「あー、もう。ほんと昨日は酷い目にあった」

 ぶつくさと一人ゴチながら、セシル=ディモンは廊下をブーツでかつんかつん
鳴らしながら歩いていた。整った柳眉はつりあがり、笑めば人を和ませられるで
あろう頬は引きつりまくっている。
 昨日の夕飯は何処ぞのアサシンクロスのせいで食べ損ねるわ、夜中にお腹が
減ったから恥を凌いで食堂に行ってみればまた遭遇するし、おまけにそれをカト
リーヌ=ケイロンに見られるわで、眠るまでに散々な目にあった。

 それもこれも全部、エレメスのせいだ。
 どうやら、彼女の中ではこれが最終確定らしい。良くも悪くも、セシルは喧
嘩両成敗という言葉を脳内に登録してはいないようだった。

 今日の朝、そのことで早速文句を言ってやろうと食堂に行ってみるも、朝の
定期巡回で二回部に降りているとのことだったらしく、姿を見せなかった。朝
も早くからご苦労様であるが、いきまいていただけに肩透かしを食らったよう
にも感じる。
 そしてそのまま、お昼に時間にもエレメスは顔を出さなかった。こうまでく
ると避けられてるのかとすらも思う。ただ文句を言いたいだけなのに、何故か
逢えないことに対しての苛立ちが少しだけ加算された。

「……ぁ」

 カツン、と、セシルの足音が止まる。
 彼女の視線の先、数メートル。当のエレメス=ガイル本人が、開かない窓の
手すりに両腕をもたらせ、外を見上げていた。

「あいつ……」

 文句を言ってやろうと、足を進める。

 昨日は、「姿を隠れなければ襲われる」などと嘯いていたくせに、まるで無
防備に彼の視線は窓の外に釘付けになっていた。あれでは、おそらく背後を取
られても気づけないだろう。
 現に、高らかと響かせているブーツの音に、まったく彼は気づいていない。

「……」

 言葉に、少し詰まる。何故、窓の外を見続けているのだろう。窓の外なんて、
もういつまでも変わらないのに。ただ、全てが遮断されているだけなのに。
 セシルはまた歩数を進めた。

 ただ、傍目で見ただけなのに、窓の外を魅入っていると、わかってしまった。
 何故かは、セシル自身にもわからなかった。ただ、彼の横顔を見ただけで、
そう、感じ取れてしまった。
 普段、滅多に見せない憂い顔なんか浮かべてるほうが、悪いんだ。

「何、してんのよ」
「おぉ、これはこれはセシル殿」

 彼の元にたどり着く頃には、すっかり怒気は収まってしまっていた。
 エレメスはさっきまで浮かべていた表情など微塵も残さず全て消し去った笑
顔でセシルに振り返る。ただそれだけの行為で、何故か、収まったはずの怒気
が少しだけ鎌首をもたげた。

「ちと、窓の外を見ていたのでござるよ。いくらこれが形だけの窓だとしても、
警戒は必要でござるからな」
「あっそ。で、何か見つかったの?」

 セシルの表情に気づいているのかいないのか。エレメスは相変わらずへらへ
らと笑いながら、

「いや、何もないでござるよ。いつも変わらない、いつも同じでござる」

 いつもと変わらない口調で、告げた。

「じゃあ、何で見てたのよ」
「何となく、でござるよ」

 何か禅問答をしている気分になってきた。
 セシルは肩で息を抜き、エレメスが今まで見ていた窓の外に視線をうつした。
エレメスもまた、セシルから窓の外へ視線を戻したのが気配でわかる。

 窓の外には、灰色の壁。高く高く聳え立つ、研究所の全長を遥に越そうといえ
るほど高い壁。過剰ともいえるぐらいの高さ。
 見たところで、何も面白くない。面白くないどころか、何か、胸が騒いで疼き
だす。

 別段何もない、ただの壁なのに。
 別段何もない、ただの壁だからこそ。

 窓からエレメスのほうを振り向き仰ぐ。彼はまだ、窓の外を眺め続けていた。
 他の男二人とは見劣りするけれど、けれど決して低くない身長。その彼と並ぶ
と、小柄に分類される自分はどうしても見上げなければ行けなくなる。
 自分とは違う背丈、違う目線。彼の目線で見るこの牢獄のような壁は、果たし
てどのような情景で映っているのだろうか。

「……ばっかみたい」

 隣に立っているエレメスにすら聞こえないぐらい小さな一言の呟きで、心の中
にわだかまっていた感傷をセシルは全て洗い流した。
 そして、自分にしては珍しく意外と素直に声が出た。

「夕飯いこ?」
「おっと、もうそんな時間でござるか。いやはや、一日が過ぎるのは早いでござ
るな」
「今日、朝もお昼も食べてないでしょ。よく動けるわね」
「ふふふ、隠密とはどんなような状況でも生き延びなければいけないのでござる
よ。これぐらい朝飯前でござる」
「あんたはほんとに朝ごはん食べてないから笑えないわ、それ」

 はぁ、とため息をつくセシルを見て、エレメスはからからと笑う。
 そして、その笑顔のまま、まったく何も考えてなさそうな口調で言葉を放った。

「そういうセシル殿こそ、絶食は得意なのでは?」
「……はぁ? どうしてそうなるのよ。あんた、いつもあたしの食事量見てるで
しょ」
「いや、どうしてと言われても。好き嫌いが存在しない限り、その体の発育具合
はいささか疑念の余地が」

 セシルの口元がヒクッと引きつった。珍しくこっちから誘ってあげたのに、と
いう思いを言外に込めてエレメスを睨み付ける。

「それに、今日まで食いっぱぐれると、拙者はいいでござるがセシル殿の発育に
影響もあろう」
「……それどういう意味?」

 彼が調子に乗れば、とことん口が滑るヤツだというのはそれなりに長い付き合
いで知ってはいる。理解してはいる。
 けれど、それでも乙女心で一番気にしてることをこうもさらりと言われて誰が
納得できようか。

 二人の声しか響かない廊下の空気が、物理的ともいえるような質量でひしゃげた。

「いやぁ、カトリーヌ殿の食べっぷりと体の対比を見ればおのずとわかるでござるよ」
「……」

 パチン、とリストバンドをつける音が静かな廊下に響く。
 事ここにいたり、ようやくエレメスは目の前の情景を把握した。

 けれど、三秒で思考を放棄した。くるっと踵を返し、全色ダッシュの構えを取る。

「い、いや、セ、セシル殿、これは―――!」
「今日という今日は、絶対に許さ―――!」


 ―――――――――ビーッ! ビーッ! ビーッ!

 その刹那に、高らかに鳴り渡る合成音の亀裂音。
 突然の出来事に、セシルは構えていた弓を下段に下ろし素っ頓狂な声をあげた。

「っと、な、何!?」
「これは……侵入者の合図、でござるな」
「え、嘘!? またあたしのトラップ破られたの!?」

 昨日撃退した騎士を思い出し、セシルはリストバンドをぎゅっと握り締めた。

 生体研究所、三階部エリア。人々がここに来る目的は細分化すればキリがないが、
大まかに分けると大体三種に分類される。
 一つは名声。ここにいる自分たちを退却させるほどの技量があるならば、確かに
誇ることも可能だろう。その名声を求めて襲い掛かる人々を、彼らはとりわけ何も
感慨を込めずに撃退し続けた。
 次に、ありがちな話ではあるが、金銭目的。ここにある研究資料、研究材料は他
国へ持ち出せばどれだけのお金になるかは計り知れない。いたるところで散乱して
る研究紙片一つでさえ、おそらく想像もつかない量のお金が積まれるだろう。その
金のなる木としてここを訪れた人々を、彼らは悉く撃退し続けた。僅かな憐憫をこ
めて。

 そして、最後。
 腕試し、更なる修練、色々と理由付けは可能だろう。ただ、端的に言うならば、
一言で終わる。
 それは、戦闘欲。人間が生まれながらにもつ戦闘本能を満たすためだけの、飽く
なき欲求。
 バトルマニアとも呼べる人々と戦うとき、彼らはほんの少しだけ、その欲求に、
欲望に、渇望に、隙を突かれる。

 あるがままに生きる彼らを見ると、何故か、胸が疼きだす。
 自分だって、生きているのに。

「とりあえず、行くでござるよ」
「あ、う、うん」

 すっと腰に下げたずた袋から愛用のカタールを取り出したエレメスは、普段の調
子のいい笑顔を下に隠し冷徹鋭利な面持ちで廊下の奥を見つめる。戦闘のスイッチ
が入ったのだろう。

「音の方角からして、おそらくもうセイレンたちが向かっているでござろう。拙者
らはどうするでござるか?」
「そうね……」

 意見を求められて、少しだけ視線を宙に泳がす。
 自分も冷静にならなければ。

「警報機が鳴ったからといって、そこだけにいるとは限らないわね。別方向から索
敵しながら合流しましょ」
「心得たでござる」

 エレメスに遅れて、自分も意識をきゅっと引き絞る。
 自分がここに引き取られて、もうどれぐらいの年月が経っているかは覚えていな
い。けれど、自分がここに来たのには理由があるし、ここに来た以上、やらなけれ
ばいけないことも課せられた。

 リストバンドを、パチンと、と両腕に装着する。

「思えば、そのリストバンドいつもつけてるでござるな」
「あ、これ? うん、たった一つの形見だから」

 軽い気持ちで訊ねた質問に返ってきた答えに、思わずエレメスはばつが悪そうに
眉根を寄せた。彼にしては殊勝ともいえるそんな反応に、セシルは意地悪そうに微
笑んだ。

「あんたでもそんな顔するときあるのね、ちょっと意外」
「からかわないでほしいでござるよ。それに、何か酷い言われようでござるな」
「まぁ、そんなにアレな話でもないから。ただ、一人っ子だったから甘やかされて
ね。何不自由なく暮らしてたんだけど……気づいたら、ね。いっぱい色んなものが
あったのに、もうこれだけしか遺ってなかったの」

 エレメスが、セシルの言葉の感情をどのように汲み取ったのかは、彼女にはわか
らなかった。
 ただ、彼が「それじゃ、行くでござるか」と改めて仕切りなおしたのに対し、セ
シルも「うん」と頷く。

 セシルとエレメスが、警報機の鳴った方向とは逆へ走り出したのは、ほぼ同時で
あった。しかし、エレメスだけは数歩歩みを刻んだところで、後髪を引かれるよう
にその場に立ち止まった。
 後ろを振り返る。

「いつもと変わらぬ……見事な、夕日でござるのに。野暮な侵入者でござるな」

 窓の向こう。鮮やかな夕日が、廊下をオレンジ色へと、染め上げていた。
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