セニアの顔半分は自らの血か他人の血かわからない赤色で染まり、薄く開いた唇からは僅かに赤いラインが零れている。
彼女が普段纏っている鎧にもあちらこちらに亀裂が走り、その鎧が守っている手足はだらしなくそこに投げ出されていた。いつも礼儀正しく、
姿勢正しくしていた少女からはとても想像できない、嘘のような情景。
「セニ、ア……?」
セシルがよろよろと、壁へと近づく。
近づけば、嫌でもわかってしまう。いや、近づく前から、ソレはセニアの体を一番色濃く彩っていた。
胸に走った、袈裟懸けに描かれた刀剣による、裂傷。
それでも、セシルは近寄れずにはいられない。目の前で崩れるように座っているセニアに、近づかずにはいられない。
数日前の出来事が脳裏に走る。まだ何処に潜んでいるかがわからないから、罠を張って警戒しようという言葉に、珍しく反抗したセニア。セニ
アが何を思ってああやって切り出したのかはわからない。
けれど、引き下がるべきではなかった。
あの時、トリスの視線に気圧されず、自分の意思を押し通すべきだったのか。
左手が、血のついていない頬に触れる。まだ、温かい。
遅すぎた後悔が心の中を駆け巡る。セニアの頬に触れる手が、震える。
さっき冷酷なまでにウィザードの腕を弾き飛ばし、侵入者たちに矢を向けた。そのウィザードが、セニアに変わっただけの話。自分とあの五人
の立場が変わっただけ。ウィザードとセニアの立場が変わっただけ。
けれど、自分たちのやっていることに、相手のやっていることに、狂いそうなほどの怒りがこみ上げる。悲しみがこみ上げる。
そっと、親指でセニアの目の下をなぞる。閉じられた目をなでるように。
セニアの頬は、以前と変わらず柔らかかった。まだ十一歳の幼い少女なのだ。柔らかくて、当たり前だった。
泣きそうになるセシルの手に撫でられながら、セニアの頬はむずがるように揺れる。
―――――――むずがるように。
「……え?」
セシルは自分の掌が感じた感触に驚き、思わず掌を握り締めてしまった。左手全体で触れていた頬は、驚いたことにより握力の加減が出来てい
なかったのか、まるで摘み上げられるみたいに形が変形した。
閉じられた瞳の上で水平に保たれていたセニアの眉根が、僅かに寄る。
「え、ちょ、ちょっと!?」
セシルは目を白黒させながら、自分の背後で佇んでいたエレメスへと振り返った。エレメスはあちらこちらを見渡していたようが、セシルの声
に反応して振り返る。
そのエレメスの背中には、いつの間に探し出したのか、妹であるトリスが背負われていた。
「何でござるか、セシル殿」
「何でござるか、ではないでしょーが!? セニアまだ生きてるじゃない!?」
「……? いや、生きてるじゃないと言われても困るでござるよ。というより、何でセニア殿が死んだとかなってたでござるか」
「―――っ!? あんた、知ってたのね、知っててあえて放置したのね!?」
セシルの柳眉は釣りあがり、今にも牙を向かんとエレメスに向かって吠え付ける。
当のエレメスは、まったく持って怒られている理由がわからず、トリスを背負ったまま両の手をあたふたとさせて困り果てていた。
「いや、知ってたも何も……セニア殿が亡くなったとは一言も言ってないはずでござるが。というより、死んだ相手の気配をたどるとか、流石に
拙者はそこまでできないでござ―――」
「〜〜〜〜〜〜〜っ! だったら、さっさとそう言えええええええっ!」
「ちょ、セシル殿、矢はまずい、矢はまずいでござる!?」
トリスを背負っている以上、背を向けて逃げるわけにはいかず、ひゅんひゅんと飛んでくる矢からバックステップでひたすらに逃げ惑うエレメ
ス。
導入部位からの、傍から見れば赤っ恥にしかならない光景を脳裏でフル再生させているセシルは、さっきとは違う意味で半泣きになりながら矢
を連射し続ける。むしろ全泣きカウントダウン五秒前である。
矢アサにしてエレメスの記憶をふっ飛ばさない限り、真っ赤に染まったその両頬の赤みは消えないだろう。
羞恥で真っ赤に染まった頬と、真っ白になった頭で、それでも、とセシルは思う。
たとえ恥ずかしさの余り死んでしまいそうでも、耳まで真っ赤になってその赤みが消えなくても、自分の後ろで眠る少女の命まで消えてしまわ
なくてよかったと。ウィザードを僅か一秒足らずで即死させ、矢を打つことにためらいを欠片ほども感じなかった心でも、自分の妹のように大事
にしている少女が死んでいなかったことに安堵している。
「―――――ん、んん……」
エレメスの悲鳴が大きかったのか、セシルの怒鳴り声が大きかったのか。むしろ、二人共騒がしかったのか。
少し鼻にかかる声をあげて、セニアはゆっくりとその両まぶたを開いた。
声に気づいたセシルは、至るところに矢が突き刺さったエレメスにむけて矢を打つのをやめてセニアへと振り返る。さり気なくトリスにはかす
りもしていないところは、セシルの腕前かエレメスの腕前か見解が分かれるところだろう。
「あ、れ……セシル………様?」
「もう……ほんと心配したのよ、バカ!」
まだ意識がはっきりとしていないのか、ぼんやりとした瞳で見上げてくるセニアを、セシルは思い切り抱きしめた。小柄な自分よりも更に小さ
いその体を抱きしめ、セシルは安堵のため息をつく。
小柄な体から伝わってくる、生と言う温もり。
「無事でよかった……」
「セ、セシル様、どうしたのですか」
抱きしめられたセニアは、何で抱きしめられているのかもよくわからずにわたわたと慌てふためく。その度に青い髪がはらはらと揺れ、血で真
っ赤だった頬は今度は違う朱色に染まっていく。
「セニア殿」
「あ、エレメスさ――――な、何ですかそのお姿は!?」
呼びかけられた声に、セシルの肩越しにエレメスを見上げたセニアは、そこに立っていたエレメスに思わず声を詰まらせた。無理もあるまい。
いつものぼさぼさな長髪と金褐色の瞳の優男だと思って見上げた先にいたのは、ハリネズミと見間違うかのように矢まみれだったのだから。しか
も所々途中で矢が折れて、まるで落ち武者みたいになってるのが更に笑えない。というか、純粋に怖い。
「それより、でござる。――――何か、言うべきことはござらんか?」
すっ、と、エレメスの瞳が細められた。彼らしからぬ静謐さを持った声音は、いきなりセシルに抱きしめられて朱色に染まっていた頬から赤を
引かせる。
セシルが抱擁を解き、自分を見つめてくるのがわかる。けれど、セニアはセシルを見れない。ただ、エレメスを見上げ続ける。
少女の顔に浮かぶ表情は、悔いと自責。
「今回の者たちは、かなりの手慣れでござった。セニア殿たちには荷が重すぎたでござろうよ。それなのに……何故、無茶をしたのでござるか?」
「……申し訳、ありません」
エレメスの声は滔々と響く。その声には叱責も非難も入っていない。
ただ、それゆえに、真面目なセニアには堪えた。
「セシル殿の罠があれば、それを察知して逃げる時間は稼げたはずでござる。逃げることは恥ではござらんよ。今回の件、まだセイレン殿には伝え
てはいないでござるが……伝えたところで、おそらく同じことを言うと思うでござる」
「……はい」
「……ふぅ、理由は言わず、でござるか。セシル殿」
エレメスは目を閉じて困ったように髪の毛を掻いた。元より、エレメスは自分がこんな役似合わないことを重々承知しているし、今までに人に説
教を行った記憶などほとんどない。ましてや、セニアのように生真面目に自分の言うことを受け入れる子相手など、一度もないのではないだろうか。
だからエレメスは、セシルへと言葉を投げかけた。
「何よ?」
「セシル殿は、どう思うでござるか?」
「……」
セシルはすぐ目の前にいるセニアの瞳を見つめる。
自分と同じ、少し薄い色素の青みがかった瞳は、どんな叱責でも受けますといわんばかりに自分を見つめ返していた。
そんな目で見つめ返されれば、毒気も抜かれる。いったい誰がこの子相手に、頭ごなしに叱り付けれるというのだろうか。セイレンに至っては、
こんな顔をされた時点で腹を切って詫びかねない。マーガレッタなどは興奮してお持ち帰りするかもしれないが。
何となくエレメスの困惑振りが理解できたセシルは、ため息と共に告げた。
「別に、あたしは何もないわよ」
「……だ、そうでござるよ、セニア殿。今後は無茶してはダメでござるよ?」
「……はい、申し訳ありませんでした」
しゅんと項垂れたままセニアは俯いた。
もう一度だけ念押しして、エレメスは帰ってきた答えに満足げに頷いた。背中に背負っているトリスはまだしばらく起きそうもなかったが、この
ままにしておくわけにもいかないだろう。傷はセニアほどは酷くはないようだが、イレンドたちを早く見つけて傷の手当てを済まさなければ。
そう思い、トリスを背負いなおしたエレメスに、セニアの声が投げかけられる。
「あの……まさか、お二人で全員撃退したのですか?」
「ん? ああ、そうでござるよ。尤も、三人は逃げられてしまったでござるが」
「あそこでエレメスがちゃんと攻撃してれば逃げられなかったのに!」
「いや、そうはいうでござるが、セシル殿。あそこで無理に戦闘してもただ無駄に時間が過ぎただけで……」
「だからそうなる前に倒せばよかったのよ!」
セニアをほったらかして言いあいを始める二人に、セニアはぱちくりと目をしばたたかせ、
「ふふ、やっぱりお強いですね、エレメス様たちは」
くすくすと、口元を隠して笑いを零した。
まるで童女のような無垢な姿に、あのセシルですら思わず言葉をなくしてしまう。こういう子は将来、絶対に男をダメにする女人に成長するだろう
なぁ、などとエレメスは不謹慎にも友人の妹相手に思ってしまった。むしろ、こういう子を妹として持ってしまったセイレンに同情すべきなのか。
ナチュラルに人を魅了する子ほど、厄介なものはないのだから。
「それにしても……六人もの相手に遅れをとらないなんて。私達はやっぱり足元にも及ばないのですね」
「こんなヤツほめても何もでないわよ……って、ちょっと待って?」
「……セニア殿、今、六人とおっしゃったでござるか?」
何気ない口調で語られた言葉を、しかし、二人は聞き逃さなかった。
「あ、はい。六人いました」
「……エレメス」
「わかってるでござる、確かあの時は―――」
両手剣の騎士と、槍術師の騎士。
ウィザード。
男女のプリースト。
「騎士が二人、魔術師が一人、あとはプリーストが二人……」
合計、五名。
「一人―――逃した?」
「いや、初めから五人だったはずでござる、ということは」
そこまで言って、エレメスははっとして記憶を探った。
一人足りなかった襲撃者。そして、途中で襲撃者が語った言葉、
―――――しゃーねぇだろ。元はと言えば、俺たちは足止めだ。頃合だし引くぜ
「足、止め……」
「―――っ、まんまと裏をかかれたってこと!? そんな、じゃあ、あと一人は何処に……」
急に緊迫した表情に変わった二人に、一人展開についていけないセニアは首をかしげた。
そして、エレメスの額に刺さってる、ぶらぶらと中途半端な位置で折れた矢を指差して、
「その矢は、スナイパーにやられたのではないのですか?」
「―――――っ!?」
二人の顔が驚愕に染まる。
最初、セニアがエレメスの体を見て驚いたのは、相手との戦闘による負傷だと思い込んでいたからだ。多量の矢傷。六人相手に大立ち回りをしたの
ならば、確かに理解できなくもない傷。よもや痴話喧嘩みたいないざこざがあったとは思いも寄らないだろう、そんな認識の齟齬。
だからこそセシルは、その傷については聞かなかったし。
だからこそ二人は、新たな六人目のことなど思いも寄らなかった。
「そのスナイパーが何処へ向かったか、セニア殿は知っているでござるか?」
「あ、はい。確か―――」
襲撃者は六名。内五名は足止め。
相手の想定した戦闘対象はおそらく自分。セシルは想定外。
そして待ち構えていた場所は二階出口。
仮定する。
もし自分が二階部位にいたと考えたならば、囮として残った相手は自分を何処へいかせまいとするか。
「三階の、方へ」
あれは二階へ行かせまいとしたのではなく。
二階から三階へいかせないようにしていたのでは――――。
「あたしたちは三階から真っ直ぐ降りてきたけど……すれ違わなかったわよ?」
「クローキングの類か、あるいはハイドか……いずれにせよ、拙者たちの注意が足りなかったでござるな」
三階に何の用があるのかはわからない。囮を使ってまで単独で潜伏したのだから、おそらく腕試しの類でもないだろう。ましてや名声のためである
はずがない。
厄介なことになったでござるな、と胸中でエレメスは一人ごちた。どうやら、ただ単なる襲撃者という肩書きではすませれなくなってしまってきた
ようだ。
まるで、数日前の侵入者を彷彿とさせる状況。
「にしても、何でわざわざ三階に行くのにあんたのことを引きとめようとしたのかしらね」
どうやらセシルも同じところに思考が行き着いたらしく、不思議そうにエレメスを見つめてきた。
エレメスは中空を見つめながら、思考を纏めようとする。
「そこまでは拙者もわからないでござる……が」
「何にせよ、追いかけないとね」
セシルは立ち上がって大きく伸びをする。何も打ち合わせをしなくても、既にお互いの頭の中で自分たちがそれぞれやることは認識できているらし
い。
怪我人の気配をたどれるエレメスがまずは二階部の面々の応急手当をし。
セシルが、三階部へ潜伏した侵入者を追いかける。
「拙者も終わればすぐに向かうでござるよ。まずはセイレンたちと連絡をとって動いてほしいでござる」
「わかってるわよ。そっちこそ、カヴァクたちをよろしくね」
エレメスの声を後ろに残し、セシルは先ほど来た道を逆走し始める。
どうやら相手はセニアたちだけを直接狙って攻撃したらしいが、確かに言われて見れば、自分以外がつけたと思しき矢傷の形跡などが床などに残っ
ている。しかし、その痕跡も小さなものばかりで、先ほどみたいに気が動転していたはわからなかっただろう。
三階部へのゲートへ到着し、それが開くのももどかしく思いながらセシルは螺旋階段へと突入した。上で呼び出されてから既に二十分ほど。ひょっ
とすると既にセイレンたちが片付けてしまっているかもしれないが、それならそれで安心できるというもの。
セシルは目の前に長く聳え立つ螺旋階段を見上げ、よし、と一つ息を吸い込み、全速力で駆け上がった。
結局、侵入者は三階でもまだ見つかっていなかったらしい。セイレンに伝え終えたセシルは、再び三階の索敵を開始した。二階部のことを話した際
にセニアについてセイレンから聞かれたが、どう答えていいか、セシルにはわからなかった。エレメスなら、親友である彼相手にどう答えただろう。
あの時、やはり自分はエレメスとともに行かずに、セイレンを呼びに戻ったほうがよかったのだろうか。そうすれば、セイレンが駆けつけて事なき
を得たのだろうか。
考えても、纏まらない。しかし、あの時自分は行かなければいけないと思ったのは事実だ。使命感にも似た即断だったと、自分で思う。
ただ、それは使命感だったのかと問われれば、セシルは閉口してしまう。そこまで使命感が強い人間ではないと言うのは自分で重々承知している。
セイレンやセニアのように、全てを自分の責任と感じて動けるほど自己犠牲精神もなければ、生真面目でもない。
だからあのときの即断が、まるで、自分の意思ではないかのようにも感じているのだ。
突き動かされた。まさに、その言葉がしっくりくる。けれど、何に?
「……何だかな」
わかってはいる。突き動かされたのは、自分の中の内なる衝動ではなくて。
―――――罠なんていりませんよ
単に、負けたくなかったのだ。
「――――っ!?」
走りながら、セシルは一気に熱を持った自分の頬をぱしぱしと叩いた。耳なんて、頬以上に熱を持って赤くなっているだろう。今考えたことを、頭の
中からチャージアローでふっ飛ばしたくなってくる。
自分の思考が考えられなかった。いったい、誰が、誰に、何について負けるというのだ。そんなことを考え付ける自分の脳みそをダブル・ストレイピ
ングで打ち抜きたい。
けれど、打ち抜きたいということは、つまり。
自分で、認めてしまっているわけだ。自分の行動を。
「もう、ヤになる、ほんと……っ!」
敵を探すことに集中しよう。
セシルは散り散りになりそうだった思考の渦の中で、それだけに集中することに決めた。今あれこれ考えられる場面でもないし、そのまま考えを進め
ていったら、とんでもない結末にぶち当たりそうな予感もする。その結末を突きつけられることを、恐怖する自分がいる。
そこまで考えて、角を折れた矢先だった。
「……また!?」
罠が、粉々に破壊されている。敵がかかって間抜けにも開ききったアンクルスネアではなく、粉微塵へと粉砕された鉄屑へと。
セシルは今まで考えていたことなどもはや続きを思う余裕すらもなく、その場にしゃがみこんで鉄屑を拾う。さらさらと拾い上げた先から零れていく
それは、掌で持つのが少しきついぐらいに、熱い。
つまり、まだ近くにこれを破壊した人間が、いる。
―――――ドッ
「っ!?」
その先の角の向こう。そこから小規模な爆発音が聞こえた。僅かな残光が廊下の向こうでオレンジ色に輝いている。
だが、その音は残響さえも残さず、最初の音と光を残し、すぐに消えていった。
「こ、の……!」
セシルは鉄屑を撒き散らしながらブーツの音を鳴らして走る。
既に自身の周りには赤紫の紫電が音を立ててうなり始め、鷹の目を宿したその両目は薄暗い三階廊下でさえ事細かに周りの情報を伝達する。
そして、角を曲がった、その先。
「……ちっ、見つかったか」
「―――あんたね、あたしの罠をぶっ壊してくれたのは」
紫がかかった茶色の大きな羽を持つ鷹をつれ、手元で罠をかちゃかちゃと弄ぶスナイパーが、こちらを睨みつけていた。
金色の髪をめんどくさそうに掻き揚げるその仕草に、セシルの柳眉が釣りあがる。
「そうだといったら?」
「……あんたを同じ末路に叩き落してあげるわよっ!」
矢筒から矢を取り出すのが早かったか、それとも、相手が背を向けたのが早かったか。セシルは、口元に笑みを湛えた。この先のルートはセシルのテリ
トリーだ。何処に何の罠を仕掛けたか、全部地形と共に頭に叩き込まれている。
相手の後方にはまだ解除されていない罠が敷き詰められていて、すぐには逃げれない。対して、こちらは既に弓を構え、矢を取り出した直後。
相手はこの矢を避けることも逃げることも出来ず、一連の不可解な罠破壊事件は幕を閉じる。
「―――シッ!」
「ご丁寧に罠敷き詰めて―――かえって、ありがたいけどね」
その、はずだった。
スナイパーが腰のバッグから取り出したのは、余りセシルには馴染みのない形のした直方体の物体。その物体の側面を、オレンジと赤のカラーリングで
統一していた。一瞬見ただけでは、それが何かセシルにはわからない。ただ、記憶の片隅に僅かに残る、その模様。
その掌サイズの直方体を片手に二つ握り締めたスナイパーは、セシルの矢をぎりぎりでかわし、
「弾け飛べ」
罠の密集地帯に向かって、その直方体の箱を投げ入れた。
刹那、閃光とも言える光と爆発音が廊下を炙る。
「っ」
「ブリッツビートッ!」
いきなりの光に咄嗟に目を覆ったセシルに、飼い主の命令で飛来してきた鷹が襲い掛かる。さすがに避けきれず、鷹の鋭い爪で左肩をえぐられたセシル
はその場に肩ひざをついた。
パタタッと血を撒き散らし、鷹はすぐさま飼い主の肩へと戻る。スナイパーの後ろには、元罠だった鉄屑が、爆風であちらこちらに舞い散っている。
その様を見ながら、セシルは歯噛みしてスナイパーをにらみつけた。
「……そう、どうやったらあそこまで罠が壊れるかと思ったら、そういうことね……っ!」
ハワードからの伝言では、爆発物か何かによる破壊、と言われていた。
確かに、アレは爆発物といっても過言ではないだろう。多くの罠を巻き込み、そのまま中央で爆破。辺りに爆発物が多ければ多いほど威力を増す、小型
爆弾型の、罠。
セシルの記憶と、目の前の現状がようやく一致する。
「―――クレイモアトラップ!」
「誰もこんな使い方するなんて考えないよな。だからこそ使えたわけだが」
スナイパーも弓を取り出してセシルへと構える。セシルの弓より一回りほど大きく、その両翼合わせるとセニアの胸までの高さもありそうな、巨大な弓。
「あんたの目的は何?」
痛む肩に顔を顰めながら、セシルも弓を構える。先ほど相手が避けたのは、攻撃が読まれたからだろう。あの動きを見るに、自分の攻撃をそう連続で避
けられるような相手には思えない。
だからこそ、その弓の威力は想像ができない。あれほど大きな弓を、軽々と引き絞っている。
「秘密。とはいえ、俺も雇われの身だけどね」
相手もそれを自覚しているのか、隙を見せない構えでセシルの動きを牽制する。まるで氷像のように冷たい視線でセシルを射抜く。
「罠を壊した意図は?」
「それも秘密」
「何故一人で潜伏したの?」
「それも秘密」
「そう、じゃあ」
ギリギリ、と弓を絞る。弦が限界以上の力に悲鳴を上げる。
一撃をはずせばおそらく相手から来る。しかし、それは相手も同じ。
そしておそらくお互い、相手の矢を交わす技量はない。万全状態のセシルならば避けることも可能だが、体力を使い果たしてる上に左肩の怪我で、おそら
く完全回付は不可能だろう。
だとすると、射出するのは、
「死になさい!」
「お前がな!」
―――――同時っ!
互いの矢は、コンマゼロ秒の狂いもなく同時に発射された。
彼我の距離は十メートル。矢が到達する時間など、ものの数秒もかからない。
そして発射されたのと同じく、両矢は、同時に着弾した。
「ぃ、った……」
カラン、と、セシルの弓が廊下に落ちる。右腕から流れる血が、ぽた、ぽた、と廊下へと落ちる。痛む左肩を動かし、セシルは右の二の腕に突き刺さった
矢を抜いた。抜くときの激痛に、額に汗が滲む。
軍配は、どちらにも上がらなかった。
相手の気配が消えるのがわかる。矢を何処に受けたかまではわからないが、自分の矢を食らって無事だとは思えない。たとえ逃げたとしても、手負いなら
ばセイレンたちがカタをつけてくれるだろう。
相手の気配が消えた場所へと、歩み寄る。そこには、既に鉄屑となった罠の残骸と、数枚の紙切れが落ちていた。
「何だろ、これ?」
ざっと目を通すも、A4サイズの紙にびっしりと文字が書かれていたためセシルは思わずそれを遠ざけた。流石にこの暗いところで全部読むのは骨が折れ
るし、疲れているこの頭でどれだけ理解できるかわからない。そもそもが、あまり文章の類は自分は得意ではない。カトリーヌ辺りに見せたら嬉々として読
み始めそうだけれど。
後で部屋に帰って読もうと、セシルはソレを折りたたんで矢筒の中に入れた。
「それにしても、まさか撃たれるなんて……って、あ、れ……?」
一瞬の眩暈。
立ったいられなくなり、セシルはぺたんとその場に座り込んだ。
「どう、した………んだ、ろ……」
立ち上がろうと足に力を入れるが、まったく足はぴくりとも動かない。右手の矢傷と左肩の爪傷が痛むが、それを無視して両手で立ち上がろうとしてみる
も、傷口が傷むだけでやはり力が入らなかった。
ただ、血だけが流れ出る。
急に頭が回らなくなってきた。
体が鉛のように重く、今にもまぶたを閉じそうになるほど意識がふらふらしている。血が流れ出る傷口を見る視界は靄がかかったかのように霞み、自分の
体が二重に見える。
確かにあの螺旋階段を全力疾走で往復し、敵と二階交戦。体力の限界と言うのも頷けるが、ここまで疲弊していたのなら体が前兆を訴えたはず。それに、
傷と言う傷は今の攻撃で受けただけだ。それにしては、この状態は異常すぎる。
それに、一撃矢を食らっただけにしては、傷口から流れ出る血の量が、多い。
まさか、毒?
セシルの考えはそこにたどり着いたとき、遠くから、ブーツが響く音が聞こえてきた。
「やっぱり先の爆発はセシル殿でござったか……」
座り込んだまま、廊下へと駆け込んできた人物をぼんやりと見上げた。
首元に巻かれた赤いスカーフと、暗闇で薄く月のように光る金褐色の瞳が、目に入る。
「エレ………メス?」
「……? セシル殿、どうしたでござ―――これは」
座り込んだセシルを引き起こそうとセシルへと近寄ったエレメスは、どうやら即座にセシルの状況を悟ったようである。流石に毒はアサシンの十八番と言う
だけはあるのだろうか。「ちょっと失礼」と断ってから、エレメスはセシルの頬に触れまぶたを少し下方向に引っ張り眼球を覗き込む。そして一つ頷くと、辺
りを見渡した。
「……」
セシルの傍らに落ちていた矢を拾い、エレメスは矢尻の先についていたセシルの血を指先に掬い、ぺろりと舐めた。そして、すぐさまそれを唾に絡めて吐き
捨てる。
その顔は、百の苦虫を噛み潰したかのように顰められていた。
「……また珍しい毒でござるな。これにやられたのでござるか?」
セシルの横にしゃがみこみ、セシルの右腕をつかんで持ち上げる。矢傷が痛み、思わずセシルは顔を顰めた。
「………エレメス、痛い……」
「ちょっと我慢するでござるよ」
嫌がる口調にも、いつもの覇気がない。エレメスはセシルの顔を見やる。真っ青になった唇に、焦点の合わない青い双眸。どうやら、もう視力も朧らしい。
この毒の詳細はエレメスも知っている。ノーグロードの二階層に生息していると言われている蠍型のモンスター、ギグの尾っぽから精製された猛毒。即死性
はないものの、体の自由を奪い、血小板やその他の自衛作用を著しく低下させ確実に死に至らせる毒。これが体に回りきると、たとえセシルであろうと長くは
持たないだろう。
エレメスは毒が回り始めていることを再確認し、自分のスカーフを適当な長さで切り裂いた。そして、それを傷口より若干上方向に位置するところに強く縛
りつけ、
「ちょ……っと、あんた……何、やってるのよ」
「今すぐには解毒剤は作れないでござるから……気休めでござるよ」
何のためらいもなくセシルの傷口に口をつけ、血と一緒に毒を啜り取る。
ある程度口に含んだところで、唾に絡んで廊下に吐き捨てる。一度で全部の毒を啜りきれるほど、エレメスには自信は無かった。ある程度の毒ならば自分の
体の中で分解できるよう修練は積んであるが、うっかり飲み干してしまうと毒素が強すぎた場合自分も二の舞になる。それほどまでに、この毒は毒性が強い。
少しずつ含み、多量の唾液と絡ませる。それを、何回も繰り返す。
「……んっ」
「痛いでござろうが……できるだけとっておかないと、後で響くでござる」
「ゃっ……っ」
何度にも渡って繰り返される吸血に、不思議とあまり抵抗感はなかった。
初めて感じるえもいえぬ感触に、それでも思わず声が上がってしまう。その感触を言語化することすら、今のセシルの頭ではできそうにもなかった。ただ、
傷口を吸われる感触に、僅かに身動ぎをする。
呻き声を上げたセシルに申し訳なさそうな顔をして、エレメスは再び傷口を口に含んだ。
それから五分程度毒を吸い取ったエレメスは、先ほど毒を止めるためにきつく縛ったスカーフを解いた。
腕の圧迫感が消え、セシルは気づけば閉じていた目を開ける。薄っすらとだが、一番きつかったときに比べれば若干視界がクリアになった気がしていた。
「できればもうちょっと清潔なものがあればよかったのでござるが……トリスたちに全て使ってしまったでござるよ」
苦笑しながら、エレメスは解いたスカーフの切れ端をセシルの患部にまきつけていく。まるで飾り布のように巻きつけられた、包帯代わりの赤いスカーフ。
まだ少しぼーっとするが、毒の進行は食い止められたようだった。体全体にだる気はあるものの、左手を開閉させてみた。
「……腕、動く」
「刺された場所が右腕でよかったでござるな。心臓から遠い位置でござったから、毒が最後まで回らなかったのでござろう」
にぎにぎと体の末端が動くことを確認したセシルは、それに遅れて左肩の裂傷が疼きだしたことに気づいた。どうやら、今まで毒のせいで痛覚まで朧になっ
ていたらしい。その割に吸引される感覚は残ってた辺り、どうにも現金な体だとセシルはぼんやりとした頭で思った。
セシルの顔がしかめられたのに気づいたのか、スカーフを巻き終えたエレメスは左肩の傷に気づき、
「これは姫に治してもらったほうがよさそうでござるな……セシル殿、歩けるでござるか?」
「ば、バカにしないでよ。歩くぐらい……って、あれ」
必要以上に優しく接してくるエレメスに、セシルは覗き込んでくるエレメスの視線から逃げるように立ち上がった。
しかし、立ち上がることはかろうじて出来るが、足が巧く動いてくれない。立てるだけまだマシになってはいたのだが、歩けるほど平衡感覚は回復していな
いようだった。血を流しすぎて貧血になったか、それとも、毒の余韻か。立ち上がった瞬間、すぐさま足から力が抜けていく。
壁に手をつき、そのままずるずるとまた座り込んでしまった。
「う、うぅー……」
「やっぱり無理でござるか……セシル殿、ちょっと失礼」
「きゃ、ちょっ……っと! おろしなさいバカ!?」
自力で歩くのは無理そうだと判断したエレメスは、セシルの体を抱き上げた。右腕はセシルの首の後ろに回し、左腕はセシルの両膝の裏に回し、セシルの顔
はエレメスの胸の位置。いわゆるお姫様抱っこ。
いきなりそんな恥ずかしい格好で抱きかかえられたセシルは、エレメスの胸板をばこばこ殴りながら抗議の声を上げた。殴る度に左肩と右腕が痛いが、今は
痛覚より羞恥心の方が上回っている。
「と、とと、危ないでござるよ、セシル殿」
「危ないのはどっちよ!? って、きゃあっ!? あんた何処触ってんの!?」
「セシル殿が暴れるからでござる!?」
もはや毒のダメージは何処へやら。顔を真っ赤にさせて暴れるセシルに、エレメスは困った声を上げながら廊下を歩く。
だが、困った声を上げたいのはセシルも同じである。さっきまでは意識が朦朧としていたため何も感じる余裕はなかったのだが、冷静になるにつれて今まで
どれだけ恥ずかしいことをされていたか考える余裕が出来てしまったのだ。
脳裏でぐるぐると、今までの光景がリプレイされる。
敵のスナイパーと遭遇するまで。
傷を負った後。
エレメスに抗議の声を上げたとき。
エレメスの唇が自分の二の腕に触れたとき。
エレメスの舌が――――
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「ったー!?」
振り上げた拳がエレメスの顎にスマッシュヒットし、思わずエレメスは情けない声をあげてふらふらと足が蛇行する。
セシルは右腕に巻きつけられたスカーフを、左手で照れ隠しにぎゅっと握り締めた。
マーガレッタの部屋にたどり着くまで、セシルは結局、まともにエレメスの顔は見れなかった。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||