例えるならば、疾風だろうか。
 いや。或いは知れずしてひとを侵して殺す、そんな猛毒が似つかわしい。
 壁際に追い込まれていたヒュッケバイン=トリスの眼前に迫った槍が、その軌道と交差する銀光に跳ね上げられた。更に閃く一閃。
かっ、と乾いた音がして、騎士の槍が切断された。穂先ごと持ち手の近くまでを切り落とされてしまえば、それはもう槍としても棒
としても扱いようがない。
 冒険者達の先陣にして前衛たるその騎士が、戦闘能力を喪失して呆然とした、そのほんのひと刹那の空白を利して。
「な…っ!?」
 まるで瞬間移動のような歩法で、彼はウィザードの前に居た。
 魔術によって重力の泥沼を作り出し、トリスの動きを束縛していたその男の眼前に。
「――滅」
 振るわれたカタールの刃は一息八閃。その悉くが太い血管を、急所を抉り捉え辺りを紅に染める。同道の司祭が回復法術を施す暇
すらなかった。魔術師の五体は、ちょうど癇癪を起こした子供が投げちぎった人形の手足の如くに、ほぼ千切られて四散する。
「この!」
 仲間の死に血を昇らせたか、騎士が身を捻った。用を成さなくなった槍を投げ捨て、腰の剣の鞘を払う。
 騎兵の武器とは、即ち速力。騎鳥によるひとには及ぶべくもない瞬発力であり、そしてそれを利した突進力だ。それが騎士の槍技
の爆発的な威力を支える根幹であり、その武器は槍が失われたからといえでも、同時に損なわれるものではなかった。
 騎首を返し――しかし、斬れない。
 彼はまるで蜘蛛の如く、低く床を這うような体勢だった。しかも位置は騎士の逆手側。身を乗り出して振るおうとも切っ先は届く
べくもない。一呼吸にも満たない逡巡の間に、彼は騎士の背後にまで走り抜ける。
 それは騎鳥の回頭性の低さを計算に入れた動きだった。彼はトリスのすぐ脇の壁を蹴って跳ねるように反転。中空に舞う。
「がッ!」
 騎士の苦鳴が漏れた。彼の勢いを受け止める格好になった体が数度痙攣し、ずるりと鞍から滑り落ちる。
 弾丸のような、全速度と体重とを乗せた一撃。練達の暗殺者が繰り出す刺突に、鎧など何の意味を為そうか。そして、刺して、捻
って、空気を入れる。それだけで人は声も立てずに死んでいくのだ。
 死体がふたつに増えた。それと同時に、独特の転移音。唯一の生き残りとなった司祭が、素早く移送法術を使ったのだ。こうした
撤退には慣れているようだった。屍は、それが食い尽くされたり破壊しつくされたりしない限り、どうにか蘇生が効く。機を窺って、
この死体を回収して逃れるつもりだろうと思えた。
 彼は、それには見向きもしなかった。主を失い暴れるペコペコの背から、音もなく降り立つ。
 その様を見て、トリスと詰めていた息を吐き出した。
 それは殺しの為に研ぎ澄まされた、殺しの為だけの技。目にすればぞっと総毛立ち、背筋が冷たい汗で濡れるような技術。
 だというのに、トリスはそれを美しいと思った。極限まで鍛えられた名工の剣が、芸術品としてもまた高く評価されるように。そ
れは彼女の目を奪わずにはおかなかった。
「あ……」
 我に返れば、彼が目の前に居た。身には返り血一つ浴びていない。それは彼の卓越した速度と戦技とを如実に示していた。一振り
して血を払ったカタールが、魔法のようにどこかに消え失せる。
 そうして、壁を背にへたり込んだトリスを見下ろして。彼は、それからどうしたらいいのかと考え込んでいるようだった。
 トリスはそこで思い至る。不慣れなのだ。彼は暗殺者だから。
 誰かを助けるのは。守るのは。とても、不慣れな行為なのだ。
 それでも手を差し伸べる事すらしない彼になんだかむかっ腹が立って、
「余計な事すんなこのバカ兄貴っ」
 気付いたら罵っていた。自分でも難儀なものだとは思うのだけれど、こうなったら後に引けないのが性格だった。
「こっから逆転するとこだったの! 必殺インベナムが炸裂して薙ぎ倒すとこだったの!」
「いや、しかしどう見ても……」
「逆転するとこだったの!!」
「……そうか」
 得心ではなく、諦めたようにそう言って。そして、
「ならば逆転ではなく、圧倒してくれ。最初から。その方が、安心できる」
「――え?」
 安心できる、と聞こえたような気がした。聞き違えたかと思った。
 冷徹にして冷酷なる暗殺者、氷の刃たるエレメス=ガイルが。心を動かされたと。心配したと、そう言ったのか。
 きっと、特別に扱われている。
 そう感じた。胸の辺りが、幸福でほんわりと温かくなるような心持ちがした。
「トリス」
 呼びかけて、ようやく思いついた解答のように彼が手を差し伸べてくる。たっぷり一秒半逡巡してから、少女はその手に掴まった。
 強い力でぐいと引き起こされた。驚くほど、そのひとの顔が近くなる。頬が熱くなる。
「うるさいなっ。もう恥ずかしいから下に帰ってよ。馬鹿兄貴!」
「しょんぼりでござる」
「ござる言うなっ」
 べしっと頭を叩いた。
 彼が時折見せる、そういう剽けた素振りが、何故だかひどく嫌いだった。そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、わずかな笑みで別れを告げて、彼は下への通路の方へと戻っていった。
 けれどひょっとしたら、どっかでクローキングして近くで見てるかもしれない。あれは心配性だから。
 でも。それでも、直ぐには戻ってこないだろうと。
「……あー、うん。でも、アリガトね」
 素直には言えない言葉を、そっと呟く。強く握られた自分の手に、意識せずにそっと触れていた。
「見ましたセニアさん!?」
「ア、アルマイア!?」
「見た」
「見た」
「見た」
「セニアにカヴァクにイレンドまでっ! いいいいつからそこに!? ってか雁首揃えて何してるのさアンタたち!?」
うっわー、と顔を真っ赤にして。
「トリスはお兄ちゃんラヴ、と」
「い、一線は越えないようにね」
「見た。最初から最後まで一部始終を」
「麗しき兄妹愛だねー」
「メモするなっ、越えるかバカ、見てたなら助けなさいよ! えと、えっと、もう知るもんかーっ」
 その日トリスは、拗ねて一階に出かけたまま帰ってこなかったとか。
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