなんだ」

はぁ、と部屋中に響きそうな嘆息とともに言葉を吐き出す。
更衣室に移動させ終わったマーガレッタは、着替えるまであけません、と外側から鍵まで
かけてからセイレンを振り返った。

「あら、セイレンが一番楽しんでいるかと思っておりましたのに」
「……あのな……」
「セニアちゃんは素直で可愛らしくて、衣装の揃え甲斐がありますわ」
「まぁ、可愛いのは当たり前だからな」
「お兄さまがお好きなお洋服ですのよ〜、って言うと何でも着てくださいますのよ」
「待て。君、そんなことセニアに言ってるのか!?」
「うふふ、可愛いって素敵ですわね〜」

片手を頬に添えて微笑むのは、マーガレッタの癖。
両手を頬に添えて微笑むのは、マーガレッタが危ない想像をした合図。
前者の笑顔で楽しそうに箱の中を見下ろした美女は、その微笑みとおっとりした口調は変
わりないまま、ふと話題を別のものに向けた。

「ねぇ? 貴方……」
「ん?」
「貴方、というよりも、過去の貴方ですわね」

言い方を変えたマーガレッタに、眉を軽く寄せる。
過去、つまり――生前。
今ではないどこか、旧い記憶に残る昔の自分のこと。
怪訝そうな表情で座りなおし、ソファの背に体重をのせたセイレンの隣で、先程本でごす
ごす殴られたエレメスが情けない顔で姿を現した。

「過去の貴方がたは、何か護りたいものがありまして?」

箱の中におさめられた、まだまだ大量にある謎の衣装を見つめるマーガレッタの眼が、闇
に似た暗い陰影を落とす――背を向けているため、男二人はそれに気付かない。

「そうだな……」

昔の自分が何を考えていたかは、今ではもうよくわからないのが本音。
ただ、今この身体に宿る力と、心を捧げた職業が示す。
その心が熱く望み強く在りたいと願い、力を得て護ろうとした何か。
その心が冷たく堕ちてしまおうとも、力を得て護り通したかった何か。
きっと、何かがあったのだろう。
望むものが何かしらあるから、人は力を求めるものだ。



そのときだった。



「「――…!」」

何と答えようかと思案していたセイレンとエレメスの目の色が、さっと変わる。
視線はどこか明後日の方へ向けられ、知覚の末端に引っかかった何者かの気配、その詳細
を窺うために全神経が集中する。

「……」

二人の纏う気配が一瞬で別のものに切り替わったことを察したマーガレッタは、手にして
いた衣服を箱に戻して胸元に両手を重ねた。
鮮烈な深紅の聖衣、その胸元に記された洗礼の十字架。
それは単なる刺繍ではない。
布越しの穢れない素肌、そこに刻まれた聖痕の十字架に触れる。

「息吹よ。疾く風よ」

聖書の文句など、マーガレッタにはもう必要ない。
父たる主神の御許に召され、叡智の光を経て生まれ変わった真なる聖職者は、一瞬の祈祷
にのせた短い祝詞だけで祝福を仲間へと注ぐ。

「セイレン殿」
「わかっている」

そう。言いたいことはわかっている。
侵入者は2組あった。
この地下2階層に存在する侵入経路は、4箇所。
下水道を通っての隠された侵入経路と、3つの階段――うちひとつは西の階段から、ひと
つは隠し経路から。

「西が2人、隠し経路が4人……でござろうか」

床に手をつき、足音を探るエレメスが大体の人数を割り出す。

「休んでいるハワードたちを呼ぶ必要も無いな。エレメス、西へ」
「了解」
「マーガレッタは俺と来てくれ」

早々と分担し、立ち上がる。
自分を含め全員に知り得る全ての祝福を分け与えたマーガレッタは、肩口から胸元へこぼ
れ落ちていた一房の金髪を、手の甲でぱさりと肩の後ろに払った。

「お客様、ですのね」

にっこりと微笑むマーガレッタに、頷く。
目が合ったマーガレッタ微笑みの奥に、力強い光を見る。
いつもと変わりない微笑。
やわらかく弧を描く桜色の口唇。
翡翠の瞳だけが、笑っていない。










侵入者など、もう珍しくもない。
大群で押し寄せることもあれば、少数で隠密のように現れることもある人間たち。
この数百年も前から存在する封鎖された研究所に遺されている様々なものは、成る程、彼
らにとっては大金のもとばかりなのかもしれない。
強力な武器。古代の遺物。あらゆる資料。
そして、それらの集大成たる強力な生体兵器の存在。
自分で考えておいて、自嘲してしまう。
もし侵入してくる人間たちに討たれるときが来たら、そのときは自分が大金に換金されて
しまうのだろうか。

取りとめも無く考えながら、走る先、細く狭い通路の奥に人の気配を強く感じる。
向こうもこちらに気付いていることは間違いない。
この最後の曲がり角、何かが待ち伏せているだろう。
走る速度を緩めないまま、後ろをついてきているマーガレッタに片手を振る。
距離をとるようにという無言の指示に、言葉なくともマーガレッタは察してくれた。
それとは逆に、自分は速度を上げる。
迫る角。
潜む気配。
床を蹴る。
抜刀に伴う鞘擦れの音で、戦闘の開始を聴覚から自覚する。
加速と同時にギリギリまで姿勢を低くしたセイレンは、床に飛び込むに近い勢いで一気に
角へと走りこんだ。

「――ッ何!?」

まさか下方から仕掛けて来るとは思っていなかったらしい。
中段に構えて待ち伏せていた敵の騎士と、ほんの一瞬視線がぶつかった。
その驚愕は予想していなかった襲撃からか、それともこの階層に本来居るはずのない自分
を目にしたせいか――どのみち思考するだけ無駄だった。もう答えは聞けない。
疾走の勢いを乗せた強烈な斬撃が下段から逆袈裟に唸り、見えぬ速度で疾った銀光が騎士
の喉元を正確に捉え、頚椎ごと切断して弾き飛ばす。
器用に中空で身体を捻り、ダンッ! と一歩を踏み出して不自然な体勢を立て直すついで、
上段から振り戻す刃で騎士の乗っていた大型鳥類の首をも躊躇い無く斬り落としたセイレ
ンは、その黄金の双眸で通路の先を見据えた。

ゴロリ……

重い音を立てて騎士の首が足元に落ち、

「っきゃあぁぁぁぁぁ!!?」

薄暗い通路の先、ほんの刹那に人の命を奪い去った魔物の瞳を直視した仲間のハイプリー
ストが悲鳴を上げたときには、既におびただしい量のどす黒い鮮血が幅の狭い床を侵食し
ていた。
ヒタリ、とグリーブの爪先が血溜まりを踏む。
カシッ、と紅く濡れた剣先が床石を削る。
気の弱そうなハイプリーストの女性。
両手剣を構えたロードナイトの男性。
巨大な鷹を従えたスナイパーの女性。
侵入者の職をざっと確かめたセイレンは、弛緩した手にゆるく剣を握ったまま一見隙だら
けの体勢を取った。
最も厄介だと思われる狙撃手に、動きを見逃さないよう視線を一直線にぶつける。
流石に多少面倒だと思ったセイレンは、手加減をやめることにした。
元々、自分たちはそういった目的に特化してつくられたのだ――セイレンにとって、自ら
のリミッターを外すことなど造作ないこと。
普段、簡単な制御で抑えているものを解放する。
制御などと偉そうな言い方をしたところで、実際は自己暗示の一種でしかないが。

静かに、瞼を閉じる。





好機と受け取ったのか、侵入者パーティの最後尾でスナイパーは素早く矢を番えた。
一気に弦を引き絞り、狙いを真正面からセイレン=ウィンザーの頭部へと定める。

――が。

「――…!!」

ぞっ、と。
床から、足元から伝う何か。
全身を駆け巡り、背筋を震わせ、脳幹まで襲い来たその感覚に、弓をひいたまま硬直する。
あまりの威圧感に、動けない。
身体の震えすらない。
呼吸の仕方すら忘れる。
嫌に冷たい汗だけが身体を伝い、内臓が凍えるような寒気を覚える。
この威圧感は、何なのだろうか。
相手は、その目すら閉じているというのに。



それが一切の不純物もない純粋な恐怖というものだと、彼女は知らなかった。





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送