-0-
「ちょーっとアンタ! いくら儲かってないからって鋼鉄の矢が一本10ゼニーだなんて、ボッタクリもいい所じ
ゃないの!?」
「流れの行商とっ捕まえて儲かってないとは何じゃい。安く仕入れて高く売る、コレが商人ちゅーモンじゃろう
ぞ。ま、高ぅて買えんと言うのなら、他を当たって貰うても構わんのじゃがのう?」
「なっ、そっ……、もうっ、買えばいいんでしょ!? 女の子の足元見るなんて信じらんないっ!」
「これも商売だもんでのぅ。まぁ姉さんもお得意さんじゃて、オマケつけたるから堪忍しなんせぇ」
「オマケぇ? ……って何よこの瓶。水?」
「ただの水やと思わん事じゃて。そりゃワシがウンバラで仕入れた神秘の水じゃでの」
「胡散臭いわねー」
「まぁ曰くつきの品なんぞ、皆ぃんなそんなモンじゃろや。話半分でも聞いておきんしゃい。……その水ァ女神
の水と言うての、世界樹に住まはる神さん達の水ぞ」
「女神の水ねえ……。で、その女神の水が何なのよ。飲むと神様にでもなれるってワケ?」
「まあ似た様なモンじゃてな。ま、美人の水ちゅうヤツじゃいて。一口飲めば頭澄み渡り、二口飲めば心休まり、
三口飲めば……」
「三口飲めば?」
「そこまで明かしちゃツマランでな。マァ有難い神様の水ぞ、身体に悩みがおありなら、飲んで損はなかろうて
のう」
「ふーん……ま、貰っとくわ。飾りにはなるでしょ」
「何じゃい飲まんのかい」
「当ったり前じゃない。胡散臭いジジイの胡散臭い水だなんて、危なっかしくて飲めたもんじゃないわよ。それ
じゃまたね。今度は少しくらい勉強しないと買ってあげないんだからっ」
「ヒョッヒョッヒョ、またのぅ」


-1-
 セシル=ディモンは悩んでいた。手にはさきほど行商の老人から貰った、得体の知れない液体の入った小瓶が
ある。そろそろ朝食の時間が近い。
「あのジジイの言葉なんて信じらんないけど……」
 身体に悩みがおありなら、飲んで損はなかろうてのう。その言葉が耳から離れない。
「体の悩み……」
 体の悩みなど、無いと言っては嘘になる。確かに仲間の女性の内では自分に魅力が無いとは思っていないし、
生業の弓術の腕では自分の右に出る者は居ない。だが……。
「これを飲めば、その」
 誰も居ないのは解っていても、顔が赤くなる自分がもどかしい。
「む……、胸とかも……」
 ここ、レッケンベル生体工学研究所内・研究協力者専用寮の浴場は、複数の人間が同時に入浴するには十分広
い。そして当然他の、今では皆顔見知りとなっている他の研究協力者たちともここで顔を合わせる事はある。そ
んな時に影ながらセシルが最も意識しているのは、
自分と他人との胸の絶望的な差異だった。男どもや弟は表立っては何も言わないが、たまに男たちが談話室でそ
ういう話題になっている時、自分の名前が一度たりとも上がってこないのは……少し複雑だが、それでもやっぱ
り屈辱だった。
「むむ……」
 手の中に目を落とす。瓶は化粧瓶の様な小洒落たもので、セシルの両手に納まる程度の大きさだ。中の液体は
透明で無臭。瓶を振ってもドロドロした感じはなく、ただの水と何の違いもなく見える。だが、それが一層、怪
しさを際立たせてもいる
「……やめたやめた。こんな怪しいもの飲んじゃって、もし毒でも入ってたら堪ったもんじゃないわよね」
 そう言い聞かせて、この水は花にでも遣ってしまおうと席を立った。味気ない部屋を少しでも飾るために置い
ている一輪挿しの方を見やり、
「!」
 いつも欠かさず見ている大きな姿見が目に入り、そしてそこに映る自分の姿が見えた。
 鏡に映った凄腕の弓手に、弓を引くために無駄な肉は一切ついていない。
 常に最適な位置取りを得る為のしなやかな脚。
 弓の堅い弦を引き絞る為に鍛え上げられた引き締まった上体と、それの恩恵とも言える深くくびれたウエスト。
 ――そして弦を引くのに最適な、肉付きの切ない胸。
「うぅ……」
 それらを全て併せ持った、一見華奢にも見える狙撃手の目はこう言っていた。早まるんじゃない、自分の悩み
を消してくれるかもしれない魔法の水を捨ててしまっても良いのか。
「……ええい、もう知らないっ!」
 長年のコンプレックスに突き動かされる様に、彼女は蓋の開いた瓶に口をつけ、そのまま垂直に呷った。
「っぷはー! ホラ飲んだわよ、コレで文句ないでしょ!? ……それにしてもコレ、飲んだ感じも普通の水じ
ゃない。やっぱあのジジイ、誤魔化すため……に……」
 直前まで吹っ切れていたセシルが、今度は急に大人しくなった。語調が鈍り、瞼も重い。
「ふぁ……何これ……眠……」
 言っている間にも眠気が増してくる。とうとう我慢できなくなり、残った気力で自分の身をベッドに投げ込む
ませると、彼女の瞼は完全に閉じてしまった。

 どこか遠くで朝の遅い鶏が鳴いている。
 彼女の部屋からは規則正しい寝息だけが聞こえてくる。

-2-
「セシルー、朝飯食わねえかぁー?」
 ハワード=アルトアイゼンは、朝食の時間になっても食堂に現れないセシルを呼びに来ていた。自分の知る限
り、彼女は仲間内では一番の早起きで、そして一番の大食漢だ。他の誰が来なかろうと彼女が居ない、増してや
食事の時間に遅刻するなど今まで一度たりとも無かった。
「セェシルーっ、寝てンのかぁー?」
 まさか今日に限って何かあったのかも知れない。先程からどれだけノックをしても反応がない事も不安要素だ。
「仕ッ方ねえなァ……。セシル、邪魔するぞォ!」
 まさかとは思うが、ここで飲用を要求された薬品の副作用でも出て返事どころではないかも知れない。そうだ
とするなら一大事だ。即刻医療班に連絡せねばなるまい。
「セシル、何か変な事でもあっ……あっ? ……アッー!?」
 ドアを開けたハワードは、ベッドに倒れこむ人影を見つけて近寄り、確認し、そして仰天した。
「おッ、お、おおおおお前セシルかァ!?」
 ベッドで丸まっていたのは、長身痩躯の美人狙撃手ではなく、まだあどけない顔立ちの少女だった。そして何
故かその少女は、セシルが普段着代わりに来ている動きやすい――つまり露出度の高いセパレートの戦闘服を身
体に引っ掛けていた。
「……んん」
 自分のこの大声で起こしてしまったのだろう。セシル……の服を引っ掛けた少女が寝ぼけ眼を開き、そして起
き上がると……、
「ッ!! 待て! 待て待て動くなッ!!」
 彼女の肩で辛うじて引っかかっていたセシルの上着が、重力に引っ張られていまにもずり落ちそうになる。自
分は幼女の肌に興味などはないが、ひょっとするとこの少女は自分の顔見知りであり、同僚であり戦友であるか
も知れないのだ。それに考えが行きついてしまうと流石に気まずい。非常に気まずい。
 何が何やら解らない状況で、とりあえず彼女の肌を隠す事を何より先に思いつき、咄嗟に自分の上着を脱いで
着せてやる。少女は眠気覚めやらぬ目つきで、不思議そうにこちらを伺っている。
「こっ、こりゃ一体、えーっと……そうだッ」
 この状況でまずは何をするべきだろうか、少なくとも自分一人では考えが纏まらない。かと言ってこれを仲間
の男達に見せるのは……少々心許ない。騎士の彼では自分と一緒に頭をかかえるだけだろう。愛する彼は今は妹
達の様子を見に行っている。魔導師の彼女はこの場合は論外だ。だとすると一番頼りになるのは――
「マーガレッタ!」

-3-
 マーガレッタ=ソリンの朝は遅い。彼女は生来朝が弱いお陰で、朝食も皆が食べ終わり、談話室も兼ねた食堂
でおしゃべりをする頃になってから、やっと姿を見せに来る。今朝もいつもと変わらず、窓の外の喧騒を聞きな
がら毛布に包まって幸せに浸っていた。
「マーガレッタァー!」
「う……んん?」
 だが今日はそれが昨日までの様に続く事は無かった。誰かが遠くから自分を呼んでいる。しかもそれは次第に
近づき、部屋の扉のすぐ前まで来て、
「マァーガレッタァァァァッ!」
 ドアを勢いよく開け、声の主が入ってきた。年頃の淑女の部屋にノックもなしとは只事ではないが、その闖入
者のいでたちもまた、只事ではない。
「……。ハワード……?」
「マーガレッタ! 寝てるトコをいきなりですまねェが、お前の力が必要なんだ!」
 随分慌てていたのだろう、珍しく息せき切らせて飛び込んできたハワードの上半身は……裸だった。
「ええ……っと」
 寝ぼけた目をこすってよく見ると、慌てた様子のこの鍛冶師は腕に何かを抱いている。洗いざらしの白い布は
おそらくハワードの上着だろう、それに身を包み、キョトンとした様子でいる……年端も行かない幼い、そのう
え肌も露わな少女だと認識するのに、かなりの時間と精神力を必要とした。
 鼻息荒い半裸の男が、同じく半裸の幼女を抱え、無防備な眠れる女性の部屋にノックもなしに殴りこんでくる
状況で、男が必要とするもの……。
「……ああ、なるほど」
 彼の欲するものが解った。マーガレッタは女神の様と例えられる笑みを、迷える子羊に向ける。同時に眠る時
は常に手の届く位置に隠している法術触媒の釈杖に手を伸ばし、
「――ご入用なものは、神罰ですね?」
「……え?」
 助けを欲するものには全力を持って為せ。マーガレッタは自分の信仰を全力で貫いた。

-4-
「……つまり、この幼子がセシル殿だと。そう言いたいのでござろうか?」
 ハワードが膝に抱えた、ピンクの動きやすそうなワンピースを来た幼女を、エレメスが間の抜けた調子で訊ね
ている。
 セイレン=ウィンザーは朝食を終えた食堂の隅、食堂内を見渡せる位置にある椅子に座り、事のあらましを静
かに聞いていた。
「ああ……どうやらそうみてえなんだ。……嬢ちゃん、悪ィがもう一度、自分の名前を言ってくんねえか?」
 なぜか満身創痍の鍛冶屋が膝の上の幼女に声をかけると、彼女は「ん、」と頷き、舌っ足らずな声で、
「せしる」
 と答えた。自分で名乗るのだから、この子があの元気な弓手であるとは思うの反面、やはりまだ一つ現実味が
ない。そもそも人が若返るという話など、神話か御伽噺でしか聞いたことがない。
「……部屋には、この子が一人だけだったと言っていたな」
「オウよ。他には猫の子一匹居なかったぜ」
「それに髪の毛だって……、お顔だってセシルにそっくりですわ」
 マーガレッタが膝を屈めてセシルの頭を撫で、両手を握ってあやしている。
「私はこちらのセシルちゃんでも全然構いませんわ。ああ可愛い〜」
「セシル……、ちっちゃい」
「……?」
 そのマーガレッタの背後から、カトリーヌがものめずらしげにセシルを眺めていた。幼女も視線に気付いたの
か、ついにはその身柄をハワードの膝から奪い取り、ほお擦りまでし始めたマーガレッタに抱かれながら、カト
リーヌを見つめ返している。
「この寮は関係者以外立ち入り禁止。中には蟻の子一匹、増してや、斯様にか弱き幼子の迷い込む隙など有ろう
筈もござらぬなれば……」
「ならばやはり、この子はセシル……なのか」
 そう考えるのが自然なのだろうか。セイレンはやはり信じがたかったが、
「ま、どちらにせよ迷い子の可能性薄き場所故。セシル殿という事にしておいたとしても、さして差し支える事
もござるまい。ともすれば、これはセシル殿の悪戯で、その内ひょっこりと種明かしに来る、などという事もあ
るかも知れないでござるよ」
「ま、ソレで良いと思うぜ。暫くコイツは俺らが預かるとするか。なあセシル!」
 と言い、マーガレッタの腕の中のセシルに、無邪気な――相変わらず一番の年長者とは思えない笑顔を向けた。
幼いセシルはよく解ってない様子で、それでもハワードの笑みに釣られて嬉しそうにしている。
「それにしても、なんて愛らしい子なんでしょう、お肌も綺麗で髪もサラサラで、それになんていい匂い……。
まるで天使のようですわ」
 清楚な淑女であるマーガレッタが子供になったセシルを胸に抱く様は、武芸にしか縁の無かったセイレンの胸
にも暖かいものを感じさせる。そしてもう一人、
「ハッハッハ、このセシル殿が天使だとするならば、差し詰め姫は美の女神でござるな。そして拙者は女神と禁
断の恋に落ちる罪深き英雄……ああ姫ッ、拙者もいますぐその無垢なる胸中へ参るでござるよォォォ!!」
 愛に餓えた哀しき仕事人も、こちらはいつもの事だがスイッチが入ってこの母子像に割って入ろうとし、
「ハハハエレメス浮気は許さねーぞォ。――お前は誰にも渡さねえー!」
「イヤァァァ男は御免でござるぅぅぅ! 堅くて汗臭くて太くて痛いでござるゥゥゥァァァアアッー!!」
 これまたいつもの事だが、いい所で男色家に捕まり、暗がりに連れ込まれて断末魔を上げている。しかし皆慣
れたもので、セイレンは欠落者が去っていった方を見ようとはしないし、
「ほらカトリーヌ、貴女も抱いてみませんこと? セシルちゃんもカトリーヌに興味がおありのようだわ」
「……柔らかい」
 女性陣も何事もなかったかの様にふるまっている。
「うふふ、この子ったらカトリーヌが気に入ったのかしら。じっと見たまま目を離さないわ」
「かとりいぬ……?」
「ええそう。この人はカトリーヌよ。セシルちゃん、カトリーヌに挨拶しましょうね〜」
「かとりいぬ……」
「……。わん。」
 どうやらカトリーヌは子供に好かれる性分らしい。波長が合う、と言った方が良いのだろうか。セシルはカト
リーヌの首元に頭を押し付けて、今度はこっちを見ている。
「セイレンも……抱く?」
 セシルの視線に気付いたのだろうか、カトリーヌがこちらに振ってきた。
「わ、私か?」
「セイレン、変な気を起こしてはいけなくってよ?」
「変な気とは一体どんな気です……。おっと、君がセシルか……」
 カトリーヌに手渡されたセシルを、両脇を手で支えて顔の高さで抱き上げる。今のセシルは15歳は若返ってい
るだろうか。だいたい5つか6つくらいの年頃になっている。大人であった頃のセシルと比べると別人のように
大人しいのは、知らない顔ぶればかりで緊張しているのか、それとも現在のセシルはこの頃のセシルの反動なの
だろうか。
「うう……むむ……」
 普段、子供と触れ合う機会がないため、こういう時は何をどうすれば良いのか勝手が掴めない。
「は……始めましてで良いのだろうか。私は騎士のセイレン=ウィンザーだ。……大人であった頃の君にはよく
土を舐めさせられたものだが、またいつか手合わせをできる事を願って……マーガレッタ殿、私の顔におかしな
ものでも付いておりますか?」
 目に涙を浮かべて笑いをかみ殺していた聖職者は、そこでついに堪えるのを諦めた。
「だって……子供に真顔で自己紹介をする方なんて始めて見ましたもの。おかしくておかしくて……」
「しッ、仕方がないでしょう、慣れていないのですから。……む。セシル、どうかしたのか?」
 くっくっ、と喉で転がすように笑い、溢れそうな指で涙をぬぐうマーガレッタに憮然としながら、セイレンは
自分の手の中でセシルが身悶えるのを感じた。セシルは不満そうな顔でむずかった。
「おじちゃん……こわい」
「おじ……ッ」
 言葉の刃は、重厚な板金鎧をものともせずに、朴念仁な騎士の胸に突き刺さる。必死に弁明や否定の言葉を捜
しながらも、年端もいかない子供に言った所ですべて無意味だと悟った所で、
「そ……、そうか……」
 子供を抱き上げたまま、器用に肩を落として落ち込んだ。
「うふふふふ。セイレン、そんな仏頂面では子供も怖がって当然ですわ。もうちょっと笑顔をお作りなさいな」
「え、笑顔ですか」
「そうでござるよセイレン殿。ホラ拙者をご参考にされるが良いでござる。さぁさセシル殿、もう怖い御仁は居
りませぬ故、御機嫌をお取り直しあれ。折角の美貌が台無しでござるよ。それ、居ない居ないバァ〜っ」
「アッー! エレメェス! エレメスが木の幹になっちまってアッー!?」
 いつの間に変わり身で逃げ出してきたのだろうか。気が付けばエレメスがこちらの手からセシルを抜き取り、
片手で器用にあやしている。
「笑顔……笑顔、ううむ」
「ん? ちょいっと目ェ離してる隙に皆結構打ち解けちまったみてえだな? 俺の事なんか忘れられちまってっ
かも知れねえなあ〜」
 悩むセイレンの肩越しに、こちらもコチラ側に戻って来ていたハワードが茶々を入れる。
「オヤオヤそれは哀しき事哉。ではセシル殿が完全に忘れてしまわぬ内に思い出させて差し上げるでござるよ。
さぁハワード殿」
「おーよしよし、父さんの居ねえ間、大人しくしてたなぁセシル、偉いぞォ」
「おとうさん……?」
「あらあらハワードったら、いつの間にやらお父さん気取りなのね?」
「おかあさん……」
「あら、あらあら。セシルちゃん、私がそんな年齢に見えて?」
「マーガレッタ……目がこわい……」
 何やら皆盛り上がっているが、俯いて深く考え込んでいる自分には詳しい状況は判らない。しかしもう腹は決
まった。
「……セシル」
 セシルと、セシルをあやしていたハワードが気付いてこちらを見た。ぶっつけ本番だがきっと自分には上手く
やれるだろう。歴戦の騎士に不可能などない。
 柔らかい言葉を選んで、笑みを浮かべるのだ。優しげに、ニッコリと。
「さっきは無愛想ですまなかったな、セシル。仲直りをしてくれないか」
 に……にカァ……ッッッッ
 会心の笑みだと思う。これ以上の笑顔はできないくらいだ。
「ごっ、ご、ごごごゴザルぅ!?」
「せ、セイレン……!?」
「神よ……私の過ちをお許しください……」
「……。超兄貴……」
「……!!」
 笑顔のまま反応を待ってみる。セシルは、セシルの反応は……
「……ふぇぇぇん」
 泣かれた。

-5-
 研究協力者寮・そろそろ日付も替わろうかという時分。
 湯上がりのカトリーヌ=ケイロンは、寝る前に喉の渇きを癒すため、食堂へ向かっている。
 今日は退屈しない一日だった。朝起きたらセシルが小さくなっていて、ハワードがお父さんで、マーガレッタ
がお母さんで、皆たくさん遊んだ。始めは皆あの少女がセシルだとは信なかったけれど、今では誰も彼女があの
賑やかな弓手だという事を疑っていなかった。マーガレッタも何故そういいきれるのか答えられない様だったが、
きっとあの子の雰囲気がセシルそのものだからなのだろう。大人になっても子供になっても、大人しくなっても
セシルはセシルのままだった。
「……ん」
 食堂の前に差し掛かったとき、カトリーヌは足を止めた。食堂には誰かが残っていた。
「セシルちゃん、随分とお疲れのようですわね」
「ハッハッハ、鍛錬そっちのけで今日一日たっぷり遊んじまったからナァ。明日から鍛えなおしだぜ」
 マーガレッタとハワードの声。こっそり覗いてみると、談話用の長椅子に座ったパジャマ姿のハワードが、う
たた寝をしているセシルに膝枕をしてあげていた。
「あんだけ遊び倒して、よく飽きもしねえモンだよな」
「きっと遊びたい盛りなんでしょうね。健やかな証拠ですわ」
 ソファーの前の小さな卓には、大小二つのマグカップが親子のように並んでいた。向かいのソファーに座った、
ネグリジェを着たマーガレッタも、手に湯気の立つマグカップを持っている様だ。
「そういやァセイレン、あいつ結局一日出てこなかったな。ありゃ、余ッ程ショックだったンだろうなあ」
「あれは……仕方がありませんわ。あんなもの見せられたら、傷になってしまったっておかしくありませんもの
……」
「うっへぇそそのかした本人が酷ェ事言うモンだ」
「あらあら何の事でしょう。私今日は忙しかったもので、よく覚えておりませんの」
 大人の会話だな、と思った。ハワードも笑っている。
「それにしても……結局、セシルちゃんは子供のままなのね」
「ま、そもそも原因もはっきりしねえし、何すりゃいいんだか見当だって付かねえしな。……それに」
 そこで会話が聞き取れなくなってしまった。ハワードもマーガレッタも声を潜めてしまったのだろう。なんだ
か深刻な顔のハワードと、背中しか見えないマーガレッタ。マーガレッタの背中が少しだけ、笑ったように震え
て、つられてハワードも困ったように笑っていた。
「おっともうこんな時間じゃねえか。そろそろ寝ちまわねェとな」
「まあ大変、明日の朝が起きられませんわ。所でハワード、セシルちゃんはどうなさいますの?」
 一足先に立ち上がり、自分の分を含めて三人分のカップを片付けるマーガレッタ。ハワードは一言礼を返して
から、
「どう、って……そりゃまあ部屋があるんだし、そっちに送っていって寝かしつけるかと思ってるぜ」
「あら、そうなんですの。……だけれど、セシルちゃんはお望みじゃないようですわね」
「んん……おとう、さん」
 ハワードがセシルを抱き上げると、寝ぼけたセシルが彼の寝間着を掴んでしまう。あれでは離す事はできなさ
そうだ。
「ありゃま、……ま、仕方ねえか。今日一日くらい一緒に寝てやったって良いやな」
「子煩悩ですわね。本当は私もセシルちゃんと寝てあげたいのだけれど……譲ってさしあげますわ、”お父さん
”」
「ハッハッハ、悪ィな”お母さん”。そんじゃそろそろ俺は行くぜ。また明日な」
「ええ、また明日」
 そう言ってハワードが食堂の出入り口に、こちらに向かってきた。ちょっとまずい。ここで見つかると立ち聞
きがばれてしまうが、近くに隠れられそうな所は……。
「御免」
「!!」
 突然耳元で囁かれたかと思うと、いきなり身体を抱きかかえられ、なんと天井の位置まで持ち上げられてしま
った。驚いて挙げそうになった悲鳴は、口元に当てられた手のせいでハワードまで届かなかったようだ。
「カトリーヌ殿、拙者でござるよ」
 そう言われて塞がれていた口が自由になった。この一連の動きの主は、このお調子者の隠密だったようだ。
「エレメス……居たの?」
「し、お静かに……」
 言われてカトリーヌは息を潜めた。声がさっきよりも近い。耳に吐息がかかってくすぐったかった。エレメス
はどうやら、自分一人を抱きかかえたまま天井に張り付いているらしい。左腕と右足で器用に人一人を支えたま
ま、残った手足でどうやって捕まっているのかは判らない。それよりも息を潜めていると背中が温かかい。エレ
メスの体温だ。その温もりも体の逞しさも、いつもふざけて抱きついてくるマーガレッタとは全然違っいて、何
故か落ち着かない。妙に恥ずかしい気がする。
 そんな事ばかりが頭の中を回っている間に、ハワードもマーガレッタも自分達の部屋に戻ったようだ。エレメ
スが通路に降り立ち、カトリーヌは解放された。
「手荒なマネをしてしまって悪かったでござる。どこか痛めた所などないでござるか?」
「あ、……だい、じょうぶ」
 なんだか気まずくてエレメスと目を合わせられない。
「しかしカトリーヌ殿にも出歯亀の趣味がおありとは、気があうでござるな」
「!」
 悪い事をとがめられた様な気分だった。自分がここに居たのは偶然なのだ。首を振って否定するとエレメスは
ハッハッハと笑った。
「冗談でござるよ、カトリーヌ殿。大方喉を潤しにきたのでござろう。カトリーヌ殿が廊下を歩いてくるのもこ
の目でしかと見て仕り候」
「……」
 無言で頷く。それにしてもエレメスは一体いつからここに居たんだろう。
「拙者、元より日陰者故。影ながら幼きセシル殿を見守っていたでござるよ。しかしこうして皆寝てしまったか
らには拙者も御役御免。カトリーヌ殿も一人が不安なら部屋まで送るでござるよ?」
「あ……」
 少し迷った。暗い場所を一人で歩き回る事なんてもう慣れているし、途中で何かに襲われたって返り討ちにで
きるだけの力はある。ただ……断る理由も無いが、しかし、
「私は……後から行くから……」
 断ってしまった。エレメスは笑顔を崩さない。
「そうでござるか。それでは拙者、一足お先に休むでござるよ。カトリーヌ殿も暗所で足を滑らす事などなき様、
気をつけて戻るでござる」
「うん、……ありがとう」
 それが忍びの勤めであるが故、と言い残してエレメスは消えた。さっきまで目の前にいたのに、これも隠密の
技なんだろう。カトリーヌはしばらくそこに立ち尽くし、エレメスとの会話を思い返していたが、
「……のど、渇いた」
 すぐにごまかす様に食堂へ消えていった。

-6-
 セシル・ディモンは状況を判断しかねていた。
 ついさっきまで、何か楽しい夢を見ていた様な気持ちで夢と現をさまよっていたが、少しずつ目が覚めてくる
と自分の寝床に違和感を覚えた。そしてそれはハワードの逞しい胸板のせいだと気付くのに10秒かかった。何だ
ろうこれは、これは一体何なのだろう。何故自分はハワードの部屋で、彼に抱かれて一緒に寝ているのか。何故
自分はサイズのあまりにも小さいパジャマを着ているのだろうか。考えが纏まらないが、段々機能の記憶が戻っ
てきた。
 昨日の朝、セシルは行商の老人から貰った水を飲んだ。その水の効果か、自分は子供になってしまった。そし
て子供になった自分はハワードを父親と勘違いしていつもべったりとくっついていた。何故そんな事を覚えてい
るのだろうか。子供になってしまった時は名前くらいしか覚えていなかったというのに。しかし今の問題はそん
な事ではない。
 確かに寝る前、自分は子供のままだったのだろう。ハワードも何の疑念も抱かず、添い寝のつもりで寝かしつ
けてくれたのだろう。しかし今、例の水の効果が切れたのだろう今、こうやって元の姿に戻ってしまった今とな
っては、この絵面は非常にまずい。何より昨日一日ハワードに甘えていた記憶と、そのハワードが目と鼻の先も
先、息もかかる距離に居るこの状況がセシルの顔に火を着けた。逃げなければならない。今すぐこの場から立ち
去らなければならない。ハワードを起こさない様に、慎重に腕の中から抜け出し、あとは一直線に部屋から逃げ
出した。扉を開けたときにハワードを起こしてしまったかもしれないが、確認する余裕などない。
 部屋に着くまで誰とも鉢合わせしなかったのが唯一の幸いだった。

-7-
「おやおやお二方、本日も鍛錬はなしでござるか?」
「よォエレメス。そっちは相変わらず忙しそうじゃねえか」
 昼下がりの食堂兼談話室。エレメス=ガイルは妹達の様子を見てきた帰りに、何かつまむ物でも探そうと顔を
出した。談話室側の長いすでは、何かを待っている様子のハワードと、くたびれた雰囲気のセイレンが居た、昨
日の惨事がよほど応えたと見える騎士は、妹にでも借りたのだろうか、小さな手鏡を前にして必死に顔を歪めて
いる。あまりに不気味なので後から姫殿に嗜めてもらわなければなるまい。
「セシルの奴……出てこねえな」
 二人がけの長椅子に脚を組んで横になっているハワードは、廊下に続く入り口をしきりに気にしていた。
「まあ、拙者が今朝がた見かけた折の様子から鑑みれば、それも仕方の無い事と言えるでござるよ」
 今朝、いつも通りに寮内を巡回していた時に、エレメスはハワードの部屋から足元不如意の様相で逃げ出すセ
シルを目撃していた。気配を隠していたため、こちらには気付かなかった様だが。セシルはそのまま自分の部屋
に駆け込んだきり、姿を現さない。
「いや、あの時のセシル殿は見物でござった。顔を真っ赤にしてこけつ転びつ走り去る様は、見ていて微笑まし
いものでござるなあ」
「エレメス、女性の醜態を笑うとは趣味が悪いぞ」
「いやいやセイレン、あれは決して醜態などではござらん。――恥じらいに身震わせる女性ほど可憐なものはな
いのでござるよ?」
「そして男の尻ほど魅力的なものは無い……。そうだよな、エレメス?」
 ぞっとする視線をこちらに向けてくる怖い鍛冶師から目を逸らして続ける。
「それにしても、一過性のもので良かったでござるな。あのまま戻らなかったら」
 言葉を切って少し考える。あのいつも元気の絶えない狙撃手が、子供になると一転して借りてきた猫の様にな
っていた。もとが悪くないだけに、そのまま気をつけて10年も育てば、花も恥らう清純な美少女に成長する事も
……
「嗚呼! なぜセシル殿は大人になってしまったのでござろうか! 真に口惜しき由々しき事にござるぅぅぅぅ
ぅ!!」
「そういう不純な事ばっか考えてっからだろ」
 自分の身を抱き、クネクネと身体を波打たせているエレメスを尻目に、笑顔作りを諦めたのだろうか、セイレ
ンが鏡を置いて溜息を一つ。
「鏡をセニアに返してくる」
 と言って去っていった。緋色の外套を纏った背中がすすけている。
「しっかし結局ありゃ何だったんだろうな。何だってまたセシルだけがあんな子供になっちまったんだ?」
「それは拙者にも皆目見当の付かぬこと故。セシル殿の薬の中にも、おかしなものは見られなかったでござる。
……ま、こうして元に戻った物、結果よければ良しとするでござるよ」
「そいつァまた、太平楽だねえ……おっ?」
 ハワードが食堂の入り口に注意を飛ばす。エレメス気配で気付いた。
「セシル殿、具合はもう良いのでござるか?」
「あ……ええっと、うん」
 食堂の入り口から所在なさげにこちらを伺っているのは、昨日大いにここを賑わせた主であるセシルだった。
彼女はこちらが気付いた事で、おずおずとこちらに近寄ってきた。
「よおセシル、元に戻ったみたいで良かったぜ。身体の方は、もう何ともねえか?」
「あ、ハワード、あの……ええっと……」
 いつもと変わらぬ様子を装って訊ねたハワードに、セシルが何かを伝えようとしている。
「ええっと、その……あ、あ……」
「あ?」
 ハワードが聞き返した後も、どもった様にあ、あ、と繰り返した後、
「あれは何だぁーッッ!!」
「え!?」
「は!?」
 突然叫ばれ、つい勢いに飲まれて指差された方を、二人して見てしまった。当然そこには何もないのだが、
「ありがとっ!」
「へ!?」
「は!?」
 こちらが気を逸らせている隙に追い討ちで短く一声かけられた。二重に驚いて振り返るともうセシルは居ない。
廊下からバタバタと足音が遠ざかっているのが彼女だろう。残された男二人は、
「……」
「……」
暫く呆気にとられ、顔を見合わせて、
「……ぷっ、ハハハハハ」
「ふふ……ハッハッハッハッ」
 互いの顔のあまりの間抜さに、ついに笑いが堰を切った。
「せ、セシルの奴、……素直じゃねえとは思っていたが」
「これは流石に予想の範疇外でござった。ハッハッハッハッハ!」
 多分彼女はマーガレッタにもこれをやるのだろう。そして多分またマーガレッタに可愛がられてしまうのだ。
「いやはや笑った笑った」
「ああ腹が痛ェ!」
 とりあえず彼女はこれで大丈夫だろう。最後の最後で予想外の落ちも貰ってしまって何も文句は無い。
「まッ、これでここに居る必要も消えちまったし、いい加減体鍛えねえとな」
「ハッハッハ、相変わらず律儀な性格でござるな。所でハワード殿、アルマイア殿から言伝を預かってきている
でござる」
「さぁ訓練だ訓練だぁ昨日今日で鈍っちまってっからなぁ俺に妹なんか居ねえし俺は何も聞こえねえなあそうだ
ろう!?」
「最近またお金が足りなくなってきたので、アニキの財布から貰っておいたよ、との事でござる」
「アッー!お財布部屋に忘れてたアッー!? 今月まだ20日もあるのにィィィィィ!?」
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