カラン、と、冷瓶の中の氷が一度鳴った。
 夜空に解けて消えてしまった昼の蝉の合唱が耳に残っているせいか、夜闇の沈黙の中
で響いたその清涼な音がイヤにエレメス=ガイルの耳に残る。何もなしにお猪口の中で
冷えた冷酒を飲むのも侘しくて、エレメスはこれはいいとばかりに数度冷瓶を揺らす。

 カランカラン、と、昼の風鈴を連想させる涼やかな音が鳴り響いた。

「……風流でござるなぁ」

 昼のようなうだる暑さではなく、かといって、秋夜みたいな肌寒い風が吹くこともな
く。
 和風に作られた日本家屋の縁側に座るエレメスは、夏夜特有の少し湿った風を浴びな
がら、お猪口の中の冷酒を煽った。舌先に転がる微かな甘み、程よい辛さ、そして口に
広がる涼やかな芳香が体の中に染み渡っていく。

 普段、酒を呑むとしても味も香も変わらない安酒ばかり飲んでいたため、このような
味わい深い酒があることなど露ほども思ったことがなかった。だが、この味を知ってし
まえば、今までみたいに量に任せて酔いしれるということはできない。こういうものは
少しずつ、時間をかけてゆっくりと楽しむものだ。
 エレメスは脇に持ってきていた酒瓶を見る。「ほめ殺し」とという四文字がが達筆な
文体でラベルに書かれていた。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 その彼の背後で、今までの雰囲気を全てぶち壊すような雄雄しい雄たけびが聞こえて
きた。雄たけび、と言えば聞こえはいいが、エレメスはその声音の正体を知っているた
め思わず顔をしかめる。そもそも、宵も深まるこの時間帯に雄たけびなど上げるほうが
間違えてはいるが。いくらここが観光名所とはいえ、近隣に人も住んでいる。近所迷惑
で殴りこまれても厄介だ。
 そんなことを考えながら、先ほどの馬鹿音量の声の主、ハワード=アルトアイゼンに
向かってエレメスはため息をついた。

「ハワード殿も、こういう酒があるときぐらいはゆっくり飲めばいいのでござろうに……」

 エレメスの呟きは、諦観と憂いと、ほんの少しの安堵が篭められていた。
 たまの慰安旅行にと、はるばる隣国経由でこのアマツへとやってきた生体研究所三階部
に住まう彼らであるが、夜の狂乱はなんと言うべきか、いつも通りな日常風景そのままで
あった。
 昼の観光は城巡りや町の有名所などを主に女性陣の先導であちらこちらへと、それなり
に旅行っぽいことを楽しんでいたのだが、宿について珍しい民族料理に舌鼓を打ちながら
酒を呑み始めたのがまずかった。こういうときぐらい、酒は自重すべきだったのかもしれ
ない。

 ハワード=アルトアイゼンは、酒が入るととことんテンションを上げ続けるのだ。彼の
特殊技巧、アドレナリン・ラッシュが自動でフルバーストでもし始めてるのかと疑うほど。
 おまけに、ここアマツには先ほどからエレメスが呑んでいる清酒、冷酒などという、普
段彼らがまず口にすることがない良質な酒を豊富においてあるから更に手のつけようがな
い。次から次へと運ばれてくる酒を呑み、呑み、呑み、そして、

「う……うげぉぉおおお」

 盛大に、リバース。しかも縁側まで聞こえてくるほどの大音量で。
 セイレン=ウィンザーの「おい、大丈夫か、おい!?」という切羽詰った声のほうが小
さく聞こえるというのは、流石にちょっと間違えているんじゃないかと思う。
 おまけに更にたちの悪いことに、ハワードは吐いて飲酒をやめるかといわれればノーと
答える人間で、吐いた分更に呑み足すという非常に他人に迷惑をかける呑み方を常用して
いる。それをわざわざ出先でするなよと思う反面、エレメスはこうやってクローキングで
抜け出して一人こっそりと呑める訳でもあるが。
 普段の場なら、酔った勢いでほぼ確実に襲われそうになるため、独りで静かに呑むなど
久しぶりなことだ。

 後ろから聞こえてくる阿鼻叫喚を軽やかにスルーして、エレメスは夜空を見上げた。
 生体研究所からは見ることが叶わないだろう、満天の星空と綺麗な月夜。輝かしい満月
の周りでは小さな星々は霞んでしまうが、それを補って有り余るほどの無数の星が夜空に
散りばめられている。酒のせいで朧になった頭でも、その光景は素直に綺麗だと感じた。

 しかし、こういう酒を呑むときは朧月夜も捨てがたいでござるなぁ。
 などという思いを吐息に混ぜつつ、エレメスは小分けしていた冷瓶から手元のお猪口に
もう一杯注ごうとして、

「あんた、何独りで抜け出してるのよ」
「おぶっ」

 縁側から、蹴り落とされた。
 透明な硝子で出来たお猪口が宙を舞い、エレメスの背中を蹴っ飛ばした本人――――セ
シル=ディモンが掴み取る。

「急にいなくなったと思ったら、こんなトコにいたのね」
「いたた……いきなり蹴るなんて酷いでござるよ」
「うるさいわね。残されたあたしたちの気持ちにもなりなさいよ」

 若草色の着流しが土に汚れ、エレメスは苦笑しながら立ち上がった。彼の錆色の挑発は、
いつも彼が首に巻いているスカーフと同色の色の紐で首の後ろで結われている。スカーフ
の代わりなのだろうか。
 その視線の先には、透明なお猪口が珍しいのか、セシルが月明かりにかざしながらお猪
口の底を覗き込んでいた。

「ふーん、こんなのあるんだ」
「拙者たちはいつもグラスでござったからなぁ」

 月明かりに照らされたセシルの浴衣姿に、エレメスは顔には出さないが内心でほぅと感
嘆の息を着く。馬子にも衣装ということわざがこの国にあるらしいが、確かに確かに、そ
れは的を得ていると言える。スナイパーという職業柄、どうしても肌の露出面積が広い服
を着ていた彼女であるが、髪の色にさえ目を瞑れば存外にここの民族衣装である浴衣は似
合っていた。
 というより、体のラインをまったく強調させない衣装であるからこそ、という感じもす
る。スナイパーの衣装は、彼女には申し訳ないほど体のラインが出る構造になっていたの
だから。

 アマツの風物詩とも言える春の桜の色で染め上げられた浴衣は、着こなしたときにちゃ
んとそれぞれが綺麗な方向を向くように鮮やかな蒼い花びらの模様を散りばめていた。あ
えて全体に散らさず、袖口、裾元にだけつけられているのが質素ながらも趣が出ている。
花びらと同色の蒼い帯が、緩やかに彼女の体をぴしっと締めていた。
 普段はストレートにおろしているやや黄色がかった茶色の髪を髪留めでアップしたその
姿は、彼女が今着ている浴衣によく映えていた。裾の長さが異様に短く、太ももから下が
艶やかに露出されているのは、全員分の浴衣をチョイスしたマーガレッタ=ソリンの意図
だろう。
 そして、彼女が口元へ運んでいるお猪口と、透明な液体がまた、夏の夜空の浴衣美人を
綺麗に彩っていた。

 ……お猪口?

「って、セシル殿。それは拙者のでは――――」
「何よ、一口ぐらいいいじゃない」
「いや、そういう意味では……というか。そもそもセシル殿は未成」
「うるさいっ!」

 縁側へと戻ろうとしたエレメスは、はしたなくも浴衣を着ている癖に盛大な前蹴りをか
ましてくるセシルによって再び地面へと叩き落される。蹴りによって視界が夜空を向くま
でのレイコンマ数秒の間に僅かに足の間が見えたのは、エレメスの暗殺者としての動体視
力のよさを褒めるべきかセシルの警戒心のなさを嗜めるべきか。

 着衣の有無の名言は避けておく。

「セシル殿、蹴るのはいいでござるがせめて隠すかどうか……」
「? あんた、何の話してるのよ」
「いや、何でもないでござる」

 冷酒奪還を泣く泣く諦め、エレメスはいつの間にか自分が今までいた位置に腰を下ろし
ていたセシルの隣に座る。酒を呑むのを止めようとしない限りは、どうやらこちらを蹴っ
てくる様子はないらしい。
 お猪口もう一つ持ってくるべきでござるか……と、エレメスが手持ち無沙汰に座っていると、

「ぅ、な、何これーっ」
「ん? どうしたでござるか」
「からーいっ、何でこんな辛いの、これ!?」

 どうやら、冷酒をお猪口一杯一気に煽ったらしい。舌の前面でなく全体で味わってしま
ったのか、セシルは涙目になってエレメスをにらみつけた。

「これはそういうお酒でござるよ。拙者たちがいつも飲んでるやつとは違うでござる」
「……うぅ、こんなもの呑むんじゃなかった」

 エレメスへとお猪口を着き返し、セシルは奥へと戻っていった。奥の客室からは未だに
セイレンの悲鳴とハワードの雄叫び、そしてそんな二人を笑いながらお酒を嗜んでいるマ
ーガレッタのおしとやかな笑い声が聞こえてくる。カトリーヌ=ケイロンの声が聞こえて
ないかが、彼女に限ってノックダウンしているということはないだろう。メンバーの中で
一番のザルなのだから。
 ザルだからといって、彼女が全員酔いつぶれた後の世話をするかといえばノーであるわ
けだけれど。

 誰からも絡まれなかったのか、セシルは一本の酒瓶とグラスをお盆に載せて数分で戻っ
てきた。いつもならばマーガレッタ辺りに捕まってセシルが酔いつぶれるまであれこれ付
きまとわれているのだけど、流石に出先だとセシル以外にも興味が向くのだろうか。
 セシルが持ってきた酒を見やり、エレメスは思わず笑いをかみ殺した。

「ふふ、セシル殿はやっぱりそれでござるか」
「やっぱりって何よ、やっぱりって!」
「ったっ!?」

 お盆を持ったままエレメスを再度縁側から蹴り倒すセシルが持ってきたのは、この和風
な旅館に似合わず売られていたワインであった。ただのワインならば、女性であるセシル
が呑んだところでさほど違和感はないのだが、実はこれ、酒の味などほとんどしないほど
甘いのである。売店で一口試しに呑んでみたものの、酒だと教えてもらうまではジュース
の類と思っていたほどだ。
 そんな激甘ワインをグラスに注ぎながら、セシルはぷりぷりと怒りながら縁側へと再び
座した。エレメスも、その隣に腰を下ろす。

「しかし、風情がないでござるなぁ」
「うるさいわね、いいじゃない。誰が何呑もうと」
「ワインなら帰っても呑めるじゃないでござるか」
「ここでしか呑めないのもあるじゃない。それに」

 一口、舌先で転がす。

「お酒は、雰囲気を楽しむものじゃない」

 甘い甘い、葡萄の香が口の中を駆け抜けた。

「……まったく、お子様の癖にそういうところは訳知り顔でござるなぁ」
「お子様っていうなー!?」
「痛い、痛いでござる!」

 背中をぼこぼこと殴ってくるセシルに、エレメスは笑いながら悲鳴を上げた。セシルも、
言葉ほど顔は怒っていない。
 たった数口で軽く酔いが回っているのか、セシルの頬はほんのりと赤かった。

 と、そのとき。
 エレメスの若草色の着流しを、パッ、と、極彩色の光が彩った。セシルはそれで殴るの
をやめて、空へと視線を移す。

「……ぉ」
「あ……」


 ――――――ドッ パラパラパラ


 また、一つ。次は赤い光が空に舞う。
 その光の華が消える前に、また次の華が、そして次の華が星空を豪奢に彩り始めた。

「ねえねえエレメス、アレって何?」
「アレは花火でござるな。夏にやる風物詩みたいなものでござる」
「へー……」

 セシルはエレメスの背中から、空に舞う色取り取りの華へと視線を移す。手には、驚くほ
ど甘いぶどう酒が入ったグラス。

「綺麗でござるな」
「ん、そうね」

 エレメスは冷瓶から酒を注ぎ足し、お猪口を口に運ぶ。
 気を利かせて新しいお猪口に取り返しに行くべきかとも思ったが、何だかこの雰囲気の中、
席を立つのはためらわれた。

 花火がまた一つ、上がる。
 特に会話もなく、客室の悲鳴と花火の打ちあがる音をBGMにして、二人はそれぞれのお酒を
口に運びながら、夜空の華を見上げ続けた。

 二人の軽く触れ合った背中を、夏の夜風がすり抜ける。
 夏の暑さか。冷瓶の中の氷が、カランと、小さな音を響かせた。
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