「カトリーヌ」
 振り返りもせず、背中越しにセイレンが呼ぶ。
「……ん?」
「トリスのカードの接頭語は?」
 読みさしの魔術書から顔を上げ、カトリーヌは少し考えた。
「ギャングスター」
「ありがとう」
 さらさらとペンの走る音。彼女も書物に目を戻す。読書に耽るカトリーヌがもたれているのはセイレンの広い背中。
 ふたりは、大抵こうだった。ただ寄り添う相手の温度に安堵して、それぞれが互いを当然のように意識しながら、自分の思念を追
っている。言葉も抱擁も、あまり必要とは感じていない。
 それは余所余所しいように見えて、ひどく深いつながりだった。
 かすかに伝わる心音と、セイレンの走らせるペンの音がバックグラウンドミュージック。こうまで親友者が少ない日も珍しい。カ
トリーヌはため息が出そうなほどの有意義な無為に、とても満足していた。
 そうして、どれくらいの時間が経過したろうか。
 セイレンがぱたりと本を閉じた。
「……埋まったの?」
「ああ」
 この騎士の趣味がクロスワードパズルだと知った時は、なんとも似つかわしいような、どうにも似合わないような、不思議な気持
ちになったものだ。初めはふたりで解く事もあったのだが、カトリーヌの知識は膨大過ぎて、どうもその趣向を楽しむには至らなか
った。
 それ以後彼女は、セイレンが行き詰まった折の最終手段としてだけ、彼の問いに答える事にしている。
「カトリーヌ」
 脇に冊子を置いて、またセイレンが呼んだ。
「ん……なに?」
「もう、流石に遅い」
 建築物の中であるこの生体工学研究所に、本来の意味での昼夜はない。だが皆がそれは必須だと考え、そして小器用なエレメスと
ハワードがあれこれといじって回って、結果周期的に各所の照明の光量が落ちる仕組みになっていた。
 セイレンの言う「遅い」は、それに準拠している。つまるところ、「夜」も更けたからもう部屋に戻れと、そう言われたのだ。
 カトリーヌも手持ちの本をぱたりと閉じた。若干の不満を込めて眉を寄せる。
 彼のぬくもりが間近にあるだけで、誰と居るよりも、どこに居るよりも寛いだ気持ちになれる。
 だから。
 この朴念仁にこうして部屋に戻れと言われるのが、彼女はいつも少し悲しい。
 だがその感情の揺らぎには、同時に喜びめいた思いも混じりこんでいる。矛盾のようだけれど、その気遣い気回しは、彼にとって
自分が大切なものであるという認識と思考から派生する結論であると推論できるから。
 ただ、どうしてか今日は。
「……セイレン」
 素直に帰りたくなかった。セイレンの背中の側でくるりと半回転。そっと肩越しに腕を絡める。
「どうした?」
「おんぶ」
「……。何を言い出すんだ、いきなり」
 顔を見なくたって、恋人がどんな表情を浮かべているのかは判った。
「おんぶしていって。わたし独りで帰ると、迷子になるから」
「嘘をつくな」
 彼が肩越しに振り向いた。子供を窘めるように言う彼の目をじっと見返す。
「セイレン」
「いや、だからだな」
 如何ように宥めてようと断ろうと。
「おんぶ」
 訴えるように上目遣いされてしまえば、セイレンの敗北など、その場で決まってしまうのだ。


 背負ってみれば、カトリーヌは猫の子のように軽かった。背なに当たる豊かな感触。理性と騎士たる矜持を総動員して、セイレン
はそれから強引に意識を逸らす。
 背中同士はいつもの事。だというのにこうして少し接触部位が変わっただけで、妙に女性を意識させられていた。
 おそらく耳まで紅潮している。
 エレメス辺りに見つかったら、なんと言われる事か。いや、奴ならばまだいい。最悪はマーガレッタだろう。自分が面白いと判断
した事へは桁外れの行動力を見せる彼女だ。翌日には結婚行進曲を口ずさむんでのけるくらいはやりかねない。
 そんな思考を知ってか知らずか、カトリーヌはご満悦の様子だった。やはり子猫がするように、セイレンの肩にすりすりと頭を擦
り付けたりしている。
 蛇足ながら、このセイレンの懸念は杞憂だった。好意を隠すつもりもないカトリーヌと、芝居っ気などしの字も備えていないセイ
レンと。ふたりの仲など見れば自ずと知れる事。いわば周知の事実だった。
 彼女の部屋までは、距離的には遠く時間的には短い。
「着いたぞ」
 親しき仲にも礼儀あり。レディの部屋のドアを、勝手に開けるわけにはいかない。いかにも堅物らしい思考で背中に到着を告げる。
が、返事がない。
「カトリーヌ?」
 不審に思って、セイレンは肩越しに見やり、そして苦笑した。眠っている。
 そういえば歩いている最中は自分の思考に沈んでいて、会話を交わしはしなかった。丁度部屋に居る時の延長のような形で、彼女
が傍らにあればこその幸福感にぼんやりと浸っていた。
「着いたぞ、カトリーヌ」
 声をかけつつ幾度か揺さぶると、ぼんやりとした目が数度瞬きして、それがうっすらとながら焦点を結ぶ。
「……セイレン」
「ん?」
「おなかすいた」
 またも彼は苦笑する。寝惚けていてもそれか。
「腹八分目だ。過度の食事は不摂生だぞ」
「……ん」
 しばらく考えてから、こくんと頷く。
「眠るならちゃんとベッドでゆっくりとにした方がいい」
 屈んでカトリーヌを降ろし、そのやわらかな髪に指を絡めながら、優しく撫でた。
「おやすみ」
「セイレン」
 そうして立ち去ろうとした袖が、くいと引かれる。
「……だいすき」
 爪先立ってセイレンの頬にやわらかな感触を残して、カトリーヌはすいと身を引いた。彼を見上げて、にふ、と悪戯の成功した子
供のように満足めいて微笑む。
 彼女は思う。彼のこんな顔は誰も知るまい。この表情は、きっとわたしだけのもの。
 大切に記憶の宝石箱にしまい込んで、そっと鍵をかける。決して忘れてしまわないように。
「――おやすみなさい」
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