自分がいつベッドに入ったのかすら、思い出せなかった。
 錆付いた脳みそは起き抜けの体に満足な命令が下せない。うっすらと開いた両目で自分の手を見つ
めていたセシルは、はっとして机の上に視線を戻した。
 できれば、今まで覚えていたこと夢であるように。虚構であるように。

 しかし、その願いは無残にも打ち砕かれる。
 自分が写した白いレポート用紙が数枚と、色あせてぼろぼろになった研究記録が四枚。歴然として、
そこにあるリアル。
 その合計十にも満たない紙切れが、セシルの意識を休息にクリアにさせていく。薄桃色のセーター
に白い七部丈のハーフパンツという部屋着のままベッドから抜け出し、机の側に寄った。

 意識を失う直前まで覚えているのと、まったく同じ内容。

 数百年前の研究記録。
 実験。
 そして、エレメス=ガイルと書かれた、悪魔の存在。

 写しの紙を握り締める。これの真偽の程など、確かめるまでもなかった。
 どれだけ言葉を重ねて嘘だと認めても。どれだけ証拠を積み上げて嘘だと信じ込んでも。たとえどん
な手段手法方法を用いたところで。
 ――――多分、自分はこれを、忘れられない。

「……」

 セーターを脱ぎ捨て、いつもの戦闘装束に身を包む。
 これを読んで真っ先に思ったことは、「誰かに相談しよう」ということだった。こんな内部告発みた
いな文章を見せ付けられて平常でいられるほど、セシルは冷静でもないし、老成しているわけでもない。
 いつも共に行動している六人の中で、最も信頼に値するリーダー格の人間。それは一人しかいなかった。

 セイレン=ウィンザー。

 写しの紙を両手で握り締める。けれど、もしこれが真実だったなら。
 この厳格で厳しく、自分の正義を揺るぎないものとして確立させている騎士は。六人の中で最も仲間想
いで、そして同時に最も自分に厳しいこのロードナイトは。
 ――――悪魔と書かれたエレメスを、自分の心と共に殺してしまうのではないか。

「だめ、そんなの……っ」

 自分の知るエレメスは、そんな自分たちを受け入れるだろう。きっと、へらへらと笑いながら、受け入
れるだろう。
 その様を思い浮かべ、セシルは心臓を握りつぶされるかと思うほどの恐怖を受けた。

 リストバンドを手首に回す。留め具はまだ絞らない。
 情報がまだ全然足りない。それに、考えたところで全てが全て、悪い方向に向かってしまう。
 調べないといけない。出来れば、誰にも気づかれずに。気づかれてこれが発覚し、もしも――――

「考えちゃダメ。今は、まだ考えちゃダメっ!」

 まざまざと浮かんだエレメスの笑顔を振り払うように、セシルは頬を数度、自分の手で軽くたたいた。
黄色がかかったブロンドの髪が緩やかに波打つ。
 考えるのは、後でいい。そして、自分で嘘だと納得して、全てこのことを忘れよう。
 そうしないと自分は、きっと。

「……逢いたいな」

 エレメスの顔を、見れないだろうから。
 今逢ってしまえば、自分はきっと問いただしてしまう。彼みたいにへらへらと笑顔を浮かべるなんて、
とても自分には出来ない。
 そして、真であろうと偽であろうと、自分はきっと信じるだろう。たとえ悲劇であれ思い過ごしであれ、
信じてしまうはずだ。心の中に、僅かな疑いだけを残して。
 だから、今はまだ逢えない。納得するまで、逢ってはいけない。

 写しの紙を覗き込む。
 どんな些細なことでもいいから取っ掛かりがほしかった。
 調べるにしても、何処から調べればいいのか。何を調べればいいのか。
 それを考えるのが馬鹿らしいぐらいに、その単語はセシルの目の中に飛び込んできた。

 ――――四階部のプロテクトも既に実装済である。
 
「……四階?」

 自分たちが住んでいる三階部。自分たちの弟妹たちが住んでいる二階部。そして、細菌類が跋扈してい
る一階部。
 四階部なんていう存在を、自分知らない。今までそんなものがあることに思い至りさえしなかった。


 ――――ジジジジジジ


 何だか耳鳴りがする。
 昨日のショックが抜けきっていないのかもしれない。体は、と、セシルは両手両足と動かしてみるも、
体のほうに不備はなかった。寝不足のせいで頭が少し重いけれど。
 よし、と一息入れて、セシルは自室の扉を開けた。




 朝食、昼食と、結局セシルは顔を出さなかった。
 ただ黙々と、四階部への通路を探す。あの研究資料は言うまでもなくこの生体研究所を示していたのだ
から、きっとこの三階部の何処かに通路があるはずだ。
 そうして探し続けて、半日。それは、確かにそこにあった。

「こんな窪み、普通じゃまず気づけないわよ」

 何もない、ただ階段が少し折り重なってるエリアの壁の一区域。そこに、僅かな窪みみたいのが埋めら
れていた。普通に通り過ぎたところで、せいぜい戦闘の跡ぐらいにしか思われないだろう。これなら今ま
で暮らしていても気づけないのは道理だと言える。
 探そうとしなければ、あると思わなければ、見つけられない。それの意図する意味など、明白すぎて吐
き気がした。
 セシルはその窪みに両手を差込み、左右へと力を込めた。


 ――――ズッ


 初動作のときにあわや手を押しつぶされそうなほどの重みと、体の底に響くような重低音が一瞬だけ響
き、その後はまるで流れるように扉は左右へと開いた。
 一歩、その扉をくぐる。カツン、と、嫌にブーツの音が反響音を鳴り渡らせた。

「……またこれかぁ」

 呆然と、上を見上げる。何となくこんな展開を想像していたはいたけれど、セシルはやや憂鬱そうにた
め息をついた。
 それは、二階から三階へ上がるために設置された螺旋階段。明らかにあれと同じぐらいの高さを感じら
れる。しかし、後ろを振り向いても、二階部へ行くときのタッチパネルのようなものは見当たらなかった
し、こちらの扉は上まで届くというような奇抜なセンスはしていなかった。
 螺旋階段の上のほうにある扉を見上げてみるが、そちらも全長などせいぜい二メートルぐらい。その割
りにこの吹き抜け具合はどういう理由なのだろうと、思わなくともない。
 見上げていたセシルの後ろで、扉は音もなく閉まっていった。開くときに鳴った重苦しい音は見事なま
でに無音で消され、しん、とした静謐ささえ感じられる。

 階段を見上げ、一歩を踏み出す。
 ブーツの音が、頭に嫌に響く。


 ――――ジジジジジジジジジジジジ

 一歩を踏み出すごとに、耳鳴りが激しくなる。頭がふらりと傾くものの、カツン、と響くブーツの音で
意識を無理やり起こさせられる。
 ノイズ音にも似た耳鳴りと、硬質なブーツの反響音。二つの音が、まるで催眠術のように作用してセシ
ルの体を動かした。
 茶色の髪が、ゆらゆらとゆれる。ブルーサファイアの瞳が、亡羊と彷徨う。

 そして、いつか見たタッチパネルへと、たどり着いた。今回は上の方に備え付けられていたらしい。
 つまり、無理やり入ることは叶わず、申請許可がいるという意味。セシルはタッチパネルの前に立った。
そして、そのタッチパネルへと白魚のような自身の指を添えた。

「あたしはこういうのさっぱりわかんないけど」

 指が動き始める。
 言葉に反して、その動きは淀みなくタッチパネルの上を縦横無尽に駆け巡る。その様はまるで、

「一度見た動きぐらいなら、簡単に真似できるわよ」

 まるで、以前二階に下りたときにエレメスが見せた、あの動きと一寸の差異も見当たらないかのごとく。
 最後のキーを入力し終えたとき、あの時とまったく同じように一度タッチパネルが順に点滅し――――
軽い合成音が鳴り渡り、扉は、セシルに前へ進むことを許可した。

 扉の向こうへ、一歩、踏み込む。
 その矢先であった。


 ―――リードオンリープロパティ、コード『封鎖領域』の値が変更されようとしています。
 ―――解析不能。例外が発生しました。システムオートラン。システムブレイク。


「っ!?」

 いきなり脳みそに叩き込まれた言葉に、ガクン、とその場に片膝をついた。灰色のタイルで出来た床が冷
たい。
 頭の中に急に浮かんだ言葉に反応することさえ出来ず、セシルは脳みそを直接殴打されたかのように自身
の平衡感覚が掴めなかった。傍にあった端末につかまり、急にこみ上げてきた吐き気を何とか胸の中で押さ
えつけた。
 誰かに耳元でささやかれるよりも、強烈なイメージとしてその言葉はセシルの脳裏に焼きつく。だが、焼
きつくだけで理解などできなかった。まるで一瞬の出来事のように脳裏を走りぬけた二行の言葉は、本当に
ただの一瞬で脳の外へと消えてしまった。
 弓を杖代わりにして、立ち上がる。そこでセシルは、ようやくその部屋の中を見渡すことが出来た。

 いくつも乱雑に並べられた、もう動いていない端末。明かりの消えた蛍光灯。電源などは当の昔に打ち捨
てられたかのように、そこにある全てが退廃しきっていた。しかし、未だに照明にはランプを使うセシルた
ちの文明にしてみれば、それは十分前進的であった。
 近未来の退廃した光景。セシルはそれを呆然と見渡しながら奥へと歩く。

 そして、とうとうそれの前にたどり着いた。

「え、セニ……ア?」

 卵。と最初に思い浮かんだ。まるで卵の楕円球をそのまま縦に引き伸ばした形。六角柱にしては先端が細
く、底辺が丸い。
 そして、その巨大なフラスコの中に満たされた水の中で、藍色の髪が揺らいでいた。

 イグニゼム=セニアと呼ばれている少女は、その幼い体を液体の中で丸めてまどろむように目を閉じていた。

「え、これ、何……いたっ?」

 その試験管の元に歩み寄ろうとしたが、数歩歩いたところで透明な壁にぶつかった。硝子などに見えなく
もないが、叩くと金属の質感ではなく、衝撃を吸収するような反応が返ってくる。だが、それはとても薄い
のだろう。ぶつかるまでわからないほどの透明度だった。
 その壁に手をつき、試験管の中を食い入るように見つめる。セニアは、目を閉じたまま水の中に浮かんで
いた。

 セシルはそれを見て、傷を癒しているのだと思った。この間二階で見つけたときのセニアは、確かに反応
はあったけれどそれでも重症の類。それを直すために、ここで何か特殊な装置でも使っているんだ。そう、
思った。
 けれど、あの酷い裂傷が合った胸元を見ても、何も、ない。まるで何も傷つけられていなかったのように、
そこには真白い肌とつつましい胸が見えるだけ。僅かに、胸は上下していた。

 そして、視線をずらす。

「―――――――――――っ!」

 そこに並んでいた同じ試験管の群れを見て、セシルは悲鳴を上げそうになった。
 トリス。アルマイア。イレンド。ラウレル。そして、自分の弟であるはずの、カヴァク。
 

 ―――――――――ジジジジジ
 ――――――ただ、****だったから甘やかされて

 ――――サブクラス.インプットメモリークラッシュ。メインクラスへの申請。
 ―――それに、自分の一人だけの弟のだもん。直してやりたいっていうのはあるかな

 ――――申請認可


 脳内をノイズが駆け抜ける。だが、それはもはやノイズだけではなかった。
 今までとは比にすらならない、頭を砕こうかといわんばかりの頭痛に思わずセシルはその場に崩れ落ちた。
 何かが壊れようとしている。その何かに皹が入り、まるで硝子が割れるかのように砕け散るような、そんな
感覚。
 だが、それが割れる前に、セシルの頭が砕けそうだった。こめかみを片手で押さえつけ、何とか端末を支え
に膝をつく。

「いっ――――――った、なに、これ……っ!」

 痛む額をねじ伏せ、セシルは額に脂汗を浮かべながら立ち上がった。もはや、体の半分が言うことを聞いて
いない。
 それほど強烈な、まるで自分の中枢神経を縛り付けるようなノイズの中。


 セシルは、それを見た。


「……………………………………あた、し………?」

 培養庫の中で眠るように閉じたまぶたを開けば、蒼宝玉の瞳が覗けただろう。その茶髪を梳けば、絹のよう
に流れまたもとの房に収まるだろう。そのふくよかな唇が開けば、素直ではないけれど言葉以上に心の本音を
語る声音が発せられるだろう。
 セシルの目の前にいる、セシル=ディモンという少女は、自分に見つめられながらただまどろむ。

 今度こそ、セシルは完全に腰が抜けた。
 ぺたん、とそこに座り込む。からからと、頭の中のものが少しずつ剥がれていく。


 ―――――――外部アクセス、危険度最大値に設定。このままではインターフェースメソッド崩壊。
 ――――――アクセスコード51682許可――――コネクト失敗、制御不能。


 ぴしっ、という音を、脳の奥で聞いた。
 目の前の景色が瞳を突き抜けて脳の奥へと流れていく。セイレン、カトリーヌ、マーガレッタ、ハワード。
それぞれが裸のまま、その培養庫の中に浮かび――――――――

 ―――――エラーコード1402発生。システム起動――――コネクト失敗。
 ――――――サブクラス侵食確認。メインクラス切断

「い、いや……」

 幼子が何かにおびえるように、首を振る。
 セシルの髪の毛が揺れるたび、頭の中でからからと崩れていく。


 ――――インプットメモリー切断。ケース052と認定。
 ――――オートシステム起動。モジュール312、起動確認。


 金褐色の瞳を虚ろに開き。鋼色の長い髪は水の中でたゆたんで。
 薄く開いた唇からは、気泡が定期的に上へと上がり。

「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 目の前のソレは、薄く、笑んでいた。
 ソレの固体名を、エレメス=ガイルと、言った。


 ―――――――メモリーロード開始。
 ―――――セシル=ディモン5261、プロテクト除去。モジュールコード315、ラン。


 セシルの目から、光が抜ける。今までふたをしていた何かが、脳の奥で開く。
 それは暖かい記憶。暖炉。編まれた毛糸。

 両腕に初めてつけてもらった、麻色のリストバンド。


 ―――――セシル=ディモン5261、スタンピート確認。
 ―――――外部システム起動。


 光を失った瞳で、セシルは立ち上がった。両腕のリストバンドをはめることはなく、その空虚な感情を浮か
べたまま弓を引き絞る。
 番えた矢は一本。それを、目の前に壁に向けて、


 ――――――抹殺対象、セシル=ディモン5261。
 ――――――外部システム、オートラン。


 百の硝子が砕ける音を響かせて、壁を叩き割った。
 その音に紛れ、それでも存在を強調させるように機会音を合成させたアラームが鳴り渡る、鳴り響く。

 ぽう、と、セシルの瞳に色が刺した。それは海のような空のようなブルーサファイアではなく、血のような、
炎のようなブラッディルビー。
 瞳に色は刺したけれど。激情に染まったけれど。それでも、瞳には何の感情も移さない。
 色が刺した瞳と共に、彼女の周りに蛍火が浮き上がる。まるで、今までセシルが瞳に宿していた蒼が逃げ出
したかのように、蒼い蒼い、いくつもの蛍火が。

 階段を駆け上がってくる音が聞こえる。
 四人の――――が近づいてくる音が聞こえる。

 鎧のこすれる音がする。
 斧を引きずる音がする。
 魔を紡ぐ声が聞こえる。
 聖を記す声が聞こえる。

 セシル=ディモンは矢を番えた。番える矢は一本。
 扉が砕ける音がする。視界に入ったのは、巨大な斧。


 ――――――内部アクセス。プロパティ制約解除。
 ―――――アクセスコード・セシル=ディモン。パスワード――――


 セイレン=ウィンザー。
 ハワード=アルトアイゼン。
 カトリーヌ=ケイロン。
 マーガレッタ=ソリン。


 残らず全員、瞳の色を失い、セシルと同じく亡羊とした表情。虚無めいた顔。虚無めいたオーラ。
 けれど、お互いの感情は同じ。何も言わずともお互いに決められたことを成し遂げる。ただそれだけ。


 システムとは、そういうものだ。


 ――――――――パスワード「ルドラの弓」。
 ―――――認可。


 矢を、放つ。槍が飛来する。氷の礫が穿ちに来る。
 斧が地を滑る。十字架が床を砕く。


 そして、虐殺が始まった。
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