「よし、研究記録と腕輪は大分集まったな」
 モンクは打ち倒した被験体へ、略式の弔意を示してからそう呟いた。
「うん。これだけあれば、レッケンベルを訴追する足がかりにはなると思うよ」
 受けて、騎鳥したナイトの娘もそっと瞑目する。彼女の手にした槍も、やはり血に塗れていた。
 今、彼らが所在する場所は生体工学研究所。
 レッケンベル社の唾棄すべき研究の果て、戦闘兵器と変ぜられた生きた骸たちの存在する場所だった。
 彼らの総勢4名。モンクにナイト、ウィザードにプリースト。同じギルドに属し、長くパーティを組んできた歴戦の兵だった。
「ね、見て」
 ウィザードが指差した先。ざっとの体感で判断するなら、およそ建物の中央に位置する辺りだろうか。そこに如何にも胡乱な立て札
があった。目をやればその先、十字に交差した通路の中央に階下への通路らしきものも見える。
「何々…『入場者のレベル制限区域。許可されていないレベルの研究員は出入りを禁ずる』? 怪しいな」
 札に書かれた文字を読み上げ、司祭は眉をひそめた。
 彼らがここに潜入したのは、ただ興味ばかりからではない。リヒタルゼン貧民街を彷徨う、そしてここ、レッケンベル本社に集う死
霊の無念怨念を晴らそうとしての事だった。
 とある秘密組織と手を組んで、レッケンベル社を弾劾すべく、この土地に封じられた研究資料と物証とを集めに忍び入ったのである。
「どうする? 行くか?」
「行く。ユミルの集積体の他にも、何か決定的なものが存在するかもしれねぇ」
 司祭の問いに、リーダーのモンクは頷いた。
 それに全員が頷き返す。
 彼らはいずれもが、ひととしてはほぼ極限近くにまで自らを鍛え上げた冒険者だった。自信と自負、そして覚悟は無論あった。

 だが、冒険者たちは知らなかった。
 腕試し。好奇心。正義感。そういった理由では、踏み込んではならない場所もあるのだ。
 けれど、冒険者たちはそれを知らなかった。
 残念ながら。そして、哀れな事に。
 そこは。その階は。
“彼ら”の終焉の地であり、墓標であり、そして今尚住居だった。


       *                  *               *


「……薄暗いな」
「気味悪いね」
 降りた先は、廃材の山だった。まるで誰かがこの通路を塞ごうとしたかのように。余程に見られたくないものがあるのだと、冒険者
たちは確信を深める。
 更に上と比して、奇妙に周囲は薄暗い。高濃度の怨念の為せる業であるのかもしれなかった。
「明かり、灯しましょうか?」
「待った。よしといた方がいい。何がいるか判らないんだ」
「あー、上にいた虫みたいなのは勘弁して欲しいかな」
 全然攻撃当たらないんだもん、と付け加えてむくれた騎士に、一堂が失笑する。
 そこに、来た。
「人…?」
 現れたのは影。豪奢なマントを背に、一刀を引っさげ、その姿は勇壮な騎士のようだった。
 だが。
「違う! 敵だ!」
 濃密な敵意と殺意。ここに籠もる怨念などとはまるで桁違いの、圧倒的な存在感。それが教えていた。そこに在るのは人間ではなく、
ただひとの似姿である別のモノだと。
「ファイアウォール!」
 反応は、ウィザードが最も迅速だった。彼我にはまだ距離がある。そしてこちらは戦闘体勢がまだ整ってはいない。炎の壁で時間を
稼いで――。
 炎は、瞬時に踏み割られた。敵は火性の属を宿していたのだ。
 だがその時には、他の仲間も反応している。モンクと騎士のふたりが、示し合わせたように進み出て壁となる。襲い来る疾風の剣速
を騎士は盾でいなそうとし、
「うそっ!?」
 捌ききれずに軽く跳ね飛ばされた。落騎は辛うじて免れるが、動揺は隠せない。
 どこに身を隠していたのか。その隙を狙い澄まして、更に新たな影が襲い掛かった。今度の敵は、鍛冶師の姿をしていた。大斧を枯
れ枝のように軽々と振りかざして跳躍、真っ向から両断する勢いで騎士目掛けて振り降ろす。
 受けもかわしもならない姿勢。騎士は致命傷を予感して、刹那硬く目を閉じる。が、衝撃はいつまで経っても来なかった。
「お前は向こうを防げ」
 聞き慣れた冷静な声。伝法ながらも優しい声。斧の刃を、モンクの両掌がものの見事にはさみ取っていた。重力と体重、そして加速
による衝撃までもを受け流し、敵手の得物をがっちりと固定する。
「こいつは、俺が引き受ける」
 一瞬の不覚を見せたとはいえ、騎士もまた歴戦。即座に首肯するや、騎首を返してロードナイトと向かい合う。
「サフラギウム!」
 その間、後衛たちもぼんやりしていたわけではない。難敵と見て取って、司祭はすかさずが詠唱短縮の祝福儀礼を施す。間髪入れず、
ウィザードが詠唱開始。呼吸はぴったりと合っていた。組み上げる術式は停止。あらゆるものを凍てつかせ、生命活動そのものをも凍
りつかせる吹雪の召喚。
「――ストーム」
 おそらく。その事が順番を決めた。
 それは、全く死神以上だった。
 気付けば喉元に刃を突きつけられている。死角から不意に手傷を負わされている。そんな不意打ち程度の代物とは、次元が根底から
異なっていた。
 ウィザードは、自分の身に何が起こっているのかすら認識できなかった。
 ただ、寒いとだけ感じた。恐ろしいほどの冷気が、風が吹き抜けていったと、そう思っただけだった。
「――!?」
 だが、唐突な激痛に、集中は破られた。痛みの源に視線を落とせば、自分の胸に真っ赤な華が咲いていた。
 風。先のそれが、どこか取り返しのつかない器官を損傷していったと気付いたのは、その時だった。そして彼女が感じ取ったのは、
感じ取れたのは、それだけだった。
 術式の構築が停止しても、けれど風は止まらない。何が、どこから、どういった手段で襲ってきているのか。皆目見当もつかなかっ
た。
「…っ、…っ」
 泣き出しそうなほどの冷気が突き刺さる。貫かれるその度に、びくんびくんと肉体だけが自動反応する。声は出ない。出せない。仲
間達の誰一人として、この窮地に気付いてはくれない。彼女は今、とてつもなく孤独だった。手を伸ばせば届くほどの距離が、恐ろし
いほどに遠かった。
 伝わる衝撃は最小。しかし殺傷には十二分。
 自分の体が解体されていく行程を、ただ寒さとしてしか認識できない。まったくの無音。そして無痛。痛みすら存在しないという事
実が、逆にひどく恐ろしかった。
「あ……」
 ぐらりと世界が傾いてく。違う。自分が倒れていくのだ。もう、死ぬのだと判った。
 最後の力で頭を巡らす。だが、瞳は何も映さない。誰も、どこにもいなかった。標的を屠った後でさえ姿を垣間見せもしない、完全
にして完璧の暗殺術。インヴィジブルアタック。
 
 ――眠れ。とこしえに。

 何者かが囁いた。風が、彼女の白い喉を薙いだ。
 一体何が己を葬ったのかすらも判らぬまま、魔術師は紅を撒き散らして死んだ。


       *                  *               *


 司祭は怪訝に思って振り向いた。本来ならもう完成しているはずの魔術式。それが未だに発動していない。
 重ねてきた経験との違和感。それが前衛たちから目を離して、ウィザードの方へと注意を向けるきっかけだった。
 そして息を呑んだ。彼女の喉が、ぱっくりと切り裂かれていた。更に胸元に生じる赤。それが血であり、染み出した命であると気付
いた時にはもう遅かった。
 あらゆる臓器を完膚なきまでに破壊するという徹底した意図で。彼女の体には、ありとあらゆる方向から、刃がねじ込まれていた。
もう、ウィザードは息絶えていた。
 言葉にならない激情が体を駆け抜ける。微かな慕情を抱いていた相手だった。明確に言い交わしたわけではないけれど、彼女も同じ
ように思っていてくれたはずだった。だというのに。
 それでも彼は、まだ少しは冷静だった。
「ルアフ!」
 理性で感情を押さえ込み、知性で状況を把握して、すかさず周囲に聖光を巡らす。いない者が害を及ぼす事はありえない。ならば見
えぬながらも、何かがいるのだ。そこに。
 判断通りに。光に暴き立てられ、ひとりの男が姿を見せた。出で立ちはアサシン。
 身を隠すもののひとつとてありはしないのに、一体どうやって姿を消していたのか。それを男にに問えば、愚問と一笑されたろう。
 エレメス=ガイル。
 暗殺者は物理的な死角に潜むのではない。ひとの心の死角にこそ忍ぶのだ。
 そしてエレメスは冷静で、冷徹だった。聖光は影に沈む者の身を焼く。けれど彼は何の痛痒も感慨も見せず、ただ一個の武器である
が如くに疾駆。司祭の首を狙う。
「くっ!」
 プリーストの懐で、触媒が弾けた。セイフティウォール。練熟の速度で構築された術式が、光り輝く頼もしい障壁が、尋常ならざる
速度で踊る刃を弾き返す。それは如何なる物理干渉とて絶対遮断する嘆きの壁。
 長くは持たないが、撤退の時間くらいは稼げるはずだった。その安堵が、怒りを蘇らせる。

 ――オレは必ず戻ってくる。そして必ず貴様を殺す。

 聖職者にあるまじき瞋恚に身を焦がしながら、彼は暗殺者を睨んだ。冷静さは奪われた。彼は忘れていたのだ。敵が、ひとりではな
いという事を。

 どんッ!

 司祭の体を、重い衝撃が貫いた。
「な…?」
 槍が、生えていた。腹を斜めに貫通して床に突き刺さり、その体を縫い止めていた。
 セイフティウォールの境界の光、ゆらゆらと踊るその向こうに、姿が見えた。
 セイレン=ウィンザー。
 剣と槍の双方を繰るその闘術に、距離的死角など存在するはずもなかった。
「ぐ、あッ!」
 思わぬ苦鳴が漏れた。ずるずると槍が抜けていく。まるで見えない鎖でつながれているかのように、ロードナイトの手の動きに合わ
せて、それは主の元へと還る。ニ撃目が来る。
(ニューマを…!)
 一撃目を防げなかったのは当然。セイフティウォールは、その障壁の周囲で発生する力の流れにしか干渉しえない。
 しかし相手の手札が判っているならば話は別だったそういった遠距離攻撃に対応する防護法術を展開してやれば、対応は充分に可能
だ。けれど原則として、同じ場所に呪力場を展開する事は叶わない。僅かでも身を移して。
 そして、彼は絶望する。セイフティウォールの外には、じっと自分を観察するエレメスの瞳があった。硝子玉のようなそれは、暗殺
者達が殺すのは、まず己自身であるという逸話を思い出させた。
 そう。セイフティウォールから一歩でも出れば、エレメスの刃が全身を切り刻む。
 かといって。
 セイレンは投擲を阻害せんと必死で撃ちかかる騎士を、まるで子供のように片腕一本であしらっていた。あしらいながらゆっくりと、
もう一方の手で槍を構えるのが見えた。
 逃げ道などなかった。
 彼は、弓手の弟が言っていたのをふと思い出していた。射撃においては、頭部や四肢に較べて動きの少ない腹部をまず狙うのだ。そ
うして機動を封殺して、止めの一矢を獲物へと贈る。

 ――ああ、本当にその通りじゃないか。

 どんッ!


       *                  *               *


 ――やべぇ。

 モンクの背筋を冷たい汗が伝った。
 後衛たちが壊滅したのは気配と、そして戦況から判った。未だに何の攻性魔術も発動しておらず、護身回復の支援法術も施されない。
背中側には、焼け付くような殺気が渦を巻いている。
 だが、彼とてそれ以上を探っている余裕はなかった。確かに、鍛冶師の武器を挟み取った。それは彼の絶対的優位を意味する筈だっ
た。だが、だというのに、この鍛冶師の馬鹿力と言ったら!
 彼の手に抑えられた武器をなんの躊躇もなくぐんぐんと押し込んでくる。押し込んで体に打ち当てて、そのまま腕力だけで両断して
くれようという風情だった。そしてこの怪力ならば、それは絵空事ではない。
 今にも膝を突きそうになるのを、堪えるので精一杯だった。長くは持たない。
 現状、同じく前衛を努める騎士は無事なようだったが、この状況ではそれも保証できない。
(コイツを片付けて、アイツを掻っ攫って撤退する!)
 援軍の期待できない篭城戦ほど愚かなものはない。瞬時に彼は断を下した。
 幸いにも、というべきか。気は既に練ってあった。放つ準備は整っていた。何を、問うは愚か。それはモンクの最終奥義。全身の気
を爆縮し、ただ拳一点に籠めて放つ。即ち、阿修羅覇王拳。
「おおおぉぉぉッ!」
 ずしん、と腹に響く震動を伴って、爆発的に彼の気が高められた。濃密な闘気に周囲の大気すら陽炎のように揺らいだ。
「――終わりだ」
 低く告げる。同時に掌を払って、鍛冶師の得物を捌いてのけた。力の方向を瞬時に変じ、己が望むままに操る。それは練達の武技の
みが為せる芸当だった。刹那泳いだ体に狙いを定め、鮫のようにモンクは笑う。如何な存在であろうとも、この拳を受けて地に伏さぬ
者はない。神であろうと叩き伏せる、悪鬼の業。勝利を確信し、秘拳を繰り出そうとした瞬間。
 視界に、不吉な光が踊った。
「セイフティフウォールだと――!?」
 それは。その術式は。如何なる物理干渉とて絶対遮断する嘆きの壁である。
 秘技中の秘技たる阿修羅覇王拳とて、その例外ではなく。光の守護壁は、無造作に秘拳を弾き返す。
 全身全霊を放出しつくして、彼は呆然と見た。
 今まで押さえ込んでいた敵手が、ゆっくりと体勢を立て直すのを。
 呆然と、見るしかできなかった。
 その術の発生源を。今まで気付かなかった、気付けなかった最大の伏兵を。
 マーガレッタ=ソリン。
 法術を修め切ったそのうつくしいひとは。
 視線を受けて、穏やかに微笑んで見せた。ゆったりと、優雅に。
「逃げてっ!」
 騎士の声は遅かった。爆発的な衝撃が左肩に炸裂する。血をしぶかせて、彼の体はアマツの玩具である独楽のように回転した。二発
目と三発目は殆ど同時だった。そう錯覚するほどの、絶対的な攻撃速度だった。下方から掬い上げるような斬撃。顎を砕き、削ぎ落と
さんというそれを、鍛えぬいた戦闘本能が辛うじて盾で受け流す。しかし鈍い音で盾をガラクタに変えた大斧は、振り子のように舞い
戻って容赦の無い返しの一撃として、鎧の上から背骨をへし折ってのける。
 その速度。強力。それはまさに、ひとの形をした暴風だった。
 彼は、それでも倒れる事は許されなかった。背への衝撃で反るように泳いだ体。その腹に、更に圧倒的な質量が炸裂する。せめても
の僥倖であったろうか。彼はそれで未来永劫、何も感じる事がなくなった。彼の残骸はまるで小石か何かのように、ふたつの放物線を
描いて生体工学研究所の壁に激突。べったりと赤い染みを残す。
 鍛冶とは学問である。より良い武具防具を鍛えようと思えば、自然人体に通じていなければならない。骨格、筋肉、関節の稼動域。
力点支点の様々な位置。それらを知悉せずして、何の工夫が為せようか。
 ハワード=アルトアイゼン。
 彼は精通する。直し方から、壊し方まで。
 そもそも鋼鉄どころか神の鉱石と呼ばれるオリデオコンすらも意のままの形状に鍛え上げるその怪力に、人の身が耐えうるはずもな
かった。


       *                  *               *


 騎士は走った。仲間の元へ、ではない。ただ逃げたのだ。圧倒的過ぎる恐怖から。
 仲間の仇を討とうなど、もう一瞬たりとも思えなかった。如何にあの化け物どもが強大な力を誇るとはいえ、結局は人の似姿。ペコ
ペコの機動力に叶うはずはない。そう判断しての、ただ只管の逃走だった。
 化け物だ。あいつらは化け物だ。頭の中をぐるぐるとそれだけがリフレインする。自分たちは一騎当千のはずだった。4人揃えば大
抵の相手は容易く打ち払えるはずだった。古城に棲む強大な魔物たちですら、自分たちは皆で打ち破ってきたのだ。
 なのに。
 目の前のこいつらは規格が違った。ほんの十数秒で、皆殺されてしまった。
 ウィザード。いつも優しかった。洒落っ気もセンスもない自分に、服や装飾をよく選んでくれたものだった。
 プリースト。一途で真面目な青年だった。ひどく判りやすくて、いつか恋の橋渡しをしてやろうと思っていた。
 リーダー。口は悪いけれどなにくれと優しくて。頼りになるひとだった。その背中に、いつしか憧れ以上のものを抱いていた。
 なのに、皆死んでしまった。
 涙が頬を伝う。けれど、逃げ切れたと判断するのは早計だった。
「きゃうッ!?」
 突如騎鳥の背から振り落とされて、彼女は受け身も取れずに地を転がる。
「な、何? どうしたの?」
 顔を上げた彼女が見たのは、無残なペコペコの死骸だった。大きな体躯はほぼ千切れ飛んで、まるで癇癪を起こした子供が振り回し
たぬいぐるみのような有様だった。それでいて凄惨さが薄いのは、四散した死体の悉くが凍り付いているからだろう。
 血の一滴も流れず、何の臭気も発しない、それは異常な死体だった。
「これって……フロストダイバー?」
 呟かずにはいられなかった。本来それは攻撃主眼というよりも、対象を氷結させ拘束する事を目的として使用される魔術である。こ
の術で標的が死んだとしても、その死体は氷像として固定されるのだ。
 だが目の前のこの例は、氷結よりも破壊が先に生じていた。恐るべき使い手の魔力が、氷結させるよりも先に対象を打ち砕いてしま
ったのだ。生じた尋常ならざる冷気の残滓として、まだ床の辺りをゆらゆらと、薄い霧が漂っている。
 そこで、ようやく彼女の頭がクリアになった。敵がいる。明確な殺意をもって術を用いた、敵が。最前の振り落としは、最後の最後
まで主人を庇おうとした愛騎の行動だったのだろう。
 その思考に応じるように。
 闇の向こうから、ゆっくりと人影が現れた。何の感慨も持たないような、冷たい瞳が彼女を射る。
 カトリーヌ=ケイロン。
 齢若干にして無数の、そして独自にして圧倒的な術式の数々を修めた、それは希代の魔術の使い手だった。
 逡巡なく、矢のように騎士は駆けた。相手の得手は魔術ともう知れている。ならば近付く事だ。接近して、詠唱さえ止めれば!
「――」
 読み通り、敵手は詠唱を開始する。その構築は恐ろしく速い。しかし。
(いける!)
 初動の速さが功を奏した。勝機を見たと思った。術を組み上げ切る前に、彼女の槍がその身に届く。一度射程に捉えさえすれば、相
手は脆い魔術の徒。力押しで押し切れなくもないはずだ。
「喰らえッ!」
 愛騎の加速こそ失ったものの、それまで疾走を威力へと昇華して、放たれるは必殺必中の槍撃。
 だが。
「え――?」
 騎士の穂先は、彼女の体をすり抜けた。槍ばかりではない。勢い余ってたたらを踏んだ騎士の体、それすらもが魔術師の体を透過す
る。
 魔物の中には、思念に近い属性を持つものが存在する。四性の属いずれかを宿して打ち上げられた刃や司祭の祝福、弓手たちの用い
る特殊な矢や賢者の扱う属性付与。そういった特殊技術を用いぬ限り、それらを傷つける事は叶わない。
 今のカトリーヌの肉体は、限りなく物質として薄くなっていた。つまり、前述した思念体に近い存在となっているのだ。それは意
志を鎧として纏うエナジーコートの発展系ともいえる、喪失された守護魔術のひとつだった。
 敢えて繰り返す。魔術師の名はカトリーヌ=ケイロン。
 失われた秘法、封ぜられた秘術に遍く通じる者である。
 呆然と立ち尽くす騎士の眼前で唱呪は続く。恋を囁く事こそ似合いそうな可憐な唇が紡ぐのは、しかし死の宣告だった。
 また、フロストダイバーだろうか。騎士は思う。そして否定する。違う。これは、今編まれている魔術は違う。もっと長くて、剣呑
で、恐ろしい代物だ。
 彼女の記憶は己の運命を悟りたくなくて、それがなんであったのか思い出すのを拒絶する。
 後退りつつ、必死で荷物袋を弄った。転移の呪具を使えば。そうしさえすれば、そこはあの愛しいプロンテラ。平和で、安全で、そ
りゃちょっとばかり喧しくて鬱陶しいのもいるけど。でも、でも仲間達が、皆が居て――。
 慄く指は動かない。いつもなら簡単に解けるはずの、その口紐すら緩められない。
「や…いや、やめて……ッ」
 呪句を紡ぎながらの、哀れみの視線が応じた。その目は言っていた。

 ――こんなところへ、来なければよかったのに。

 そして、術式が完成する。織り上げられた雷球は、哀れな騎士を跡形も残さずに灼き払った。


       *                  *               *


 地下4階。“彼ら”の住処たる3階のひとつ下には、禁断の叡智が水に飲まれて眠っていた。その悪夢のような知恵と知識の結晶こ
そが、“彼ら”をして変貌せしめ、ここに縛り付けた元凶だった。
 故に、“彼ら”は決めていた。そこには何者も近づけさせないと。あの所業は繰り返させはしないと。
 如何な理由、道理を持つ者であろうとも。
 我らは地下に潜む悪鬼。無慈悲なる血塗られた壁として、ただ絶対の恐怖として立ちはだかるのみである。


「ふー、終わったな」
 両手を組んでぐぐっと伸ばし、それからハワードはごきごき首を回した。早速懐を探って一服を決め込む。
「皆さん、お疲れ様です」
 ゆったりと言いながら、鋭い観察でマーガレッタは皆を確認。
「怪我人はいませんわ」
「ああ」
 軽く頷くのみの、素っ気無いとすら思える彼の返答。けれどその目が、ふっと穏やかな色を取り戻すのを、彼女は見逃しはしなか
った。このロードナイトが誰よりも皆の身を気遣うとを知っているからこその、マーガレッタの言いである。
 エレメスもまた、そのやり取りで肩の力を抜く。軽く瞬きをして瞳の冷たい刃の光を消した。そして、
「姫! 姫! されど拙者のハートが大火傷でござるよ!」
「はいはい」
 にっこり笑顔から振舞われる容赦のない一撃。エレメスは一回転して蛙のように床で潰れる。が、この男、恐ろしいほどにタフで復
活が早かった。がば、と両手を突いて上体を起こすや満面の笑みを浮かべて、
「今のは癒してくださる為の前準備でござるな! 流石の計画性にござるよ! ならばさあ! 遠慮なく、さあ!」
 すかさずレックスディビーナ。もう一撃クリティカルスラッシュをお見舞いしてから、痙攣するそれをもののついでで踏んでみた。
ぎゅむぎゅむ。あらやだ、ちょっと快感かも。
「……余計な事、言わなければいいのに」
 口元だけを微かに笑みの形にして、カトリーヌは呟く。それから、煙い、と隣に立つハワードの髪を引っ張った。
「ところで、セシルはどうした?」
 一堂を見渡し、ふとセイレンが問う。
「あー、多分、いつも通りだな」
 片手でカトリーヌをあやしながら、困ったもんだとハワードは肩を竦めて見せた。
「うむ、いつも通りでござるな」
 ふざけていた時の所作とはかけ離れた俊敏さで身を起こし、エレメスもまた、真顔に近い優しい笑みで。
「……目印にサイト、焚いておく」


       *                  *               *


 果たしてその頃、我等がセシル=ディモンが何をしていたかというと。
「何よ! 皆あたしを置いてどこ行っちゃったのよ!?」
 やっぱりぶち切れていた。
「あたしひとりで見回りしろっての? 皆してどこでサボってるわけっ!? ち、違うわよ、あたしは断じて迷子になったんじゃなく
て、皆がサボってるだけの話よッ!!」
 おまけにどこかへ向けて言い訳までしていた。
「別に寂しくなんてないけど! ないけど、皆、どこ行っちゃったのよー!?」
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送